音の向こうの景色

つらつらと思い出話をしながら、おすすめの名曲をご紹介

シューベルト 「主はわが飼い主」Gott ist mein Hirt

2011-09-21 00:19:45 | 宗教曲
 昨日、日本詩の読書会で島崎藤村の詩鈔を読んだ。有名な「初恋」を久しぶりに声に出して読みながら、中3の国語の授業を思い出していた。そして当時、音楽の授業で歌っていたシューベルトの「主はわが飼い主」を懐かしく思い出して、今、CDを聞いている。
 先日企画した中高の同窓会に、高1のときの担任・寺澤先生がいらしてくださった。私は中学3年から高校3年まで、先生に国語と古文を教わり、漢文の最初の手ほどきもしていただいた。「文語の美しさ」に気づかせてくださった、恩師である。藤村の「初恋」が登場したのも、寺澤先生の授業だった。
 教科書に載っていたこの詩は、中3の私にとっては、竹取物語と大差ない「古いことば」であり、語句と文法の解説を聞いてやっと理解できるような世界だった。しかし、とびきり素敵な宿題が出た。それは「意訳と想像をまじえた作文」と書かれた1枚のプリントで、第一連のところに先生の書いた例文があった。私は、やっといくつかの単語がのみこめた程度なのにもかかわらず、とにかくできる限り想像をふくらませて、紙を真っ黒にして提出した。想像というよりむしろ、妄想と呼べるほどの文章だった。
 次の授業で、いくつかの作文が紹介された。先生は書き手の名前を一切出さずに、淡々と読んで下さった。私の書いたものが読まれると、その微に入り細を穿つ内容に、クラスメイトは「誰だよ、これ書いたの…?」と苦笑する。私は最後まですっとぼけていたが、一緒に同人誌を作っていた仲間たちは「あれはぜったい牧菜だと確信した」らしい。いずれにしても、文語の響きとニュアンスを自分なりに感じ取り、好きなだけ想像力を羽ばたかせて良いのだと、その日私は気づいた。
 ところで、現代の日本の子供達が最初に接する文語は、おそらく文部省唱歌ではないかと思う。私にとっては、学校や教会で歌う讃美歌だった。小学生用の讃美歌集にも、いくつか有名な「大人の」讃美歌が入っており、これが基本的に文語体だった。説教中に取り上げられるなどの理由がない限り、解説は一切なしだ。まったく訳もわからないまま歌っていた。
 「などかはおろさぬ おえるおもにを」「おのがさちを いわわずや」「あめよりくべしと たれかはしる」「いましきます あまつきみ」「いそぐひあしは やよりもとし」ひらがなだと、まるで何かの呪文のようだ。さらに、西洋音楽のメロディーの「音符一つに、文字一つ」が割り当てられているので、語句の切れ目すらわからない。高校生になっても、朝の礼拝で「われはげにも幸なるかな」の「は」を、何も考えずに皆で「ハ」と発音して歌っていた。
 それが、時間の経過とともに、少しずつ意味がわかってくる。大人になってから、ある日突然意味がわかって、はっとしたこともたくさんある。「よびとこぞりて しゅをばなみし」とは、いったい何を意味していたのか、ある朝はたと気づく。語句の意味がわかるようになっただけではなく、文全体の意味が理解できるようになったからだ。そして、文語体の力強さに、思わずうなる。だから、子供時分に難しいものをそのまま投げ与えられて、それを鵜呑みにして、良かったのだと思うのだ。長い時間を経て「了解した」この瞬間が、本当に貴重なのだから。
 ちょうど授業で「初恋」を教わっていた中3のとき、音楽の授業で練習していたのは、シューベルトの「主はわが飼い主」だった。女声四部の合唱曲で、文語体の日本語訳詩がついていた。4人ずつでテストまで受けた記憶があるが、授業で与えられた曲として大した感慨もなく歌っていたはずだ。いったいこの難しい曲を少しでも歌えたのか、かなりあやしい。当時使っていた譜面をひっぱり出してきて、CDを聴いてみた。
 歌詞の内容は、有名な詩編23篇の「主はわが牧者」。全体的に平和で、たえずやさしい3連符が流れている。シューベルトお得意の自然な転調が繰り返される。「たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも」の部分の半音進行は秀逸だ。フレーズが長くて、中3の私ではとても息が持たなかったらしく、当時の楽譜にはあちこちに括弧つきのブレス記号が書き込まれている。しかし、こんなに繊細で、美しい名曲だったのか、と今更になって気づく。なぜこの曲が教材に選ばれたのか、やっと今「了解した」。
 そういえば、高1のころ、遅刻ぎりぎりで教室に滑り込んで、げほげほ咳き込み、ぜえぜえ言う胸を押さえていると、寺澤先生がゆっくりと歩いていらして、よくおっしゃった。「牧菜、ロウガイか?」私は「15歳に向かって老害とはなんだ」と内心思っていた。労咳という言葉を知ったのは、最近のことだ。

