中川清秀(なかがはきよひで)[1/2]
〔現代仮名遣い〕なかがわきよひで
※2回に分けての投稿です。
※下線部は信長公記以外の記事によります。
瀬兵衛。はじめ池田勝政に仕える。
1572年摂津高槻城主和田惟政を討ち取る。
1578年信長の家臣荒木村重の配下となり、
四万四百石を領する。
1578年11月信長の荒木成敗の時、石田伊予・
渡辺勘大夫・中川清秀は茨木城に篭も
っていたが、中川は信長方に内応し、
石田・渡辺を追い出した。その後信長
から、黄金三十枚を下される。古池田
の信長陣に伺候し、信長から太刀拵え
の腰物と馬、信忠から腰物長光と馬、
信勝から秘蔵の馬、信孝から馬、信澄
から腰物を下された。
1578年12月原田取手に材陣。軍勢を中嶋に布陣
させる。
1579年4月原田の城番をつとめる。
1579年9月織田信忠の尼崎進軍に同行。信忠は七
松に取手二つの造営を命じ、一つに塩河
国満・高山重友を、もう一つに中川清秀・
福富秀勝・山岡景佐をおく。
※おそらく近江の和田伊賀守惟政と尾張の和田
定利兄弟は信長と細川藤孝を結びつける連絡
役だったのにその惟政を討ち果たすとは信長
から良くは思われなかったはず。それが荒木
村重から寝返りしてここまで織田家から褒美
を下されるとは、何か特別な事情があったの
でしょうか・・
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※下線部は信長公記以外の記事によります。
瀬兵衛。はじめ池田勝政に仕える。
1572年摂津高槻城主和田惟政を討ち取る。
1578年信長の家臣荒木村重の配下となり、
四万四百石を領する。
1578年11月信長の荒木成敗の時、石田伊予・
渡辺勘大夫・中川清秀は茨木城に篭も
っていたが、中川は信長方に内応し、
石田・渡辺を追い出した。その後信長
から、黄金三十枚を下される。古池田
の信長陣に伺候し、信長から太刀拵え
の腰物と馬、信忠から腰物長光と馬、
信勝から秘蔵の馬、信孝から馬、信澄
から腰物を下された。
1578年12月原田取手に材陣。軍勢を中嶋に布陣
させる。
1579年4月原田の城番をつとめる。
1579年9月織田信忠の尼崎進軍に同行。信忠は七
松に取手二つの造営を命じ、一つに塩河
国満・高山重友を、もう一つに中川清秀・
福富秀勝・山岡景佐をおく。
※おそらく近江の和田伊賀守惟政と尾張の和田
定利兄弟は信長と細川藤孝を結びつける連絡
役だったのにその惟政を討ち果たすとは信長
から良くは思われなかったはず。それが荒木
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