モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。

世の中のすべての製品には歴史があり、現在に至ります。
製品の歴史、変遷、デザインを辿りたいと思います。

ヘリット・トーマス・リートフェルト

2013年09月04日 | 建築家・デザイナー

ヘリット・トーマス・リートフェルト(Gerrit Thomas Rietveld)ヘリット・トーマス・リートフェルト(1888-1964 Gerrit Thomas Rietveld)は、1888年に、家具職人の次男としてオランダのユトレヒトに生まれました。
初等教育を受けた後、12歳から父のもとで家具職人の見習いとして働き始めました。

1917年に、ユトレヒトの街中に自身の家具製作所を設立します。

『リートフェルトの椅子(1919)』 は、その造形がデ・ステイル(De Stijl)運動の理念を明確に表現するものとして、運動のグループ雑誌 『デ・ステイル』 で紹介されました。

デ・ステイルでは、色彩は形態を赤、青、黄の3原色と黒、灰、白のみに限定し、主観的、感覚的な色彩表現を絶ち、水平線、垂直線による幾何学的な構成によって物体を創造する事を理想とし、実際にリートフェルトもその影響を受け、家具に色彩を施すようになります。

椅子 『レッド&ブルー(1918)』 はその実験の好例と言えます。

しかし、リートフェルトはデ・ステイルのメンバーとは一定の距離を保っていました。

と言うのは、色彩が建築やその他芸術の形式を破壊すると考えたデ・ステイルに対して、リートフェルトは、色彩は形態と共に空間を視覚的に構築する媒体であると考えたのです。

シュレーダー邸(Schroderhuis)シュレーダー夫人との出会いにより、リートフェルトは家具で行っていた実験を建築で実現します。

『シュレーダー邸(1924 Schroderhuis)』 は、水平線、垂直線による幾何学的な構成、面を貫く部材と3原色を使った各部材は建築構造を視覚的に明確にし、内部は可動間仕切りを設ける事で空間の自由な開放を可能としました。
それらはまさにデ・ステイルの空間イメージを実現していました。

シュレーダー邸は、『デ・ステイル』誌で発表されると共に、ヨーロッパ各国の多くの建築雑誌で取り上げられ、国際的な知名度を得ていきました。

リートフェルトは規格部材、規格パネルで構成する工業化住宅の設計にも着手しました。
『ガレージ付き運転手の家(1927)』 は、1×3mのコンクリートパネルで組み合わされる工業化住宅です。

又、住宅に必要な設備である階段、水廻り、電気設備、機械設備など規格化し工場で生産し、現場で組み立てる 『ハウス・コア(1929)』 は、今日のプレファブ住宅の先駆けとも言えますが、当時はあまりに先行した考え方であったため、スムーズに世に受け入れられたとは言えません。

その後も学校、美術館など様々な用途の建築物の設計を行いますが、多くは住宅の設計でした。

そして、1964年、シュレーダー邸で亡くなるまで家具や建築の創作活動を続けました。


ヨーゼフ・ホフマン(世紀末の建築家-2)

2013年08月21日 | 建築家・デザイナー

画像名称ヨーゼフ・ホフマン(1870-1956 Josef Hoffmann)は、1870年、現チェコ共和国の東部モラヴィア地方に、生まれました。
モラヴィア地方は東ローマ帝国やフランク王国の影響、共産化の経験など、外部からの影響を多分に受けてきた地域です。

ホフマンの父は紡績工場の経営者で、よく工場を出入りしていたホフマンはおのずと装飾に対する感覚を養う事が出来たようです。

工芸学校で建築教育を受けた後、20代の頃、ウィーンのリングシュトラーセに立ち並ぶ新古典主義の建築物の数々を設計した建築家カール・フォン・ハーゼナウアー、その後、オットー・ワーグナーに師事しました。
オットー・ワーグナーについて

1897年、ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ、コロマン・モーザ-、グスタフ・クリムトなど建築家、芸術家、工芸家たちと共に、オットー・ワーグナー賛助の元、 『ウィーン分離派 ゼセッション(1897-1920 Secession)』 を設立しました。

1903年、コロマン・モーザ-と共に、 『ウィーン工房(1903-1932 Wiener Werkstatte)』 を設立し、建築、家具、日用品など生活に関わる広範囲にわたる製品につき創作活動を開始します。
ウィーン工房での活動時期、ホフマンは品質面で妥協をせず、あくまで高品質なものを追求し、結果的に本来目指すべき手ごろな価格の大衆向け家庭用品の製造と市場への供給が困難となりました。
そして、元々の理念とはうらはらに、富裕層向けの装飾品を製造する事になり、1932年にウィーン工房は倒産しました。