ドビュッシー ピアノ三重奏曲

2011-08-24 15:09:00 | 室内楽
 来月頭に、中高の学年同窓会を企画した。卒業して16年。たいして昔のようには思えない。会えばきっと、昨日まで学校で一緒だったかのように話し出すだろう。私の中高時代は、音楽に彩られていた。そして「多くの音符が、多くの友情にともなわれて」いた。
 思い返してみると、本当にいい先生に恵まれ、いい友達に恵まれ、いい先輩後輩に恵まれていた。私はとにかく学校が大好きで、生徒会やら部活で大騒ぎしながら、校舎を駆け回っていた。かわいらしい悪戯もしたし、陰湿な先生イジメもやった。勉強もしたし、早弁もした。教科書のかげでおにぎりを食べる私の姿を覚えているというクラスメイトもいる。
 高校生になってからは、授業中に内職をしていないことは滅多になかった。いつも机の上にノートが2つ。教科のノートの脇に、何でも書き込む小さな「ネタ帳」か、創作用の白紙のノート。ウォークマンのイヤホンを、セーターの内側から袖口へ通して、手で隠しながら耳に当て、採譜をしていたこともあった。縦書きの国語ノートに合わせて、五線を縦に置いて音符を埋めていた。
 それにしても、よく書いた。文章を書くこと、文字をつづることが、私の思春期の大きな部分を占めていた。仲間と舞台を作る部活と同じくらい、ひとりペンを持つ時間や、ワープロに向かう時間が大事だった。おそらく、それが、青年になるための準備だったのだろう。自分の中の混沌を外に出したいという情熱というよりも、自分の手でどんなことができるのか試してみたいという「練習」だった。
 とはいえ実際は、文章の訓練とはとても言えないミーハーなもので、大きな作品などとても書けなかった。飛鳥涼さんの真似をして詩を書き、谷山浩子さんの歌に寄せて童話を作り、国語の教科書に出てきた散文詩を真似して散文を書いた。かっこいい句を思いつけば、メモをした。よく席が隣になった麻里ちゃんには、授業中にこっそり「お題」を出してもらって、チャイムが鳴るまでに詩を完成させるという遊びをやっていた。
 自分が書いたものはあまりに稚拙で、今では読み返すのも恥ずかしいのだが、周りにはつねに作品を生み続ける素晴らしい同級生たちがいた。彼らの同人誌作りにまぜてもらって、4年間ぐらい毎月必ず、1枚なり2枚なりの原稿を出した。「〆切」という言葉を使うのが、一種のステータスのような気がしていた。私の思春期の精神的な歩みをつねに支えてくれたのは、ものを書く仲間、絵を描く仲間、創作をする仲間たちだった。
 中でも、桜子は中高6年間を通して助けてくれた親友であり、一生の恩人である。中1のときから文才に長けていて、中身はかなり大人だった。私の考えや書いたものを、いつも笑顔で受け取ってくれて、おかしなところをそっと指摘してくれた。六本木の大通りで、自由が丘から田園調布へ向かう静かな道で、「愛とは何ぞや」と、何度も何度も議論した。
 彼女の書くものは、あたたかく、やさしく、切なかった。素直になること、愛するものを一生懸命愛すること、大事なものを守ること。単純だけれど、なかなかできないことを、作品を通してそっと教えてくれた。ああでもないこうでもないと悩む私に、「大丈夫、どんな選択でも、間違ってないよ」と、繰り返し言ってくれた。彼女は今でも小説を書いていて、街の書店で目にすることができる。彼女の「習作」時代を共に過ごしたことが、私の自慢である。
 大作曲家といわれる人たちにも、習作の時代がある。リヒャルト・シュトラウスの初期の室内楽など、びっくりするほどにシンプルで古典的だ。ドビュッシーのピアノ三重奏曲も、とても若々しくロマンチックで、言われなければドビュッシーだとはわからないかもしれない。しかし私はこの曲がとても好きだ。
 18歳のドビュッシーが、フォン・メック夫人の家族の音楽教師として雇われてヨーロッパを旅した夏に書かれた作品らしい。楽譜が100年間も埋もれていたので、幻の名曲とでも言えるだろう。全体的にさわやかで、特に1楽章は何度演奏しても「なんと気持ちの良い曲だろう」と思う。ところどころに、のちのドビュッシーを予感させるフレーズが現れる。そして私がとても好きなのは、この曲に付いている献辞の言葉だ。
 「多くの音符が、多くの友情にともなわれています。」経済的に、精神的に、もしくは技術的に、誰かに支えられてドビュッシーはこの作品を書いたのだと思う。それぞれの楽章で、のびのびと自分の力を試している感じがする。「友情」は避暑地での音楽仲間を意味するのかもしれないが、もしかしたら彼にも「間違ってないよ」と言ってくれる人間がいたのではないかと、勝手に想像する。はなはだ恣意的な解釈だが、「よかったね、ドビュッシー」と言いたくなるのだ。
 残念ながら私の「習作」は、習作止まりでまったくモノにならなかったが、友情にともなわれた試行錯誤の日々の思い出は、決してなくなることはない。このピアノ三重奏曲を聞きながら、夏の風を感じる。奔放だったけれど、間違ってはいなかったんじゃないかな。

