『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

日野輝資(ひのてるすけ)

2019-01-16 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
日野輝資(ひのてるすけ)

〔現代仮名遣い〕ひのてるすけ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


日野殿・日野中納言殿。晴光の子。日野氏は藤原

氏北家流。山城宇治郡日野を伝領して称号とした。

1577年従三位・参議。

1579年11月中納言。


1573年7月将軍義昭の指示で二条城に籠るも、信長

    方に攻囲されただけで降参。

1574年3月信長が内裏に蘭麝待を所望したとき、正

    親町帝の承諾の宣旨の使いをつとめる。

1575年7月誠仁親王主催の蹴鞠の会に参加。

1579年11月誠仁親王の二条御新造への移徙に同行。

1581年2月京都での馬揃えに、公家衆として参加。

1587年正二位・権大納言。摂津国内に所領があり、

1594年長束直吉の検地を受けている。

1603年権大納言を辞職。

1623年死去。


 ※信長が正倉院御物の蘭奢待を切る取る儀を

  言い出したのは、古今伝授など典礼に詳し

  い細川(長岡)藤孝の情報によるものか・・


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