画像名称ホフマンは 『芸術家には2種類ある。物を理性的に構築し、体系的に発展させるタイプと、何かを突然思いつくタイプである。』 と述べた事があり、さらに 『私は後者だ。』 と付け加えています。
この表現こそ、ホフマンが始終自由な創造性を目指していた裏づけと言えます。

左はホフマンが設計した ストックレー邸(1904 Le palais Stoclet) ですが、建築の外装、内装、家具、日用品、食器に至るまで、ホフマンの理念に基づき総合的に設計された作品のひとつです。

ホフマンは、1956年ウィーンにて亡くなるまで、工芸品を製作し続けました。


オットー・ワーグナー(世紀末の建築家-1)

2013年08月20日 | 建築家・デザイナー

オットー・ワーグナー(Otto Wagner)オットー・ワーグナー(1841-19 Otto Wagner)は、1841年にウィーン郊外に生まれました。

学生時代はウィーンとベルリンで建築を学びますが、いずれの都市も 『新古典主義建築』 が立ち並ぶ街だった事もあり、卒業後には、古典様式の理念を踏襲する仕事に携わる事が多かったようです。
『新古典主義建築』 について

しかし、1890年代に大規模な都市計画に携わる機会が訪れ、近代の都市に必要とされる要素について深く思考します。

そして、ワーグナーは、 『芸術は必要にのみ従う。』 と主張し始めます。

 

ウィーン郵便貯金局(Österr Postsparkasse)『芸術は必要にのみ従う。』 とは、つまり、装飾は必要に応じ配されるべきで、空間の機能性、合理性を妨げてはならないという考え方です。
左の 『ウィーン郵便貯金局(1906 Österr Postsparkasse)』 は、過度な装飾を廃止、吹き抜けを設け、その上部はトップライトとする構成で今日でも違和感のない開放的で機能的な空間が演出されています。

 

アム・シュタインホーフ教会(Kirche am Steinhof)オットー・ワーグナーの作品の多くは、アールヌーヴォーほど曲線を多用せず、どちらかと言うと、線と面、そして幾何学的な文様で構成され、左右対称の空間構成が多かったと言えます。
又、外観は上品な装飾、文様が配され、オットー・ワーグナーの作品の特徴ともいえる配色、つまり、白、若草色、金色等の色合いで着色され、内部は機能性、実用性を重視しました。

左は 『アム・シュタインホーフ教会(1907 Kirche am Steinhof)』 ですが、ウィーン郵便貯金局同様、ワーグナーの晩年の作品で、彼の理念がよく表現されています。

オットー・ワーグナーの設計理念は、その後の 『モダニズム建築』 に受け継がれていきます。


チャールズ・レニー・マッキントッシュ(アール・ヌーヴォーの建築家-4)

2013年08月16日 | 建築家・デザイナー

チャールズ・レニー・マッキントッシュ(Charles Rennie Mackintosh)チャールズ・レニー・マッキントッシュ( 1868-1928 Charles Rennie Mackintosh)は1868年、スコットランド最大の都市グラスゴーに、警察官の息子として生まれました。
小さい頃、よく風景画を描いており、16歳の頃、建築家を志し、修行を開始します。

1890年、ジョン・ハニマン&ケペー事務所で建築活動を開始します。
マッキントッシュは当時、社会情勢が著しく変化し、又、科学技術の急速な発展を背景とするイギリスで、時代に沿った運動、つまり、新古典主義アーツ&クラフツ運動アールヌーヴォー、それら全てを体験していました。

 

ヒルハウス1(Hillhouse1)1893年にハーバード・マクネイアー、マーガレットとフランシス・マクドナルド姉妹の4人でデザイナーグループ 『ザ・フォー(The Four)』 を結成します。
結成当初は、ウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動に強い刺激を受けますが、数年後には、離反していき、『スコティッシュ・アール・ヌーヴォー(Scotish Art Nouveau)』 、すなわち、ベルギーやフランスのように植物や動物をモチーフとした曲線ではなく、直線、幾何学文様で構成されるモチーフが特徴の別名 『グラスゴー・スタイル(Glasgow Style)』 を確立しました。

マッキントッシュの造形は白色、灰色、パステル色、そして正方形を中心とする幾何学文様で構成される事が多く、 『アール・デコ(Art Deco)』 に通ずる印象を受けます。

 