プーランク 「バナリテ」より「パリへの旅」

2011-07-15 00:24:43 | オペラ・声楽
 7月14日なので、パリの話。BGMは、プーランクの「バナリテ」の中の「パリへの旅」。短い旅行で何度かパリを訪れたが、大学院時代、ユネスコで行われる国際会議にかこつけて行ったときの印象が一番強い。空き時間に街を歩いては迷い、地下鉄に乗っては迷い、ついでに人生のあれこれに悩んで迷っていた。それから、尊敬する先生とゴハンをした。エッフェル塔が輝いていた。
 大学院の5年間で得たものは、研究成果でも学位でもなかったと思う。「どこへ行っても、取って食われるわけでなし」と思える厚顔さを身につけたことと、素敵な出会いの数々が、何よりの収穫だった。私自身は当初の予定通り、アカデミーには残らなかったが、様々な国の素晴らしい研究者と出会えたことは、宝物のような経験だった。
 中でも私が最も尊敬しているのは、京大のI教授である。むしろ、私は先生の単なるファンである。京大でポスドクをしていたときの研究室の同僚に言わせると、I先生の前では、私は「ぽわ~ん」として、床から3センチぐらい浮いているらしい。ハンサムで物腰柔らかで、気さくな先生で、市民向けの講演会などの後は、必ず女性ファンができる。
 日本の生命倫理界ではとても有名な先生なのだが、実は私が最初にI先生のお名前を知ったのは、オランダの友人バート宅だった。バートはオランダの厚生省のお役人さんで、安楽死法案に関わった法律家だ。バートが貸してくれたアルバムをめくっていると、素敵な日本人家族の写真が貼ってあった。「これは?」私が尋ねると、彼は驚いて答えた。「I教授知らないの? もぐり?」私は苦笑して舌を出した。バートとI教授は、ユネスコの委員会で議長、副議長をつとめた「戦友」だった。
 その直後、ロンドンの学会で実際にI先生にお目にかかった。各国の法律家やお役人さんたちと、流暢な英語でやり取りする姿は、絵に描いたような国際人。観光気分で遊びに来ているような小娘の私にも、それは親切で、まさに紳士だった。日本の規制についての彼の考えを、私でもわかるようなやさしい言葉で説明して下さる。さらにはフランス大使館の人々が絶賛するほどの美しいフランス語。たちまち、ぽわ~んとしてしまった。
 そこで昼休みに、学会会場の中庭でランチをしている先生を見つけ、早速、一緒に写真を撮ってくださいとお願いした。必死にお洒落して巻いたスカーフが風になびいて、私はなんだか勝手に社交界にデビューしたような気分だった。しかし、いつものことだが、私は気取ると何かが起こる。I先生の横でしゃなりと斜めに座って、カメラに向かって笑顔を作っていると、向こうからインド人教授のシャーマ先生が私を呼びながらやってきた。
 シャーマ先生は、学会のために毎年日本に来られていた先生で、毎回お土産を買ってきて下さったり、本を下さったり、なぜかとてもかわいがってくださった。私が当時使っていたメールアドレスの「MAKINCHO」(小学生のとき、誰かにこう呼ばれたことがあった)という部分がお気に召したようで、いつも私のことを「MAKINCHO」と親しみを込めて呼んでくださった。本人は「まきんちょ」と言っておられるつもりなのだが、何度直してもKとCHが入れ替わってしまう。それも最初のMAはあまり発音せず、CHにかなりアクセントが付いている(アルファベットを並べ替えてご想像下さい)。
 シャーマ先生は、例によってそれを大声で叫びながら、にこにこ手を振って近づいていらした。周りにいた数人の日本人は、ぎょっとして、呼ばれた私のほうに注目する。カメラを構えていた同級生のフミは、顔を真っ赤にして、慌てた。「シャーマ先生、それ、違います。それは、あの、大きな声で叫ばないでください…それは、あの、あまりよろしくないんです。」I先生は、シャーマ先生と私の顔を見比べて「どういうご関係ですか?」と言わんばかりに目を見張っている。穴があったら入りたかった。
 そんな恥ずかしい初対面の日だったが、I先生はどこでお会いしても親切に話してくださった。先生が委員を務める内閣府の委員会を傍聴に行って、「先生ぇー」と手を振ると、にっこり笑ってくださる。学会発表で上手に質問に答えられず落ち込んでいると、こうすればよかったんだよ、と助言してくださる。そして、パリの国際会議でお会いしたときには、なんと私の悩み相談に付き合うために、夕飯に連れて行って下さった。
 エッフェル塔の近くの小さな中華料理屋さん。先生がパリ時代に日本食が恋しくなると通ったというお店だった。重たいクリームソースに辟易していた私は、遠慮なく鶏ガラスープをすすった。学生時代の話、研究のこと、お仕事のことをたくさん伺って、お店を出ると、日が沈んだばかりの宵の空に、エッフェル塔と月が絵のように並んでいた。見上げながら、先生と握手をした。
 羽のように軽くなった気持ちで、プーランクの「パリへの旅」を口ずさみながら、ホテルへ帰った。なかばスキップを踏みそうになりながら、パリの街の中で思った。I先生は「ひらがなで話せる」のだ。かみくだいて話すとか、わかりやすく説明するというよりも、穏やかに話す。門外漢の私でもわかるような、やさしい印象で話す。あれが、一流の人の「優雅さ」なんだな。よーし、私もいつかは。
 しかしいまだ私は「パリへの旅」を口ずさんで踊り出すようなお気楽さである。でも、きっといつかは。

