『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国名家の系譜:松平・徳川氏

2016-12-05 00:00:00 | 戦国名家の系譜
【松平・徳川氏の歴史】

*清和源氏新田流とされる。三河国の有力

 武士団。本貫地は上野国新田郡徳川郷と

 いう。(旧地名:群馬県新田郡尾島町

 世良田、新地名:群馬県太田市世良田町)

*三河国松平郷に起こり、15世紀初めに

 岩津(岡崎から北北西に3km)に進出し、

 西三河三分の一を所領として発展した。

 室町幕府政所執事伊勢氏の被官として

 の活動が見られる。応仁・文明の乱では

 岡崎・安祥城などを入手した。このころ

 岡崎・安祥・能見(のみ)・長沢・形原

 (かたのはら)・竹谷・五井などの庶家

 が成立している。岩津松平氏は永正三年

 (1506)から同五年の今川氏との戦いで

 滅亡し、安祥松平氏が惣領となる。以後

 大給(おぎゅう)・滝脇・桜井・矢田・

 福釜・青野・藤井・などの庶家を分出する。

*しかし、長親(家康五代の祖父)が嫡男

 信忠より次子信定をとりたてたため、

 家中は分裂した。信忠は清康に家督を譲り、

 三木・浅井を分立させて隠居した。清康は

 本拠を岡崎へ移し、三河の統一をめざした。

 享禄四年(1531)より、清康は『世良田

 (せらだ)』を称する。(世良田二郎三郎

 清康・安祥四代岡崎殿)天文四年(1535)

 の清康の死(森山崩れ)で、惣領職は一時

 桜井家(信定)に渡った。広忠が岡崎に復帰

 するも、織田氏の圧力により、松平一族は

 分裂して衰退する。織田氏と抗争をする

 今川氏が、一時期三河一国を領有し、松平

 氏はこれに従った。桶狭間の戦いで今川義元

 が戦死すると、松平氏は今川氏から独立し、

 戦国大名として発展していき、豊臣大名と

 なって五奉行に列し、ついには慶長八年

 (1603)に家康が征夷大将軍に任ぜられ

 江戸に幕府を開き、統一権力者となる。

 この間に松平氏庶家は宗家の家臣化を遂げ、

 江戸期には大名・旗本として、その多くが

 存続した。

 
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