ヘリット・トーマス・リートフェルト(1888-1964 Gerrit Thomas Rietveld)は、1888年に、家具職人の次男としてオランダのユトレヒトに生まれました。
初等教育を受けた後、12歳から父のもとで家具職人の見習いとして働き始めました。
1917年に、ユトレヒトの街中に自身の家具製作所を設立します。
『リートフェルトの椅子(1919)』 は、その造形がデ・ステイル(De Stijl)運動の理念を明確に表現するものとして、運動のグループ雑誌 『デ・ステイル』 で紹介されました。
デ・ステイルでは、色彩は形態を赤、青、黄の3原色と黒、灰、白のみに限定し、主観的、感覚的な色彩表現を絶ち、水平線、垂直線による幾何学的な構成によって物体を創造する事を理想とし、実際にリートフェルトもその影響を受け、家具に色彩を施すようになります。
椅子 『レッド&ブルー(1918)』 はその実験の好例と言えます。
しかし、リートフェルトはデ・ステイルのメンバーとは一定の距離を保っていました。
と言うのは、色彩が建築やその他芸術の形式を破壊すると考えたデ・ステイルに対して、リートフェルトは、色彩は形態と共に空間を視覚的に構築する媒体であると考えたのです。
シュレーダー夫人との出会いにより、リートフェルトは家具で行っていた実験を建築で実現します。
『シュレーダー邸(1924 Schroderhuis)』 は、水平線、垂直線による幾何学的な構成、面を貫く部材と3原色を使った各部材は建築構造を視覚的に明確にし、内部は可動間仕切りを設ける事で空間の自由な開放を可能としました。
それらはまさにデ・ステイルの空間イメージを実現していました。
シュレーダー邸は、『デ・ステイル』誌で発表されると共に、ヨーロッパ各国の多くの建築雑誌で取り上げられ、国際的な知名度を得ていきました。
リートフェルトは規格部材、規格パネルで構成する工業化住宅の設計にも着手しました。
『ガレージ付き運転手の家(1927)』 は、1×3mのコンクリートパネルで組み合わされる工業化住宅です。
又、住宅に必要な設備である階段、水廻り、電気設備、機械設備など規格化し工場で生産し、現場で組み立てる 『ハウス・コア(1929)』 は、今日のプレファブ住宅の先駆けとも言えますが、当時はあまりに先行した考え方であったため、スムーズに世に受け入れられたとは言えません。
その後も学校、美術館など様々な用途の建築物の設計を行いますが、多くは住宅の設計でした。
そして、1964年、シュレーダー邸で亡くなるまで家具や建築の創作活動を続けました。