Burke/Van Heusen It could happen to you

2011-06-26 23:48:55 | その他
 私がこの数年、最も影響を受けている音楽家、ジャズ・ピアニストのユキ・アリマサ氏。作・編曲家としても活躍しながら、大学で教えておられる。私の高校生時代最後の夢だったバークリー音大でも教鞭を取っておられた。音楽家という以前に、とにかく人間として素晴らしい方で、お会いするたびに何かを与えられる。そのピアノを聴くと、なんだか少し、若返る。
 最初に彼のピアノを聴いたのは、3年前の夏。小学校の音楽室だった。何気なく指を慣らし始めた音を聞いて、思わず目を見張ってしまった。音楽室のピアノとは思えない。「この人は、音がきれいだ!」ジャズ・ピアニストの音は「痛い」という私の勝手な思い込みをあっさりと覆して、ピアノが鈴のように鳴っていた。
 横浜市には、芸術家を学校に派遣するという面白い教育プログラムがあり、音楽・演劇・美術などの分野で様々なワークショップが行われている。私は06年度から、小学校での「声楽」ワークショップのコーディネーターをしている。プログラム全体の報告書の中にアリマサ氏のワークショップを見つけ、「興味がある!」と事務局に言い出したのがきっかけで、08年度から氏のワークショップも担当させてもらえることになった。
 音楽室に並んだ4年生や5年生を前に、まったく自然体のアリマサ氏。「ジャズってどんな音楽だと思った?」子どもがどんな突飛なことを言っても、上手に受け止める。騒ぐ子に対しても、引っ込み思案の子に対しても、ごく普通にコミュニケーションを取っていく。「音楽の感じ方に間違いはないからね、何でも言っていいよ。どんなふうに感じた?」
 教科書に載っている歌は、様々なリズムで演奏され、がらりと姿を変える。「ふるさと」がサンバ風になって、大盛り上がりしたりする。子どもの出した「お題」で、即興の音楽が次々と生まれる。「グリーン・グリーン」に涙が出るほどかっこいいコードがつけられたりすると、和音至上主義の気のある私はくらくらっとしてしまうのだが、たぶんそれは最重要ポイントではない。リズムを感じて、子どもたちの歌が自然にスイングしていることのほうが、素敵なのだ。
 クラスの様子に合わせて、毎回授業の中身は違うのだが、音楽の「本質」が、プロならではの方法で伝えられる。アンサンブルの極意も、シンプルな言葉で何気なく伝えられる。私は教室の後ろで記録用の写真を撮りながら、しばしば、「人生の真理」に出逢って、はっとする。それは特に、「自由」の問題だ。
 氏のワークショップの醍醐味は、子どもたちがアドリブに挑戦するところだ。「何をやってもいいから、音を出してごらん。」ふと考えてみると、私だって今までこんなことを言われたことはない。楽譜に書いてない、何も決まっていない、自由にやっていい。子どもたちは戸惑いながらも、木琴をちょっと叩いてみる。アリマサ氏はにこにこしながら、待っている。どうやら何をやっても大丈夫そうだと感じた小さなミュージシャンたちは、勇気を出して少しずつマレットを動かし始める。それは、大きな一歩だ。
 ワークショップだけでは飽き足らず、私はときどきアリマサ氏のライブに出かけるようになった。クリアで清潔な打鍵。上質で、少し複雑な、色彩のある音組織。何をしているのかわかりやすい一方、全部さらけ出さない色気がある。お客に媚を売らないところはアーティストに違いないのだが、聴き手に呼吸を許す、さりげないやさしさがある。
 聴いていると、なんだか気分が、解放される。ライブに連れて行った友人のOは、「一歩自由、もう一歩自由、そしてもう一歩、もう一歩…って感じ。」と表現していた。想像するに、氏もアドリブをするために「意識して」自由でいるのではないだろうか。やる側も自由、聴いて感じる側も自由。それを与え合うような感じがする。
 実は私が氏から学んだ最も大きなことは、他人との距離感だ。相手の自由を許すということは、ある程度自分の手から離すということでもある。「やってごらん、それは君の自由なんだ」と言うときには、「自分はそれに関与しないで待っている」というスタンスが必要だ。それはやさしさでもあり、強さでもある。
 自由にやる側も勇気がいるが、やらせる側にも度量がいる。突き放すのではなくて、相手に任せてそっと手放す。そういえば、アリマサ氏の奥様とお会いしたとき、奥様も氏に自由を与えているのだなと感じた。親子でも、恋人でも、友達でも、上手に自由を与え合う関係でいられたら、どんなに素敵だろう。
 先日聴きに行ったライブの最後は、スタンダードナンバーの「It could happen to you」だった。この曲、ワークショップ中に「ジャズってこういう音楽だよ」という紹介で演奏されたのを聞いて、いい曲だなと思った。そのとき、一人の子どもが、「ジャズって、なんかヘン!」と言った。「いいよ、それもいい感想だよ!」私もつられてにっこり笑った。
 アリマサ氏のピアノを聴くと、若返る。「まるで温泉につかったおばちゃんみたいですね」と、氏は笑うけれど。

