『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

木下藤吉郎(きのしたとうきちらう)[16/16]

2016-12-04 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
木下藤吉郎(きのしたとうきちらう)[16/16]

〔現代かなづかい〕きのしたとうきちろう

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


1596年11月秀吉、石田三成に命じて洛中の

キリシタンを捕縛させる。

1596年12月二十六聖人、長崎で殉教。

1597年1月秀吉、朝鮮再征を命じる。

1597年7月秀吉軍の小西行長・藤堂高虎ら、

巨済島で李如松の水軍を破る。

1597年9月秀吉、朝鮮出兵の際の戦死者供養

を行なう。

1598年1月秀吉、会津の蒲生秀行を宇都宮へ、

越後春日山の上杉景勝を会津に移す。

1598年3月秀吉、醍醐で花見を行なう。

1598年4月秀吉、堀秀治を越後春日山へ移す。

1598年5月朝鮮滞在中の秀吉軍の主力帰国。

1598年7月秀吉、諸大名に秀頼への誓詞を出させる。

1598年8月秀吉後事を五大老に依頼し、五大老

と五奉行とに誓詞を交わさせる。同月秀吉、

伏見城で死去。同月家康ら、秀吉が派遣した

朝鮮からの兵力撤退を命じる。

1598年11月秀吉軍であった小西行長ら、釜山

から日本へ向かう。

1599年1月秀吉の死が公表される。



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