丹羽氏勝(にわうじかつ)
〔現代仮名遣い〕にわうじかつ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
源六・右近。丹羽氏識の子。尾張岩崎城の将。
父についで信長に仕える。
1555年6月信長の弟喜六郎秀孝誤射殺事件の後、
守山城に籠る。
1568年信長上洛の戦いで、観音寺城を攻撃。
1569年8~10月の伊勢攻略戦に参加。
1570年8~9月の野田・福島の合戦に参戦し「川
口」を守備。
1570年6月姉川の戦いに参戦。
1570年9~12月の叡山の浅井・朝倉攻めの時、
下坂本の香取屋敷を守備。
1577年3月信長の雑賀攻めに参戦し、根来口か
ら小雑賀・紀伊川の山手に陣取る。
1580年4月信長が伊庭山の御鷹野に出かけたとき、
丹羽氏勝の普請中の現場から信長の目の
前に大石を落としてしまう。信長は担当
の中から年長のものを一人召し出し手討
ちにする。
1580年8月信長は大坂で佐久間信盛・信栄父子の
国外退去を命じた後京都へ上り、林秀貞、
安藤守就・尚就父子、丹羽右近の国外退
去を命ずる。
1597年11月死去。
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※下線部は信長公記以外の記事によります。
源六・右近。丹羽氏識の子。尾張岩崎城の将。
父についで信長に仕える。
1555年6月信長の弟喜六郎秀孝誤射殺事件の後、
守山城に籠る。
1568年信長上洛の戦いで、観音寺城を攻撃。
1569年8~10月の伊勢攻略戦に参加。
1570年8~9月の野田・福島の合戦に参戦し「川
口」を守備。
1570年6月姉川の戦いに参戦。
1570年9~12月の叡山の浅井・朝倉攻めの時、
下坂本の香取屋敷を守備。
1577年3月信長の雑賀攻めに参戦し、根来口か
ら小雑賀・紀伊川の山手に陣取る。
1580年4月信長が伊庭山の御鷹野に出かけたとき、
丹羽氏勝の普請中の現場から信長の目の
前に大石を落としてしまう。信長は担当
の中から年長のものを一人召し出し手討
ちにする。
1580年8月信長は大坂で佐久間信盛・信栄父子の
国外退去を命じた後京都へ上り、林秀貞、
安藤守就・尚就父子、丹羽右近の国外退
去を命ずる。
1597年11月死去。
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