北岳山麓合唱団

ソウルジャパンクラブ(SJC)の男声合唱団です。毎週火曜日、東部二村洞で韓国の歌と日本の歌を練習しています。

上半期をふりかえって、木浦共生園訪問

2015年09月29日 17時56分42秒 | 合唱

10月を目前に控え、いよいよ慌ただしくなってきました。目指すところ、11月7日のヤマハホールでのコンサート、そして、12月5日のクリスマスチャリティーコンサートまで、残された時間はいくばくもありません。

4月25日(土)の木浦(モッポ)共生園訪問。それから、6月22日(月)に芸術の殿堂で開催された日韓国交正常化50周年記念コンサートと、今年は例年になく、盛りだくさんの上半期だったと思います。

10月を前に、この2つのイベントを振り返っておきたいと思います。まずは木浦共生園です。

1.木浦共生園の概要

我々合唱団は例年春に慶州にあるナザレ園を訪問してきたのですが、今年は新企画としてSJC(ソウルジャパンクラブ、ソウル日本人会)の社会貢献委員会の方々と木浦共生園を訪問することになりました。

このプログをお読みの方は我々合唱団以外の方もいらっるので、木浦共生園の概要について簡単に説明しておきましょう。

共生園は、1928年(昭和3年)、創立者である尹致浩(ユン・チホ,윤치호) 伝道師が身寄りのない7人の孤児と共に生活を始めたことから始まります。共生園を語る上で欠かすことのできないもう一人の人物である田中千鶴子さんは、1912年(大正元年)高知市生まれ。朝鮮総督府木浦市役所の官吏の一人娘として生まれ、木浦高等女学校を卒業された後、1936年(昭和11年)から共生園での奉仕活動に従事。1938年に尹致浩氏と結婚し、夫婦で共生園の運営にあたることになりました。

1945年8月15日に終戦を迎え、千鶴子は子供たちと共に故郷の高知に帰国しますが、木浦に残してきた夫や孤児への思いは断ちがたく、周囲の反対を押し切って木浦に戻ります。その後、朝鮮戦争さなかの混乱期に最愛の夫尹致浩が行方不明になるという不幸を乗り越え、夫の遺志を受け継いで、1968年(昭和43年)に56歳でお亡くなりになるまで数多くの孤児を育てあげました。ちなみに千鶴子は4人の子供がいましたが、我が子と孤児を分け隔てることなく一緒に育てられたそうです。

臨終を迎えた千鶴子は長男に対し、「梅干が食べたい」と日本語で言い残しました。長男はこの言葉を聞いて、長年の韓国生活でもう韓国人になりきったと思っていた自分の母親が日本人であったことを悟ったそうです。

現在、木浦共生園は67人の入園者が共に生活しており、社会奉仕法人崇実(スンシル)共生福祉財団木浦共生園として児童福祉、障害者福祉、老人福祉、職業専門学校、精神保健福祉等、多様な分野で社会に貢献しています。

ちなみに、崇実共生福祉財団の理事長は我々合唱団がお世話になっている忠信教会の朴鐘淳(パク・ジョンスン、박종순)元老牧師先生です。2008年にソウル・プラザホテルで開催された共生福祉財団の創立80周年記念式典では、日本から小渕元総理の千鶴子夫人や仏教大学の水谷幸正理事長が参席され、日韓両国から500人の出席者を集めて盛大に取り行われました。人は意外なところでつながっているものですね。

2.木浦市

木浦市は韓国の西南部の端にある港町です。2015年現在、人口は約24万人。周辺に韓国有数の穀倉地帯を抱え日本時代から穀物集積港として栄えた街で、市街地のあちこちに日本時代の建造物が残っています。政治的には金大中(キム・デジュン、김대중)元大統領の出身地であり、政治的な理由で経済成長から取り残された地域でしたが、現在では外郭地を中心にニュータウンが次々と建設されています。

木浦駅です。ごらんのとおり、雲一つない快晴。これだけ長く韓国に住んでいて、木浦に行くのは今回が初めて。胸がワクワク高鳴りするのを感じました。

共生園の行先案内板。山を背に、眼前に広がる海を見るという絶好の位置にあります。

共生園入口。SJCの社会貢献委員会、および有志の方と一緒に訪問しました。

挨拶をされるSJC社会貢献委員会の廣江委員長。お隣は、園長の鄭愛羅(チョン・エラ、정애라)先生。高知出身の千鶴子先生のお孫さんであるとのことです。身内ネタで申し訳ないのですが、私の徳島の叔母に瓜二つで、ひとめで四国の人だと分りました。

我々を迎えてくれた、共生園の水仙合唱団の皆様。田中千鶴子先生はもともと音楽の先生で、1964年に水仙合唱団を創立されました。なかなか上手で感心しました。

我々合唱団による合唱で返礼。練習の時間が取れず、冷や汗ものでしたが、なんとか形にすることができました。

合唱が終わってから、園長先生からそれぞれのお仕事について園児の方々に説明してほしいとのこと。いつかは卒園していく園児たちに社会見聞をさせておきたいとのことです。

合唱団の団員全員が一人一人マイクをもって、会社や仕事の内容について説明しました。ちょっと難しい話もあったけど、分ってくれたかな?

創立者である尹致浩先生とご婦人の千鶴子先生の胸像

みんなで記念写真。無事、元気で社会に巣立って行ってほしいです。

木浦市内の様子。正確に言うと、旧市内の様子で、外郭地にどんどん新しいニュータウンが広がっています。

木浦に残る日本時代の建物(旧日本領事館)。ご覧のとおりの立派な建物で、当時の日本人街の繁栄ぶりを今に伝えています。

旧東洋拓殖株式会社。現在は近代歴史博物館として使用されています。

一緒に木浦を訪問した楽しい仲間と。後ろは木浦大橋です。

 

 

 

 

 

 

 

 


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