マクダウェル「森のスケッチ」より 「野ばらに寄す」

2011-05-22 23:41:32 | ピアノ
 先日、数年ぶりに「ピアノの発表会」に出た。毎年、この気持ちの良い季節に開催される「わかば会」。数えてみたら、もう20回以上も参加している。私が小学校1年から大学までずっとお世話になった茂木恵先生の生徒の発表会だ。私はもう長いことレッスンに伺っていない怪しからん生徒なのだが、有難いことに発表会には混ぜていただいている。
 はじめてお会いして以来もう30年近く経つが、茂木先生はついぞ怒ったことがない。声を荒げるようなこともないし、責める口調になったことすらない。私がまったく練習しないでレッスンに行っても、生意気言ってへらへらしていても、とんでもなく難しい曲を弾きたいと言い出しても、いつもおだやかに見ていてくださった。私がこうしてピアノを弾き続けられたのは、間違いなく茂木先生のおかげである。
 そんな優しい先生の催される発表会なので、雰囲気はいたって和やかだ。幼稚園生から大人まで演奏が終わると、いつも変わらず明るい写真屋さんが集合写真を撮ってくれる。「背の小さいおともだちから並んでください~」と声がかかると、チビの私は毎年、先へ行けと皆につつかれる。女の子たちのエナメルの靴や、折り返しにレースがついた白い靴下を眺めていると、写真の中の自分だけが勝手に歳を取っていくような、不思議な感覚になる。
 今年の発表会では、アメリカの作曲家マクダウェルの「野ばらに寄す」を弾いた。「森のスケッチ」という組曲に入っている小さな作品で、むかしから大好きだった。散策中に見つけた小さな野ばらを、そっと愛でるような曲だ。普通の人なら目を留めずに通り過ぎてしまうような風景を、繊細な感性で見つめている。素朴なメロディーなのに、とても繊細な和声がついている。初級者でも弾ける音の量だが、子供時分にはなんだか少し大人っぽい感じがしたものだ。真ん中のペダル(サスティンペダル)を使わないと音が濁るので難しく、いつか弾いてみたいと思っていた憧れの一曲だった。
 発表会というのは、子供にとって重要な「情報収集の場」ではないだろうか。普段、先生と一対一でレッスンをしていると、他の生徒が何を弾いているのか、どんな上手な先輩や後輩がいるのか、知る機会はなかなかない。私にとっては、お姉さんたちが弾く「かっこいい曲」を知るチャンスでもあった。そして、プロのピアニストが弾く、いわゆる「ピアノ名曲選」のCDにはないような、「発表会の定番曲」を知るチャンスでもある。
 オースティン「お人形の夢と目覚め」、ランゲ「花の歌」、デュランの「ワルツ」、ギロックの「ワルツエチュード」、中田喜直の「エチュードアレグロ」・・・。どれも舞台の上でキラキラ輝く。今でこそ完全に定番になったが、平吉毅州の「チューリップのラインダンス」を初めて聞いたときには、子供が弾くのになんてオシャレな曲だろうと、衝撃を受けたものだった。ピアノを習ったことのある方は、きっと懐かしく思い出す一曲があるのではないだろうか。私もあれを弾いてみたい、と思った日のことを覚えているだろうか。
 本で伝記を読むような偉人もいい。テレビで見る美しい女優さんもいい。でも、「いいな」と思ってすぐ真似したくなるのは、割と身近な人ではないかと思う。手が届きそうな目標、あと少し経ったら自分もできるかもしれないという具体的なお手本。子供のときは、年の離れた大人よりも、少し年上のお兄さん・お姉さんの姿に憧れることが多かったような気がする。私の周りには、アマチュアの演奏に触発されて楽器を習い始める大人がたくさんいる。ちょっと先を行く人を見て、「あ、私もやってみよう」と思うのだ。
 発表会の帰り道、舞台で弾かせていただいた幸せな気持ちの中、ふと思った。改めて周りを見てみると、「あ、いいな」と真似したくなるような素敵な何かを持った人が、身近にたくさんいる。楽器が弾けるとか、外国語ができるとか、はっきりした技術でなくてもいい。いつも自分に似合う洋服を着ているとか、やさしい物腰で話すとか、自分もやってみたいなと思うような美点を持った人が、たくさんいる。普段は何も考えずにお付き合いしているけれど、具体的なお手本はいくらでもいるものだ。
 自分も誰かに「あ、いいな、真似してやってみよう」と思ってもらえるようなところがあるだろうか。大人になって、趣味でも思い切り音楽が楽しめるんだという見本に、ちゃんとなっているだろうか。まだまだだな。静かにマクダウェルを口ずさんで帰った。

グリンカ 「ルスランとリュドミラ」序曲

2011-04-17 03:10:33 | オペラ・声楽

 街のあちこちで新しいカバンがまぶしい、4月。私にとって最も環境変化の大きかった4月は、大学に入ったときだ。初めての一人暮らし、初めての共学、初めて住む東京以外の場所。知り合いは一人もいない。知っているお店も一軒もない。でもまあ、なんとかなるだろう。まるで他人の引越しを手伝うような気持ちで、リアカーを引いた。
 入居したのは、大学の宿舎だった。学生宿舎と言っても、普通のアパートのような造りで、基本的には個人の暮らしが確保されていた。台所とランドリーとトイレは共同で各階にあり、夜さっさと閉まってしまう風呂や食堂などは別棟にあった。カビ臭い部屋には、小さな洗面台と、鉄パイプのベッドと事務用机とロッカーがあり、灰色の独房然としていた。それでも、自分の城には違いなかった。家賃、月1万3百円也。
 人間の適応能力というものは、なかなか高いものだ。部屋中に現われるダンゴムシにも、勉強中のノートを平気で横切っていくアリにも、あっという間に慣れてしまった。はじめは夜中のトイレでムカデに会うと、すごすごと部屋に戻ったりしていたが、そのうち気にならなくなってしまった。体育専門の元気なお姉さんたちに気圧されながら大きなお風呂に入るのも、楽しかった。天井の水漏れも水道管からの異臭も、「生活上の問題を自分で解決する」という冒険心をくすぐった。
 ところで、大学入学前に、先輩の作った「生物学類マニュアル」なるものが送られてきていた。宿舎に関する説明には、こんな文章が載っていた。「昔の生物学者は『箱の中に汚れたシャツと小麦を入れ放置すると、ネズミが発生した』と言った。宿舎では『三角コーナーの中に野菜屑と食べ残した物を入れ、五日でショウジョウバエが発生した。』自然発生説を信じた、いにしえの生物学者の気持ちになれるのである。」これほど私の不安を煽った情報はなかった。
 そこで、共同台所へのデビューは少々躊躇われた。しかし、そうそう外食ばかりしているわけにもいかないので、私も料理を始めることにした。台所は狭いので、自分の部屋で材料を切ってフライパンや鍋に入れて、廊下を歩いて行く。私の作ったほぼインスタントの麻婆豆腐と、ご近所のよりちゃんの味噌汁をバーター取引した。悪くない。ところが、台所の清潔さ以前に問題があった。
 実はそれまで私は、ほとんど料理をしたことがなかった。リンゴは剥けた、ケーキは焼けたが、お米は炊いたことがなかった。母が台所に立っている間、まともに手伝いなどしたことがなかった。仕方ない。今まで食べてきたものを思い出して、やってみるしかない。レシピを見ようという発想すらなかった。
 自炊を始めてまもなく、ほうれん草のソテーを食べようと思い立った。できあがったものは、よく洗っていないために泥臭く、ちゃんと切らなかったために麺のように長く、やたらと水っぽい「緑色の何か」だった。ずるずると音を立てて、劇的にマズいほうれん草を1把すすりながら、母のありがたみを、初めて心の底から感じた。
 宿舎には、月に2、3度「シーツ交換日」というのがあり、交換所に持って行くと枕カバーやシーツを洗濯済みのものにしてくれた。ある晴れた日、シーツを抱えて行って、交換所のおばちゃんと立ち話をした。私が辛気臭い顔をしていたのか、おばちゃんは、からっと言った。「闘うっきゃないのよ!」いい笑顔だった。それは、決して悲壮な叫びではなく、現実がどんなであろうと、とにかく前へ進めという、明るい励ましだった。
 あのおばちゃんのことを思い出すと、なぜか私の頭の中には「ルスランとリュドミラ」の序曲が聴こえてくる。クラリネット吹きの麻衣ちゃんは、確か小学校の掃除の時間のBGMがこの曲だったと言っていた。かなり激しいお掃除だったんじゃないかと想像する。オペラは滅多に上演されないのに、この序曲だけは人気がある。弾けもしないのに一度だけアマオケに混ぜてもらったとき、私はこの曲の持つ力に、妙に納得した。有無を言わさぬ前進力のある曲だ。ヴァイオリンが弾けようが弾けまいが、とにかく前へ前へ進んで行く。それが心地良いのだ。
 生活は進んで行く。どんなところで始めた生活でも。どんな状況であっても。たとえ料理がヘタクソでも。「闘うっきゃない」。だったら、「ルスラン」の序曲のように、意気揚々と進みたい。

