モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。

世の中のすべての製品には歴史があり、現在に至ります。
製品の歴史、変遷、デザインを辿りたいと思います。

バウハウス(近代建築運動・芸術運動-13)

2013年09月06日 | 近代建築運動・芸術運動

バウハウス(Bauhaus)ドイツ工作連盟(Deutsche Werkbund) の一員だったワルター・グロピウスが、1999年、ワイマールに総合造形学校 『バウハウス(1919-1933 Bauhaus)』 を設立しました。
ドイツ工作連盟について

『バウハウス(Bauhaus)』 という名称は、中世の時代に教会堂を建てる際に必要な大工、石工、彫刻家などあらゆる部門の人々が集まる場所、そしてその組織を意味する 『Bauhutte)』 に由来します。
又、中世の工芸師たちの組合であるギルドで使われた親方、職人、徒弟という呼び方も復活しました。

バウハウスは、教育とその実践を重要視していました。
設立当初から、建築家、画家、彫刻家などの創造作業に関わる人たちをその能力に応じて教育し、あらゆる創造的作業を一つの統一体として作り上げる事を基本理念としました。
つまり、芸術工芸の統合です。

又、数年後には、芸術と工芸の統合に加え、 機械工業 との結びつきが強調されていきました。
組織が軌道に乗るにつれて、機械工業による大量生産を主眼とする教育とその実践が強化されていく事になったとも言えます。

ワイマールでのバウハウスの教育は、大きく形態教育工作教育に分かれ、それぞれに教育者が配置されていました。
形態教育では、形、色、材質などから生み出される美的感覚の養成、一方、工作教育では、絵画、彫刻、織物、陶芸、金工などの各工房のうちで、徒弟たちはそれぞれひとつの工房を選択し入門し、製作技術を学びました。
形態教育、工作教育を終了すると、職人の免状を取得でき、さらに職能審議会の試験を合格すれば、親方の称号を授与されました。

1923年に一時ワイマールのバウハウスは閉鎖され、デッサウに移設されました。
デッサウでは、ワイマールのように、形態教育と工作教育をそれぞれの教育者が教育するのではなく、一人の教育者が両方の教育に携わっていました。
と言うのは、ワイマールで統一的教育を受けた若い人たちが育ち、両方を担当し始める事が出来たのです。
このように、デッサウでは、芸術、工芸、科学技術の面で、総合的に教育する事を理念とされました。

モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。-ワシリーチェアー (Wassily Chair)又、工房の数もワイマール時代に比べて増加し、後に世界で始めての鋼管椅子を製造するマルセル・ブロイヤーは家具工房の教員として活躍していました。

1927年には建築部門が設立され、同時期にワルター・グロピウスが設計した校舎で教育が行われました。
デッサウのバウハウスでは、ワイマール時代からさらに発展して建築、芸術、工芸、科学技術の統合が目指されたのです。
近代技術の発達が各分野の分業と専門化をもたらしましたが、それぞれの分野の人たちが対等な立場で共同作業をし、統一体、総合体を作り出す事を理念としました。

そして、実用的、合理的な製品を創造する モダンデザイン の思想と理念は、その後の世界に影響を与えていきました。

1932年にバウハウスは社会主義的傾向を持っているとみなされ、ナチスに閉鎖させられました。

その後、ミース・ファン・デル・ローエ がベルリンで再建を試みるも、かろうじて6ヶ月継続した程度で1933年7月に封鎖されました。

しかし、バウハウスの思想と理念は、アメリカに亡命したバウハウスの指導者たちによって、引き継がれていきました。


ヘリット・トーマス・リートフェルト

2013年09月04日 | 建築家・デザイナー

ヘリット・トーマス・リートフェルト(Gerrit Thomas Rietveld)ヘリット・トーマス・リートフェルト(1888-1964 Gerrit Thomas Rietveld)は、1888年に、家具職人の次男としてオランダのユトレヒトに生まれました。
初等教育を受けた後、12歳から父のもとで家具職人の見習いとして働き始めました。

1917年に、ユトレヒトの街中に自身の家具製作所を設立します。

『リートフェルトの椅子(1919)』 は、その造形がデ・ステイル(De Stijl)運動の理念を明確に表現するものとして、運動のグループ雑誌 『デ・ステイル』 で紹介されました。

