『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国時代の会話:「内府殿、最近目が遠くなりまして」「おう家康殿、それではこの“目器”を進ぜよう!」

2016-09-24 18:00:00 | 純野のつぶやき、あるいは趣味と妄想
以前国立博物館で開催された『大徳川展』の

総合パンフレットの中に「徳川家康は眼鏡を

していた」
という記事がありました。



パンフレット中の解説は以下の通りです。

◎目器 一掛

長九・四四

安土桃山~江戸時代 十六~十七世紀

静岡・久能山東照宮博物館

わが国に眼鏡が伝えられたのは戦国時代で、

天文二十年(一五五一)に周防の大内義隆が

フランシスコ・ザビエルよりガラス器や鏡と

ともに贈られたとの記録(『大内義隆記』)

がある。徳川家康も眼鏡を所持した一人で、

『言継卿記』文禄二年(一五九三)九月十日

条に「江戸亞相へ晩ニ罷向了、酒有之、

目力子一ツ給了」とあり、流浪の公家、山科

言継に手許にあった眼鏡を贈っている。現存

する古眼鏡としては、京都大仙院の足利義政

所持と伝える眼鏡が名高いが、家康遺品にも

眼鏡がある。目器と呼ばれる無関節式の手持ち

の鼻眼鏡で、二掛伝わる。本品はその一つで、

枠は当時高価な黄色透明タイマイ製で、鞍部

には三カ所の透し彫りがなされている。レンズ

は欠失。作者はマカオを中心とした中国人の

タイマイ細工人であるとする説や、長崎の喜道

の作とする説がある。いずれにせよ、毛利輝元

や伊達綱宗の眼鏡に先行する古眼鏡の代表的

遺品である。

〔純野註〕

・「亞相」というのは大納言の唐名です。

・「言継」は“ときつぐ”と読みます。


なお解説中の「天文二十年(一五五一)」という

年代から見て、もしかしたら織田信長も家康と

同じく“目器”をはめていたかも知れません!



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