空がこんなに青いとは/ともだちはいいもんだ

2011-03-22 00:27:15 | その他
 地震の被害に遭われた方へ、心からのお見舞いを申し上げます。少しでもあたたかい場所がありますようにお祈りしております。

 先週は、仲良しの歌い手さんが、地震で自宅が一時的に使えなくなって我が家に滞在していました。ニュースを見ていたら、2人でいてもたってもいられない気持ちになりました。そこで、急に思いついて、録音をしてみました。

 今、「本当にそうだな」と思う詩。岩谷時子さんの素晴らしい詩につけられた2曲です。この詩が届けばと思い、youtubeにアップしました。思い立って楽譜を探して、5分と経たないうちに録音した、本当に「即席の」演奏ですので、少々粗いのですがどうぞご容赦くださいませ。

 空がこんなに青いとは
 ともだちはいいもんだ

 プロアマ問わず、音楽家のみなさま、今こそ音楽を。演奏してください。歌ってください。

 希望がありますように。

 (今月はエッセイをお休みします)

ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番 第2楽章

2011-02-18 00:16:37 | 協奏曲
 数日前、私は長い手紙を受け取った。なめらかに整った文字と、人となりが表れた丁寧な語り口の手紙。まるでひとつの文学のようだ。それは私宛のものではなく、20年前の差出人自身、33歳の彼自身に宛てて綴られた告白であり、問いかけだった。私はベートーヴェンのピアノ協奏曲5番の2楽章をBGMにかけて、始めから何度も読み直した。
 「皇帝」の愛称を持つ有名なピアノ協奏曲。私は大学1年生のとき「不滅の恋・ベートーヴェン」という映画を見て、あっさりこの曲の魅力にはまってしまった。映画音楽に負けないほど映画的で驚いたものだ。映画の最後に、2楽章のアダージョを背景にして、ベートーヴェンの手紙が再度読まれる。ままならぬ人生を、なんとか精一杯、大切な人間と共に生きて行こうとする想いにあふれた恋文だった。
 その頃から13年間、私は長い夢を見ていた。この曲と共に。ある「理想の場面」を私が心秘かに描くとき、いつもこの曲が耳の奥に流れていた。長い間、この「理想の場面」こそが私を支え、すべての原動力となり、行動の指針となっていた。そして、自分でも気づかぬうちに、私は自分の作り上げた夢想の世界の外へと出られずにいた。ひとつの価値観の体系を築き上げ、それが表面的に問題なく、心地よく機能しているとき、それを壊すのは容易ではなかった。
 ベートーヴェンを主人公のモデルにしたという「ジャン・クリストフ」の中で、ロマン・ロランは、かなりきついことを言う。「多くの人は、二十歳から三十歳で死ぬものである。その年齢を過ぎると、もはや自分自身の反映にすぎなくなる。彼らの残りの生涯は、自己真似をすることのうちに過ぎてゆき、昔生存していたころに言い為し考えあるいは愛したところのことを、日ごとにますます機械的な渋滞的なやり方でくり返してゆくことのうちに、流れ去ってゆくのである。」
 私が自分自身の価値観を壊し、再考するきっかけは、30歳を過ぎて大切な人間と離れたときにおとずれた。その人はそこに変わらず生きているのに、もう自分と共に生きることはない。相手と共有していると妄信していたものは、とうに消え去っていた。言いようのない喪失感の中で、鋭い怒りと共に自分自身を振り返った。そのとき私は初めて、我が身を支えてきたものを見つめ直し、その大部分が幻想に過ぎないことに唖然とした。日々が過去の「自己真似」に過ぎないという現実に愕然とした。ロランの言葉を借りれば、もはや私は「生存」していなかった。
 しかし、それはもう一度、自分を築き直す最大の転機だった。固執しているものを手放し、「卒業」するタイミングだった。私はあえてここで「卒業」という言葉を使いたい。過去の自分を否定するのではなく、信じてきたもの、培ってきたもの、大事にしてきたものに感謝して、「卒業」する。離れたのが大切な人であればこそ、感謝したい。ある必要な期間が終わったのだ。この際「こうあるべきだ」という思い込みを、手放せるだけ手放して、それでもまだ残る信念があるとすれば、それでいい。そう思った。
 ―大切な人間と離れたとき、人はいかにしてそれを乗り越えるのか―。届いた便箋の束の問いかけを何度も読み返しながら、本当に久しぶりに、「皇帝」の2楽章を聴いた。手紙の差出人が30数年にわたって育んできた想いには比ぶべくもないが、2年半の歳月をかけて、私は自分の13年を昇華させた気がした。長い間、幻と共にあったこの曲の美しさが、今ではずっと手触りのあるものに感じられる。
 聴いていると、「ジャン・クリストフ」のシーンがいくつか思い出される。クリストフの叔父ゴットフリートが言う。「そんなことはこんどきりじゃないよ。人は望むとおりのことができるものではない。望む、また生きる、それは別々だ。くよくよするもんじゃない。肝腎なことは、ねえ、望んだり生きたりすることに飽きないことだ。」3楽章のロンドが明ける。
 人生の転機は、何かを「卒業」する時だと思う。そんなとき私はベートーヴェンを聴く。彼の音楽は、今がどんな状況であっても、それに対してどんな答えを出したとしても、「それでも生きていく」というテーゼを、当たり前のように明快に差し出してくれるからだ。クリストフは言う。「奮起したまえ。生きなくてはいけない。もしくは、死ななければならないとすれば、立ちながら死ぬべきである。」