デ・ステイルでは、色彩は形態を赤、青、黄の3原色と黒、灰、白のみに限定し、主観的、感覚的な色彩表現を絶ち、水平線、垂直線による幾何学的な構成によって物体を創造する事を理想とし、実際にリートフェルトもその影響を受け、家具に色彩を施すようになります。

椅子 『レッド&ブルー(1918)』 はその実験の好例と言えます。

しかし、リートフェルトはデ・ステイルのメンバーとは一定の距離を保っていました。

と言うのは、色彩が建築やその他芸術の形式を破壊すると考えたデ・ステイルに対して、リートフェルトは、色彩は形態と共に空間を視覚的に構築する媒体であると考えたのです。

シュレーダー邸(Schroderhuis)シュレーダー夫人との出会いにより、リートフェルトは家具で行っていた実験を建築で実現します。

『シュレーダー邸(1924 Schroderhuis)』 は、水平線、垂直線による幾何学的な構成、面を貫く部材と3原色を使った各部材は建築構造を視覚的に明確にし、内部は可動間仕切りを設ける事で空間の自由な開放を可能としました。
それらはまさにデ・ステイルの空間イメージを実現していました。

シュレーダー邸は、『デ・ステイル』誌で発表されると共に、ヨーロッパ各国の多くの建築雑誌で取り上げられ、国際的な知名度を得ていきました。

リートフェルトは規格部材、規格パネルで構成する工業化住宅の設計にも着手しました。
『ガレージ付き運転手の家(1927)』 は、1×3mのコンクリートパネルで組み合わされる工業化住宅です。

又、住宅に必要な設備である階段、水廻り、電気設備、機械設備など規格化し工場で生産し、現場で組み立てる 『ハウス・コア(1929)』 は、今日のプレファブ住宅の先駆けとも言えますが、当時はあまりに先行した考え方であったため、スムーズに世に受け入れられたとは言えません。

その後も学校、美術館など様々な用途の建築物の設計を行いますが、多くは住宅の設計でした。

そして、1964年、シュレーダー邸で亡くなるまで家具や建築の創作活動を続けました。


デ・ステイル(近代建築運動・芸術運動-12)

2013年09月02日 | 近代建築運動・芸術運動

オランダでは、アール・ヌーヴォーが終焉を迎える19世紀初頭、創作は個人の感性を絶ち、客観的な表現を目指す事、又、機能的・合理的な現代生活にかなう様式を確立する事を目的とし、『デ・ステイル(1917-1931 De Stijl)』運動が始まりました。

デ・ステイルは、自然、感覚的な曲線を手本とするアール・ヌーヴォーの思考を払拭し、造形の3次元的なヴォリュームを、造形の基本となる平面に還元、整理、再構成し、対象を客観的に、普遍的にとらえ、直線的、幾何学的模様による表現を試みました。

又、機械技術の発展が純粋な形態を生み、機械による生産方式を採用する事が、純粋な美を創造する事を提唱します。

モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。-赤と青の椅子(Red and Blue)運動に参加した ピエト・モンドリアン は、個性的なもの、感性的なものを否定し、純粋性、普遍性を求め、抽象的構成を目指しました。

『純粋な造形的表現は、線、面、色彩の関係により創造される』 と主張し、主観的、感覚的な色彩表現を絶つために、色彩を赤、青、黄の3原色と黒、灰、白のみに限定しましたが、それは、デ・ステイルが、他の近代建築運動・芸術運動に比べて色彩的な印象が強くなる結果にもなりました。

左のリートフェルトの直線、面材で構成される椅子 『レッド&ブルー』 や、水平線、鉛直線、それらの線が集まり面を作り出し、面の集合体が造形を構成する住宅 『シュレーダー邸』 は、デ・ステイルの理念を具現化しました。

デ・ステイルは、同時期のバウハウス(Bauhaus)キュビズム(Cubism) などとも深く関わりを持ちました。


ドイツ工作連盟(近代建築運動・芸術運動-11)

2013年08月30日 | 近代建築運動・芸術運動

20世紀になり、大衆の生活が次第に豊かになるに従って、不特定多数の大衆に、迅速な日用品、製品の提供が求められました。
その為には大衆の手が届く範囲の価格帯で大量生産できる必要があり、機械による合理的な生産方式が必須となりつつありました。