マッキントッシュハウス(Mackintosh House)『ヒル・ハウス(1902 Hill house)』、そしてその空間に設置された家具『ヒル・ハウス1(1902 Hill house1)』 、さらには、 『ウィロー・ティールーム(1903 Willow Tearoom)』 、そして同空間に設置された家具 『ウィロー1(1904 Willow1)』 はマッキントッシュの造形理念を顕著に表しています。
これらは、建築空間、内装だけでなく、その空間を装飾する家具、小物まで総合的にデザインされ、それは 『建築はあらゆる美術の総合であり、全ての工芸の集合である。』 と考えるマッキントッシュの理念が明確に表現されています。

1899年にマクネイアーがフランシスと結婚し、ザ・フォーは解散し、その翌年には、マッキントッシュとマーガレットが結婚しました。

1900年、『ウィーン分離派 ゼセッション(1897-1920 Secession)』から第8回分離派展への招待を受けました。
展覧会では、マッキントッシュの作品が展示されました。
当時曲線を使うアール・ヌーヴォー様式の風合いが強かったウィーン分離派が、その後直線や幾何学的文様を多用する方向にシフトしていく事からも、マッキントッシュの影響は少なくなかったと言えます。
展覧会の後、ウィーン分離派のヨーゼフ・ホフマンたちとの深い親交関係は、国際的な運動の発展に繋がり、各国に影響を与えていきました。

第一次世界大戦の始まる1914年に、ロンドンのチェルシーに移り、新たに事務所を設立します。
アール・デコの 『バセット・ローク邸(1916)』 はこの時期の作品です。

1923年以後、身体の健康状態の問題なども原因で、建築の仕事からはなれ、南フランスで水彩画に専念しました。
1928年、ロンドンで亡くなりました。


アントニ・ガウディ(アール・ヌーヴォーの建築家-3)

2013年08月13日 | 建築家・デザイナー

スペインのカタルーニャ州、バルセロナに近い所にタラゴナという町があります。 タラゴナはローマの遺跡が点在する歴史のある町です。

アントニ・ガウディ(Antoni Gaudi)アントニ・ガウディ(1852-1926 Antoni Gaudi) は1852年、タラゴナに生まれました。

幼少の頃どちらかと言うと病弱だったガウディは、友人たちと自由に遊びまわることが困難で、一人で居る事が少なくありませんでした。
そのような環境の元、自然の風景を観察したり、動物、昆虫、植物に接する事を好むようになります。

ガウディの建築作品には植物、小動物、昆虫などのモチーフが多用されますが、それらは幼少の頃の自然との接点が多分に作用したのではないかと考えられます。

1873年にバルセロナで建築を学び始めますが、建築だけでなく、その他の芸術や美術、さらには哲学や歴史など多様な分野について研究熱心でした。

ガウディが仕事を始めて間もない頃、折りよく 『パリ万国博覧会(1878)』 が開催されました。
博覧会では、出展企業の商品を展示するショーケース等を設計しましたが、それらガウディの作品が富豪 エウセビ・グエル(1846-1918 Eusebi Guell) の目にとまりました。

グエル公園(Park Guell)グエルは、その後ガウディに 『グエル邸(1886 Palau Guell)』『グエル公園(1900 Park Guell)』『コロニアグエル教会地下聖堂(1898 Colonia Guell)』 など多数の建築、空間の設計依頼をします。
左は 『グエル公園(1900 Park Guell)』 にあるトカゲのオブジェですが、破砕タイルを貼り付けて装飾する手法はガウディの建築作品の特徴のひとつです。

グエルは、長きに渡りガウディの理解者として、又、パトロンとしての関係を保ちます。
又、グエルがガウディに依頼した案件がガウディの傑作と言われる作品になっているものも少なくありません。
それらの作品を目にすると、当時いかにガウディがのびのびと設計作業に専念出来たかを想起させます。

サグラダ・ファミリア教会(Sagrada Familia)1918年にパトロンだったグエルが死去した頃、バルセロナの経済状況の悪化、ガウディの親族など身の回りの状況が立て続けに悪化し、ガウディは内向的になります。

ガウディの晩年は周辺環境の悪化と同時に、ガウディの精神状況も決して良くなかったと思います。

1926年、教会に行く途中に路面電車に轢かれ亡くなります。
ガウディが事故にあったその時の身なりがあまりにみすぼらしかった事もあり、適切に迅速に医療処置がされなかった事が死に至った最大の要因のひとつと言われています。

さて、ガウディの死後間もなく1世紀が経とうとしていますが、現在なお建設中のガウディ設計の 『サグラダ・ファミリア教会(Sagrada Familia)』 は果たしていつ完成するか興味深いです。


エクトル・ギマール(アール・ヌーヴォーの建築家-2)