かしこ

フンパーディンク「ヘンゼルとグレーテル」より お祈りの二重唱

2011-01-08 01:40:11 | オペラ・声楽
 今日はオペラのGP(*ゲネラル・プローベ:最終リハーサル)で譜めくりをしてきた。地域の市民と一緒に舞台を創るという企画で、元気な子どもとお母さんたちが楽しそうに歌っていた。演目はフンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」。オーケストラのサイズはワーグナーばりだが、今回はこれをピアノ1台で伴奏している。ピアニストさんが隙間なく音を埋めて厚くしていることに感嘆しながら、譜面を追っていた。
 有名なグリム童話をもとにして作られたオペラで、メロディーも覚えやすくわかりやすいので、往々にして「子供向け」と思われがちだが、実によくできた作品だと思う。楽譜を見ながら全幕を聞いたのは今日が初めてだったのだが、意外に凝ったリズムで書かれていたり、丁寧に和声がついていたりして、改めてその素晴らしさに驚いた。耳触りが良い音楽なので、いつもなんとなく聞き過ごしていたが、さすがはワーグナーの弟子。随所にライト・モチーフがちりばめられている。
 「子供向け」として片付けられがちだが素晴らしい作品といえば、ケストナーの小説「ふたりのロッテ」がある。そっくりのふたごが入れ替わる楽しいお話、として記憶している方も多いのではないだろうか。ミュージカルやアニメにもなっているが、「離婚した両親の再婚」という割と大人っぽいテーマを扱っている。あちこちに、ぴりっと効いた寸鉄がちりばめられている。
 このふたごのお父さんは、ウィーンのシュターツ・オーパー(国立歌劇場)の楽長という設定だ。おまけにその恋人はインペリアル・ホテルのオーナーの令嬢ということになっている。音楽家の生活についての描写はかなりリアルで、大人になって読んでみるととても面白い。そして、小説の真ん中辺で、お父さんがフンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」を指揮するというシーンがある。
 桟敷席からお父さんの燕尾服姿を初めて見たロッテは、感激しながら序曲を聴く。ところが、ヘンゼルたちが母親の癇癪で追い出されると、ロッテは舞台の上にすっかり感情移入する。『両親は子どもたちを愛しているのです! それなのにどうしてそんな意地わるになれるのでしょう? それとも、ちっとも意地わるじゃないのかしら? することだけが意地わるなのかしら?(高橋健二訳)』ロッテはその晩、オペラと現実がまざったような夢を見てうなされる。
 フンパーディンクのオペラと「ふたりのロッテ」に共通しているのは、「悩む大人」の姿がありのままに描かれていることだ。ヘンゼルのお母さんは「お金がほしい…」と言って泣く。ロッテのお父さんは赤ん坊の泣きわめく声に耐えられず、部屋を出て行く。子供が鑑賞する作品にも関わらず、大人が愚痴を言ったり、情けない行動に出たり、感情的になったりする。そのリアルさが、作品に深みを加え、我々をはっとさせるのだ。
 両親の離婚の事情を説明するくだりで、ケストナーは言う。『そういうことについて、すじ道のとおった、わかりよい形で、子どもらと話をしてやらないのは、あまりに気が弱すぎるばかりか、道理にそむくことでしょう!』おそらく子供たちにも、この真剣な直球が届くのだろう。
 いずれの作品も、子供たちの機知とまっすぐな気持ちが、清清しい。「悩む大人」に対して描かれた子供たちの動機は純粋だ。「やってみよう」という気持ちから行動までが、速い。そしてそれはときに、力強いものとなる。彼らの奮闘を見ているうちに、忘れていた何かを思い出して、胸がすっとしてくる。ロッテたちが最後に親指をにぎって祈るシーンは美しい。現実は面倒くさくて、複雑かもしれないけれど、もう一度、単純な真実に立ち戻ってみればいいのだ。
 フンパーディンクのオペラの中では、森で迷ったヘンゼルとグレーテルが、眠りの精に魔法の粉をかけられて眠たくなる。そこで、ふたりでひざまずいて、眠る前のお祈りをする。ありとある二重唱の中で、私が最も好きな二重唱だ。序曲の冒頭に出てくるのは、このお祈りのテーマである。聴くたびに、なんと美しい音楽だろうと思って、涙がこぼれる。ふたりは14人の天使に囲まれた夢を見る。子供たちの純粋なお祈りが、かなえられる。そんな単純なことが、この上なく美しい。