しかしながら、ウィリアム・モリスが否定するところの工場生産の製品については、依然として粗悪品が少なくはありませんでした。

さて、ドイツは20世紀初頭、急速に他国並みの工業国へと発展していく過程で、装飾過剰に対する批判が強まり、一方、機能性、合理性重視の社会機運が高まりました。

モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。-ドイツ工作連盟( Deutsche Werkbund)工場生産の必要性は大前提となりつつある世の中の風潮の中でしたので、であれば工場で製造される製品の品質を向上できればいいのではないかと考えられはじめました。

そして、1907年、ミュンヘンにて、ヘルマン・ムテジウスを中心に、芸術、工芸、工業の相互協力によって、工業製品の品質を高める事を目標とされる『ドイツ工作連盟(1907-1934 Deutsche Werkbund)』が結成されました。

連盟内では、良質な製品の製造には、モリスのようにアートクラフトも同一人物が一貫して製造するべきだと考える派閥、逆に、近代以降の工場による生産方式を推進する派閥が対立しましたが、最終的には、アートクラフトが分離されても、工場で無理なく生産ができるのであれば良い、つまり、無理なく製造(クラフト)できる形状(アート)の探求が進められました。

つまり、合理的、普遍的、標準的な製品の製造を追及する事、その考え方こそが、モダニズムの思想の原点と言えます。

1933年に、ナチスに解散させられましたが、ドイツ工作連盟の思想は、後のバウハウス(Bauhaus)に多大な影響を与えました。


アール・ヌーヴォー、アール・デコまでと、その後

2013年08月28日 | 建築・芸術

これまで、近代のイギリスの産業革命以後の近代建築運動・芸術運動の流れをみてきました。

中世までは、職人たちが丹精をこめてものづくりをしていましたが、産業革命後、機械による工場生産へとものづくりの方式が格段に変化しました。

そして、産業革命の発祥地イギリスでは、機械生産を否定するウィリアム・モリスがアーツ&クラフツ運動を始めます。

さらに、ヨーロッパ大陸では、古典様式にとらわれない近代にあった様式の確立を理想としてアール・ヌーヴォーが始まります。
しかしながら、アール・ヌーヴォーは製造コストが高くなる特性上、結果、不特定多数の大衆が製品を手にする事は出来ませんでした。

ウィーンで始まったゼセッションはアール・ヌーヴォーほどの装飾性は付帯しませんでしたが、必ずしも機能的で合理的な空間を創造出来たわけでもありませんでした。

同時期にアメリカで流行したアール・デコも量産というよりは、むしろ一品生産でした。

このように、アール・ヌーヴォー、アール・デコに至る時期までは、装飾が主体となり、機能性、合理性はその次だったのではないか、どちらかと言うと装飾優先のものづくりであったのではないかと考えられます。

そして、いよいよ、機能性、合理性を重視するモダニズムの思想がヨーロッパ各地で芽生え始めます。


アール・デコ(近代建築運動・芸術運動-10)

2013年08月26日 | 近代建築運動・芸術運動

フランスでは、アール・ヌーヴォー以後、結果的にアール・ヌーヴォーが達成できなかった機械による大量生産に適した意匠、造形が求められました。

アール・デコ(Arts Decoratifs)1925年、後に 『アール・デコ(1910-1939 Art Deco)』 の語源となる 国際装飾美術展(L’Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels Moderns) がパリで開催されました。

アール・ヌーヴォーは、植物や動物、昆虫などをモチーフに曲線で構成される意匠が多く、結果的に工場生産に向かない生産方式となり、一般大衆の意向に沿えず、30年程度で流行が終わりました。

一方、アール・デコは直線、幾何学的なモチーフで構成され、工業生産に適する形態でしたが、後のドイツで始まる バウハウス(Bau House) 同様、シンプルな形態、意匠を求めつつも、一定の装飾を用い、華麗だったとも言えます。

又、アール・デコは建築、工芸、絵画、日用品、ファッションと、アール・ヌーヴォーに比べて、身の回りにある広範囲な製品を対象としていました。

アメリカは1925年のパリ国際装飾美術展に不参加でしたが、翌年にパリ国際装飾美術展出展作品を展示する巡回展がアメリカ各地で開催され、多くの人々がアール・デコの意匠、造形を目にする機会となりました。

クライスラービル(Chrysler Building)そして、当時のアメリカは摩天楼の時代で、ニューヨークのクライスラービル(1930 Chrysler Building )エンパイアーステートビル(1931 Empire State Building )など多くの高層建築は、アール・デコの造形をまとう事となります。

