木下秀長(きのしたひでなが)
〔現代かなづかい〕きのしたひでなが
※下線部は信長公記以外の記事によります。
小一郎・羽柴秀長。秀吉の異父弟。
1574年7月信長父子の河内長嶋成敗に参戦し、
信長の軍勢として早尾口の先陣を
つとめる。つづいてしのはしの一揆
を撃退。
1577年10月秀吉の播磨・但馬進攻に帯同し、
但馬竹田城の城代として置かれる。
1580年4月羽柴秀吉の姫路攻めに帯同。英賀
を攻略して姫路にはいった羽柴秀吉
は、木下秀長に軍勢を預け但馬の国
へ乱入。すぐに平定し秀長は小田垣
に城を造営し方々に軍勢を置く。
但馬出石城主となる。1582年の本能寺の変後、
山崎の戦いに軍功があり、従五位下美濃守に
叙任。播磨・但馬の領主として姫路城に居住
した。
1583年の賤ヶ岳の戦い、1585年の紀伊根来
寺征伐に戦功をあげ、紀伊・和泉を領し、
さらに同年四国平定に大功を立て、大和の内
で加増され郡山城主となった。
1587年の九州征伐に一万六千の兵を率いて
出働。同年8月従二位大納言に叙任。大和
大納言と称された。
1590年正月ごろから病にかかり、翌1591年
正月大和郡山城で死去。
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小一郎・羽柴秀長。秀吉の異父弟。
1574年7月信長父子の河内長嶋成敗に参戦し、
信長の軍勢として早尾口の先陣を
つとめる。つづいてしのはしの一揆
を撃退。
1577年10月秀吉の播磨・但馬進攻に帯同し、
但馬竹田城の城代として置かれる。
1580年4月羽柴秀吉の姫路攻めに帯同。英賀
を攻略して姫路にはいった羽柴秀吉
は、木下秀長に軍勢を預け但馬の国
へ乱入。すぐに平定し秀長は小田垣
に城を造営し方々に軍勢を置く。
但馬出石城主となる。1582年の本能寺の変後、
山崎の戦いに軍功があり、従五位下美濃守に
叙任。播磨・但馬の領主として姫路城に居住
した。
1583年の賤ヶ岳の戦い、1585年の紀伊根来
寺征伐に戦功をあげ、紀伊・和泉を領し、
さらに同年四国平定に大功を立て、大和の内
で加増され郡山城主となった。
1587年の九州征伐に一万六千の兵を率いて
出働。同年8月従二位大納言に叙任。大和
大納言と称された。
1590年正月ごろから病にかかり、翌1591年
正月大和郡山城で死去。
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