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『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

中川清秀(なかがはきよひで)[1/2]

2018-06-25 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
中川清秀(なかがはきよひで)[1/2]

〔現代仮名遣い〕なかがわきよひで

※2回に分けての投稿です。

※下線部は信長公記以外の記事によります。


瀬兵衛。はじめ池田勝政に仕える。

1572年摂津高槻城主和田惟政を討ち取る。

1578年信長の家臣荒木村重の配下となり、

四万四百石を領する。


1578年11月信長の荒木成敗の時、石田伊予・

    渡辺勘大夫・中川清秀は茨木城に篭も

    っていたが、中川は信長方に内応し、

    石田・渡辺を追い出した。その後信長

    から、黄金三十枚を下される。古池田

    の信長陣に伺候し、信長から太刀拵え

    の腰物と馬、信忠から腰物長光と馬、

    信勝から秘蔵の馬、信孝から馬、信澄

    から腰物を下された。

1578年12月原田取手に材陣。軍勢を中嶋に布陣

    させる。

1579年4月原田の城番をつとめる。

1579年9月織田信忠の尼崎進軍に同行。信忠は七

    松に取手二つの造営を命じ、一つに塩河

    国満・高山重友を、もう一つに中川清秀・

    福富秀勝・山岡景佐をおく。


※おそらく近江の和田伊賀守惟政と尾張の和田

 定利兄弟は信長と細川藤孝を結びつける連絡

 役だったのにその惟政を討ち果たすとは信長

 から良くは思われなかったはず。それが荒木

 村重から寝返りしてここまで織田家から褒美

 を下されるとは、何か特別な事情があったの

 でしょうか・・


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