『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

庭田重保(にはたしげやす)[2/2]

2018-08-28 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
庭田重保(にはたしげやす)[2/2]

〔現代仮名遣い〕にわたしげやす

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・

    矢木駿河守・平井越後を使いとして、

    勅使近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保

    を同行させ、安土の信長にお礼を進上

    に参上する。信長方は、宮内卿法印・

    佐久間信盛が取り次ぎをつとめる。一行

    は織田信忠にお礼を述べたが、信長は

    会わなかった。信長は門跡・北の方・下

    間頼竜・下間頼兼・下間仲之に黄金を与

    える注文を下し、使いの衆にも黄金を与

    える。

1580年8月とうとう教如光寿も大坂退城となる。

    勅使は近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保

    およびその下使い荒屋善左衛門、信長方

    の使いは宮内卿法印・佐久間信盛、大坂

    受け取りの検使を矢部家貞がつとめた。

1582年辞職。

1595年8月死去。



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