『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

武田信勝(たけだのぶかつ)

2018-01-18 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
武田信勝(たけだのぶかつ)

〔現代仮名遣い〕たけだのぶかつ


勝頼の長男。

1582年2月木曾義昌謀反の報により、武田勝

    頼・信勝父子、武田信豊は新府今の

    城から軍勢1万5千ほどで出陣。諏訪

    の上野の原に布陣する。

1582年2月穴山信君謀反の報により、武田勝

    頼・信勝父子、武田信豊は諏訪の上野

    の原から新府へと引き上げる。

1582年3月滝川一益が武田勝頼の居所をつかみ、

    田子の平屋敷を襲撃。勝頼討ち死に後、

    散々に斬り回って討ち死に。勝頼・信

    勝の頸は滝川一益が織田信忠に進上。

    信忠は関可平次・桑原助六を使いとして

    信長へと進上した。信長は浪合の陣で勝

    頼・信勝の頸を受け取り、飯田まで矢部

    家定に持たせ飯田でかけさらす。武田勝

    頼・武田信勝・武田信豊・仁科盛信四人

    の頸は、信長の命により京都で獄門にさ

    らされることとなり、長谷川宗仁が受け

    取り京都へ持ち上った。


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