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『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

織田信張(おだのぶはる)

2016-05-11 06:30:00 | 信長公記の蔵:人物篇
織田信張(おだのぶはる)

〔現代かなづかい〕おだのぶはる


太郎左衛門・津田太郎左衛門・左衛門佐。

織田藤左衛門の子で、小田井城主。信張

から見て信長は「いとこの子息」。

1556年7月津嶋の踊りの地蔵役。

1570年9~12月の叡山の浅井・朝倉攻めの時、

    唐崎を守備。

1577年3月雑賀戦後佐野に造営した要害に城番

    として入る。

1581年土橋守重は鈴木重秀の継父を殺害。

1582年1月遺恨に思った鈴木重秀は、上意を

    得たうえで土橋を殺害し土橋の構え

    を襲撃。信長が織田信張を大将として

    根来・和泉の衆を応援に送ったところ

    土橋の子と根来寺の千職坊の兄弟が

    構えに立て籠もる。

1582年2月信長は雑賀で土橋の構えを攻めている

    織田信張に、野々村正成を検使として

    おくる。攻撃に成功すると敵根来寺

    千職坊は逃げ出すが、斉藤六大夫が追い

    かけうちとる。千職坊の頸は安土の信長

    へ送られ、斉藤は森長定を使いとして小袖・

    馬の褒美を授かる。戦後織田信張が土橋

    の構えの城代としておかれる。


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