日野輝資(ひのてるすけ)
〔現代仮名遣い〕ひのてるすけ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
日野殿・日野中納言殿。晴光の子。日野氏は藤原
氏北家流。山城宇治郡日野を伝領して称号とした。
1577年従三位・参議。
1579年11月中納言。
1573年7月将軍義昭の指示で二条城に籠るも、信長
方に攻囲されただけで降参。
1574年3月信長が内裏に蘭麝待を所望したとき、正
親町帝の承諾の宣旨の使いをつとめる。
1575年7月誠仁親王主催の蹴鞠の会に参加。
1579年11月誠仁親王の二条御新造への移徙に同行。
1581年2月京都での馬揃えに、公家衆として参加。
1587年正二位・権大納言。摂津国内に所領があり、
1594年長束直吉の検地を受けている。
1603年権大納言を辞職。
1623年死去。
※信長が正倉院御物の蘭奢待を切る取る儀を
言い出したのは、古今伝授など典礼に詳し
い細川(長岡)藤孝の情報によるものか・・
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日野殿・日野中納言殿。晴光の子。日野氏は藤原
氏北家流。山城宇治郡日野を伝領して称号とした。
1577年従三位・参議。
1579年11月中納言。
1573年7月将軍義昭の指示で二条城に籠るも、信長
方に攻囲されただけで降参。
1574年3月信長が内裏に蘭麝待を所望したとき、正
親町帝の承諾の宣旨の使いをつとめる。
1575年7月誠仁親王主催の蹴鞠の会に参加。
1579年11月誠仁親王の二条御新造への移徙に同行。
1581年2月京都での馬揃えに、公家衆として参加。
1587年正二位・権大納言。摂津国内に所領があり、
1594年長束直吉の検地を受けている。
1603年権大納言を辞職。
1623年死去。
※信長が正倉院御物の蘭奢待を切る取る儀を
言い出したのは、古今伝授など典礼に詳し
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