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『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

池田恒興(いけだつねおき)[2/4]

2015-10-24 17:07:55 | 信長公記の蔵:人物篇
池田恒興(いけだつねおき)[2/4]

〔現代かなづかい〕いけだつねおき


 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


1578年11月信長の荒木成敗に参戦。

1578年12月倉橋取手に在陣。

1579年4月川端取手の城番をつとめる。

1580年2月信長は織田信澄・塩河国満・惟住

    長秀の三人に、花隈城に向けて取手を

    造営し、池田父子(恒興・元助・幸親)

    を入れておくよう命ずる。

1580年3月花隈城勢が池田父子三人の取手に

    軍勢を寄せてくると、池田元助・池田

    幸親兄弟が敵陣に駆け込みきりまわり、

    父恒興も駆けつけてきを5~6人討ち

    取る。

1580年6月中西新八郎・星野左衛門・宮脇

    又兵衛・隠岐土佐守・山脇勘左衛門

    の五人は、池田恒興の与力となるよう

    指示が下る。

    その後荒木村重の旧領を賜り、恒興・

    幸親は尼崎城に入る。


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