『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

亀井玆矩(かめゐこれのり)[1/2]

2016-09-24 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
亀井玆矩(かめゐこれのり)[1/2]

〔現代かなづかい〕かめいこれのり

 ※記事量が多いので2回に分けて投稿です。

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


新十郎。

尼子氏の滅亡後流浪の身となったが、1573年

因幡国で尼子氏再興をはかる山中鹿之助幸盛

に従い、尼子氏の旧臣亀井氏の旧臣亀井氏の

家号を継ぎ各地に転戦した。幸盛の死後はその

部下を率いて秀吉に属して戦う。


信長公記には、「山中(鹿介)幸盛の弟」と

あるが、実は尼子氏の旧臣で山中に従って

行動していた。

1581年10月羽柴秀吉の元へ「吉川元春が南条

    元続の羽衣石城と小鴨元清の岩倉城を

    取り巻いた」との注進が入り、秀吉は

    亀井玆矩の城へまず参陣する。そのとき

    吉川は羽衣石城と岩倉城に向けて、馬の山

    のふもとに着陣する。

1582年鳥取城攻略の功により因幡国鹿野城主

一万三千五百石となった。



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