ヨーゼフ・ホフマン(1870-1956 Josef Hoffmann)は、1870年、現チェコ共和国の東部モラヴィア地方に、生まれました。
モラヴィア地方は東ローマ帝国やフランク王国の影響、共産化の経験など、外部からの影響を多分に受けてきた地域です。
ホフマンの父は紡績工場の経営者で、よく工場を出入りしていたホフマンはおのずと装飾に対する感覚を養う事が出来たようです。
工芸学校で建築教育を受けた後、20代の頃、ウィーンのリングシュトラーセに立ち並ぶ新古典主義の建築物の数々を設計した建築家カール・フォン・ハーゼナウアー、その後、オットー・ワーグナーに師事しました。
オットー・ワーグナーについて
1897年、ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒ、コロマン・モーザ-、グスタフ・クリムトなど建築家、芸術家、工芸家たちと共に、オットー・ワーグナー賛助の元、 『ウィーン分離派 ゼセッション(1897-1920 Secession)』 を設立しました。
1903年、コロマン・モーザ-と共に、 『ウィーン工房(1903-1932 Wiener Werkstatte)』 を設立し、建築、家具、日用品など生活に関わる広範囲にわたる製品につき創作活動を開始します。
ウィーン工房での活動時期、ホフマンは品質面で妥協をせず、あくまで高品質なものを追求し、結果的に本来目指すべき手ごろな価格の大衆向け家庭用品の製造と市場への供給が困難となりました。
そして、元々の理念とはうらはらに、富裕層向けの装飾品を製造する事になり、1932年にウィーン工房は倒産しました。
ホフマンは 『芸術家には2種類ある。物を理性的に構築し、体系的に発展させるタイプと、何かを突然思いつくタイプである。』 と述べた事があり、さらに 『私は後者だ。』 と付け加えています。
この表現こそ、ホフマンが始終自由な創造性を目指していた裏づけと言えます。
左はホフマンが設計した ストックレー邸(1904 Le palais Stoclet) ですが、建築の外装、内装、家具、日用品、食器に至るまで、ホフマンの理念に基づき総合的に設計された作品のひとつです。
ホフマンは、1956年ウィーンにて亡くなるまで、工芸品を製作し続けました。
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