織田信張(おだのぶはる)
〔現代かなづかい〕おだのぶはる
太郎左衛門・津田太郎左衛門・左衛門佐。
織田藤左衛門の子で、小田井城主。信張
から見て信長は「いとこの子息」。
1556年7月津嶋の踊りの地蔵役。
1570年9~12月の叡山の浅井・朝倉攻めの時、
唐崎を守備。
1577年3月雑賀戦後佐野に造営した要害に城番
として入る。
1581年土橋守重は鈴木重秀の継父を殺害。
1582年1月遺恨に思った鈴木重秀は、上意を
得たうえで土橋を殺害し土橋の構え
を襲撃。信長が織田信張を大将として
根来・和泉の衆を応援に送ったところ
土橋の子と根来寺の千職坊の兄弟が
構えに立て籠もる。
1582年2月信長は雑賀で土橋の構えを攻めている
織田信張に、野々村正成を検使として
おくる。攻撃に成功すると敵根来寺
千職坊は逃げ出すが、斉藤六大夫が追い
かけうちとる。千職坊の頸は安土の信長
へ送られ、斉藤は森長定を使いとして小袖・
馬の褒美を授かる。戦後織田信張が土橋
の構えの城代としておかれる。
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太郎左衛門・津田太郎左衛門・左衛門佐。
織田藤左衛門の子で、小田井城主。信張
から見て信長は「いとこの子息」。
1556年7月津嶋の踊りの地蔵役。
1570年9~12月の叡山の浅井・朝倉攻めの時、
唐崎を守備。
1577年3月雑賀戦後佐野に造営した要害に城番
として入る。
1581年土橋守重は鈴木重秀の継父を殺害。
1582年1月遺恨に思った鈴木重秀は、上意を
得たうえで土橋を殺害し土橋の構え
を襲撃。信長が織田信張を大将として
根来・和泉の衆を応援に送ったところ
土橋の子と根来寺の千職坊の兄弟が
構えに立て籠もる。
1582年2月信長は雑賀で土橋の構えを攻めている
織田信張に、野々村正成を検使として
おくる。攻撃に成功すると敵根来寺
千職坊は逃げ出すが、斉藤六大夫が追い
かけうちとる。千職坊の頸は安土の信長
へ送られ、斉藤は森長定を使いとして小袖・
馬の褒美を授かる。戦後織田信張が土橋
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