2013年08月09日 | 建築家・デザイナー

エクトル・ギマール(Hector Guimard)エクトル・ギマール(1867-1942 Hector Guimard)はフランスのリヨンに生まれ、アール・ヌーヴォー時代に活躍した建築家でした。

活動の拠点はパリが中心で、アール・ヌーヴォー様式の住宅建築を中心に公共施設、地下鉄の入り口等を設計しました。

ギマールは、ベルギーを訪問したこともあり、ヴィクトール・オルタ(1861-1947 Victor Horta)の建築作品を多数見学しました。
ヴィクトール・オルタについて

ギマールはフランスへ帰国後、自身の設計理念とベルギーでの多数の建築物参観の経験を元に、その後の設計の方向性を確立していきます。

そして、ギマールは、抽象的な曲線を多用し空間を創り始め、それは又、ギマールのアール・ヌーヴォーの装飾上の特徴とも言えます。

 

カステル・ベランジェ(Castel Beranger)特に、左の写真の 『カステル・ベランジェ(1898 Castel Beranger)』 は、ベルギーでオルタの 『タッセル邸(1892 L Hotel Tassel)』 を参観した時のインスピレーションを元に、フランスへ帰国後、さらに設計に邁進し完成させた集合住宅です。

さらに、その後のパリでアール・ヌーヴォーが流行するきっかけにもなったとも言えます。

しかしながら、ギマールがアール・ヌーヴォーに自身の思いを追求するに従い、装飾や各材料の加工もよりエスカレートし、結果、高額なものになってしまいました。

 

エクトル・ギマール(Hector Guimard)21世紀に入ると世界大戦によりヨーロッパ大陸の情勢が不安定になり、アメリカへ渡りました。

ギマールは1942年に亡くなりましたが、アール・ヌーヴォーの流行がほんの30年程度で終焉を迎えたように、ギマールもその後、長らく忘れ去られる存在となってしまいました。

実際に、ギマールが設計した公共施設、とりわけ地下鉄の入り口は沢山解体されたのは残念な事です。


ヴィクトール・オルタ (アール・ヌーヴォーの建築家-1)

2013年08月07日 | 建築家・デザイナー

ヴィクトール・オルタ(Victor Horta)ヴィクトール・オルタ(1861-1947 Victor Horta)は、1861年にベルギーで生まれました。 学生時代は芸術学校でデザインや建築を学びました。

その後、一時パリに住みますが、父の死を機にベルギーに帰郷しました。

左はユーロ加盟前のベルギーの紙幣ですが、当時の紙幣にオルタの肖像画が描かれていました。

 

ラーケン王室温室古典主義建築家のアルフォンス・バラの設計事務所で助手として採用され、産業革命後の新建築材料、鉄とガラスで構成される 『ラーケン王室温室(1880 Palais de Laeken)』 設計に携わった経験は、その後のオルタの建築設計の方向性を明確にします。

左はラーケン王室温室のドーム上部の写真ですが、王室の冠が最高部に取り付けられているのが象徴的です。

 

タッセル邸(L Hotel Tassel)30代の頃、アール・ヌーヴォーのデザインに触れる機会があり、衝撃を受けます。

後に手がける住宅設計は各部にアール・ヌーヴォーの特徴である曲線によるデザインを多用します。

又、オルタの住宅作品の多くで演出される鉄の柱や梁で曲線部材を構成し、大きなガラス窓で光を取り入れる空間は、ラーケン温室設計に携わった経験が土台になっています。

写真は、 『タッセル邸(1892 L Hotel Tassel)』 の内装です。
オルタの建築作品の最大の特徴の一つとも言える細い鉄材による架構、又、緻密な装飾は、近代に入り鉄が構造材として使用された恩恵を大いに享受した結果とも言えると思います。

 

タッセル邸(L Hotel Tassel)オルタはベルギーの首都ブリュッセルにアール・ヌーヴォー様式の住宅を沢山設計しましたが、写真の中央は、上の内装写真と同様に 『タッセル邸』 です。

さらに近辺に建つ 『オルタ自邸(1898 Maison de Victor Horta)』 を含め、ブリュッセルにあるオルタ設計の住宅は、 『ヴィクトール・オルタの都市型住宅群』 として、世界遺産に登録されています。
『都市型住宅』 とは、都市に立地する特性から、敷地面積は大きくはなく、又、間口に対して奥行きが深く、建物は3階建て程度の規模で、日本の長屋に似た形式の住宅を示します。

オルタがその後のベルギー建築界に与えた影響は絶大で、その事は、ベルギーフランに肖像画が使われた事からも容易に想像がつくかと思います。