庭田重保(にはたしげやす)[2/2]
〔現代仮名遣い〕にわたしげやす
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・
矢木駿河守・平井越後を使いとして、
勅使近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保
を同行させ、安土の信長にお礼を進上
に参上する。信長方は、宮内卿法印・
佐久間信盛が取り次ぎをつとめる。一行
は織田信忠にお礼を述べたが、信長は
会わなかった。信長は門跡・北の方・下
間頼竜・下間頼兼・下間仲之に黄金を与
える注文を下し、使いの衆にも黄金を与
える。
1580年8月とうとう教如光寿も大坂退城となる。
勅使は近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保
およびその下使い荒屋善左衛門、信長方
の使いは宮内卿法印・佐久間信盛、大坂
受け取りの検使を矢部家貞がつとめた。
1582年辞職。
1595年8月死去。
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〔現代仮名遣い〕にわたしげやす
※下線部は信長公記以外の記事によります。
1580年7月本門跡顕如光佐は、藤井藤左衛門・
矢木駿河守・平井越後を使いとして、
勅使近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保
を同行させ、安土の信長にお礼を進上
に参上する。信長方は、宮内卿法印・
佐久間信盛が取り次ぎをつとめる。一行
は織田信忠にお礼を述べたが、信長は
会わなかった。信長は門跡・北の方・下
間頼竜・下間頼兼・下間仲之に黄金を与
える注文を下し、使いの衆にも黄金を与
える。
1580年8月とうとう教如光寿も大坂退城となる。
勅使は近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保
およびその下使い荒屋善左衛門、信長方
の使いは宮内卿法印・佐久間信盛、大坂
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