アール・デコは、20世紀前半の芸術運動の最後のスタイルと言えますが、世界恐慌、1933年のナチス政権の成立、又、同時期、 ル・コルビュジェ やドイツの バウハウス(Bau House) が提唱する機能主義の活発な動きとなども影響して、徐々に衰退していきました。

そして、いよいよ モダニズム(modernism) が確立されていきます。


ウィーン工房(近代建築運動・芸術運動-9)

2013年08月23日 | 近代建築運動・芸術運動

モダンデザイン・デザイナーズ家具・名作家具を考える。-ウィーン工房(Wiener Werkstatte)『ウィーン工房(1903-1932 Wiener Werkstatte)』 は、1903年、一般大衆、デザイナー、そして工芸職人との親密な関係を作り、簡潔で質の高い家庭用品を製作する事を目的に、 『ウィーン分離派 ゼセッション(1897-1920 Secession)』 の一員だったヨーゼフ・ホフマンとコロマン・モーザーが、分離派の作品を製作、販売する為、そして、分離派の理念をさらに発展させる組織として設立されました。
『ウィーン分離派 ゼセッション(Secession)』について
ヨーゼフ・ホフマンについて

ウィーン工房のデザインは、分離派のスタイルを踏襲して主として直線、幾何学的な要素で構成されますが、後期は、装飾的で幻想的な色合いを帯び始めました。

とりわけ、ヨーゼフ・ホフマンが品質面で妥協をせず、結果的に高品質なものを追求する事で、手ごろな価格でできる製造を阻む結果となり、元来目指すべき大衆向けデザインの可能性が狭められました。

そして、元々の理念とはうらはらに、富裕層向けの装飾品を製造する事になりました。

1932年に工房は倒産しました。


ウィーン分離派 ゼセッション(近代建築運動・芸術運動-8)

2013年08月22日 | 近代建築運動・芸術運動

万を持して民衆が主体となる近代が始まったはずのヨーロッパでしたが、オーストリアの首都ウィーンの中心部リングシュトラーセには、1880年代になってもなお威厳を保つ 『新古典主義建築』 が建て続けられていました。
『新古典主義建築』について

グスタフ・クリムト(Litzlberg am Attersee)そのような状況の元、旧来の保守的な形態構築方式から離脱し、美術、文学、音楽などのあらゆる芸術を一つの総合的芸術作品に融合する事を目的とする 『ウィーン分離派 ゼセッション(1897-1920 Secession)』 が、1897年、ヨーゼフ・ホフマンを中心にヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ、コロマン・モーザ-、グスタフ・クリムトたち建築家、芸術家、工芸家たちにより設立されました。
ヨーゼフ・ホフマンについて

『分離派』 とは、旧来の古典主義を重点とする思想性から離脱して、近代の生活によりふさわしい創作物を創出する運動を推進した建築家、芸術家たち、あるいはグループを示しますが、活動はオーストリア、ドイツを中心に展開され、そのうち最も強い影響力を持っていたひとつが、 『ウィーン分離派 ゼセッション』 です。

 

ウィーン分離派 ゼセッション(Secession)ゼセッションの活動の拠点は、ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ設計の 『分離派館(1898 Secession)』 で、正面ファサードには、分離派のモットーとして、 『DER ZEIT IHRE KUNST DER KUNST IHRE FREIGHT(時代にその芸術を 芸術にその自由を)』 の文章が掲げられました。

ゼセッションは、フランスやベルギーの 『アール・ヌーヴォー(Art Nouveau)』 とは本質的に相違点があります。
といいますのは、形態を重視し、曲線、植物、動物、昆虫などのモチーフを多様する事で動的な印象を与えるアール・ヌーヴォーに対して、ゼセッションはチャールズ・レニー・マッキントッシュたちグラスゴー派、つまり 『スコティッシュ・アール・ヌーヴォー(Scotish Art Nouveau)』 の影響を強く受けた事、さらには、不特定多数の大衆の近代生活を目標とした事より、平面・立面の構成、構造形式において実用性を重視した事、又、曲線より明確で合理的な直線や幾何学的な文様が使用される事で静的、質実剛健、均整のとれた様相となっている事などが特徴です。
『アール・ヌーヴォー(Art Nouveau)』について
『スコティッシュ・アール・ヌーヴォー(Scotish Art Nouveau)』について
チャールズ・レニー・マッキントッシュについて

ゼセッションは、1905年、中心的人物だったヨーゼフ・ホフマンたちが脱退する事で、次第に前衛性を失っていく事になります。


ヨーゼフ・ホフマン(世紀末の建築家-2)

2013年08月21日 | 建築家・デザイナー

画像名称ヨーゼフ・ホフマン(1870-1956 Josef Hoffmann)は、1870年、現チェコ共和国の東部モラヴィア地方に、生まれました。
モラヴィア地方は東ローマ帝国やフランク王国の影響、共産化の経験など、外部からの影響を多分に受けてきた地域です。

ホフマンの父は紡績工場の経営者で、よく工場を出入りしていたホフマンはおのずと装飾に対する感覚を養う事が出来たようです。

工芸学校で建築教育を受けた後、20代の頃、ウィーンのリングシュトラーセに立ち並ぶ新古典主義の建築物の数々を設計した建築家カール・フォン・ハーゼナウアー、その後、オットー・ワーグナーに師事しました。
オットー・ワーグナーについて

1897年、ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ、コロマン・モーザ-、グスタフ・クリムトなど建築家、芸術家、工芸家たちと共に、オットー・ワーグナー賛助の元、 『ウィーン分離派 ゼセッション(1897-1920 Secession)』 を設立しました。

1903年、コロマン・モーザ-と共に、 『ウィーン工房(1903-1932 Wiener Werkstatte)』 を設立し、建築、家具、日用品など生活に関わる広範囲にわたる製品につき創作活動を開始します。
ウィーン工房での活動時期、ホフマンは品質面で妥協をせず、あくまで高品質なものを追求し、結果的に本来目指すべき手ごろな価格の大衆向け家庭用品の製造と市場への供給が困難となりました。
そして、元々の理念とはうらはらに、富裕層向けの装飾品を製造する事になり、1932年にウィーン工房は倒産しました。

画像名称ホフマンは 『芸術家には2種類ある。物を理性的に構築し、体系的に発展させるタイプと、何かを突然思いつくタイプである。』 と述べた事があり、さらに 『私は後者だ。』 と付け加えています。
この表現こそ、ホフマンが始終自由な創造性を目指していた裏づけと言えます。

左はホフマンが設計した ストックレー邸(1904 Le palais Stoclet) ですが、建築の外装、内装、家具、日用品、食器に至るまで、ホフマンの理念に基づき総合的に設計された作品のひとつです。

ホフマンは、1956年ウィーンにて亡くなるまで、工芸品を製作し続けました。


オットー・ワーグナー(世紀末の建築家-1)

2013年08月20日 | 建築家・デザイナー

オットー・ワーグナー(Otto Wagner)オットー・ワーグナー(1841-19 Otto Wagner)は、1841年にウィーン郊外に生まれました。

学生時代はウィーンとベルリンで建築を学びますが、いずれの都市も 『新古典主義建築』 が立ち並ぶ街だった事もあり、卒業後には、古典様式の理念を踏襲する仕事に携わる事が多かったようです。
『新古典主義建築』 について

しかし、1890年代に大規模な都市計画に携わる機会が訪れ、近代の都市に必要とされる要素について深く思考します。

そして、ワーグナーは、 『芸術は必要にのみ従う。』 と主張し始めます。

 

ウィーン郵便貯金局(Österr Postsparkasse)『芸術は必要にのみ従う。』 とは、つまり、装飾は必要に応じ配されるべきで、空間の機能性、合理性を妨げてはならないという考え方です。
左の 『ウィーン郵便貯金局(1906 Österr Postsparkasse)』 は、過度な装飾を廃止、吹き抜けを設け、その上部はトップライトとする構成で今日でも違和感のない開放的で機能的な空間が演出されています。

 

アム・シュタインホーフ教会(Kirche am Steinhof)オットー・ワーグナーの作品の多くは、アールヌーヴォーほど曲線を多用せず、どちらかと言うと、線と面、そして幾何学的な文様で構成され、左右対称の空間構成が多かったと言えます。
又、外観は上品な装飾、文様が配され、オットー・ワーグナーの作品の特徴ともいえる配色、つまり、白、若草色、金色等の色合いで着色され、内部は機能性、実用性を重視しました。

左は 『アム・シュタインホーフ教会(1907 Kirche am Steinhof)』 ですが、ウィーン郵便貯金局同様、ワーグナーの晩年の作品で、彼の理念がよく表現されています。

オットー・ワーグナーの設計理念は、その後の 『モダニズム建築』 に受け継がれていきます。