*1月8日15時開演。パルテノン多摩。お時間のある方は、ぜひご家族で。
市民と創るファミリーオペラ
フンパーディンク『ヘンゼルとグレーテル』 (※日本語上演)

ブリテン キャロルの祭典

2010-12-08 01:18:27 | 宗教曲
 今年も「メサイヤ」のトランペットを聴いて、「ああ、いい一年だったなあ」と思う季節になった。クリスマスの時期に演奏される曲には、賛美歌からポピュラーまでお気に入りがたくさんある。中でも思い出があるのは、街中でときどきナッキンコールの声で流れてくる「The Christmas song」。
 中2の夏休みに「あなたの好きな詩を訳しなさい」という英語の宿題が出た。人生で一番夢中になってやった宿題だ。ちょうど前年のクリスマスに、小林明子、永井真理子、麗美、辛島美登里の4人がこの歌をアカペラで重唱しているCDを聴き、完全に魅了されていた私は、迷わずこの歌を訳すことにした。
 文法がわからないどころではない。ほぼすべての単語を辞書で引いた。タンクトップに短パンで居間のテーブルに陣取って、夏の真っ盛りに汗だくで「メリー・クリスマス・トゥー・ユー」と何時間も口ずさみ続ける私を見て、母は苦笑した。私は自分なりに韻を踏んだり、七五のリズムに日本語を整えて、大満足していた。未知なるアメリカのクリスマスの、きらきらした世界を垣間見たようで、夢心地だった。
 さて、聴くと夢心地になるクリスマスの音楽と言えば、何といってもブリテンの「キャロルの祭典」だ。ハープの伴奏による少年合唱(女声合唱)が、聴くものを異世界に誘う。中世の英国の詩による短い10曲ほどの三部合唱。ときどき、透明で美しいメロディーが独唱によって歌われる。詩はいずれも、キリストの生誕を寿ぐものだ。不思議な光にあふれた作品だと思う。
 初めて聴いたのは、高校3年のとき。学校で音楽の授業を選択していた同級生と後輩たちが、渋谷教会で行われたクリスマス・コンサートで歌った。理系コースだったので参加できなかった私は、客席で仲間達をうらやましく待っていた。礼拝堂の扉から、グレゴリオ聖歌を歌いながら合唱隊が入ってくる。1曲目を聴いた途端、虜になった。
 一度で覚えられそうな単純な旋律もあるぐらい、やさしく素朴な歌ばかりなのだが、純粋すぎるほどの美しさに、ぞくぞくする。中世の英語は、ほんの一瞬聞き取れるような気がするだけで、あとは魔法の言葉のように耳に心地よい。ハープの音は、天使の奏でる竪琴にもなり、風になびく草のささやきにもなり、星の粉を撒いたりもする。
 「This little babe」や最後の「Deo Gracias」は部分的に輪唱のようになっていて、響きの深い教会で旋律が次々追いかけられると、まるで四方八方から声が聞こえてくるようだ。私は思わずくらくらして、自分がまっすぐ座っているのかどうかさえわからなくなった。音におぼれるという不思議な体験をした。
 強い力でもって、聴く者の胸元を揺すぶる音楽もある。しかし「キャロルの祭典」は、聴く者を静かに揺する。ゆらゆらとあなたを揺すり、そっと恍惚へと導く。固執している価値観も揺らがせて、いったん自分をゼロにしてくれる。クリスマスというのは基本的に「静かな」イベントだが、この曲を聴くと、静かに自分をリスタートできる、そんな気がする。
 歌い終わると、またグレゴリオ聖歌を歌いながら、合唱隊は去っていく。そのときに私はもう生まれ変わっていた。

Although it's been said many times, many ways,
Merry Christmas to you
-From "The Christmas Song"

フォーレ 「レクイエム」より ピエ・イエズ

2010-11-17 23:24:37 | 宗教曲
 数年前の秋、母校の石澤先生に相談があって、放課後の校舎を訪ねた。石澤先生は私が中学2年のときの担任の先生だった。話の途中、先生が用事で席を離れたとき、講堂からオルガンの音が聞こえてきた。私が卒業したあと完成した新校舎の講堂には、大きなパイプオルガンが設置されている。音に吸い寄せられて講堂の2階をのぞきに行くと、音楽の先生が翌日の追悼礼拝のために、歌の練習をしておられた。
「フォーレのピエ・イエズ。弾いてくれる?」
 言われるがままにオルガンの椅子に攀じ登る。こんな大きな楽器に座ったことはない。もちろん足はまったく動かない。それでも良いと言ってくださったので、指をいっぱいに伸ばして黒い鍵盤を押した。思ったよりも遠くで音がする。そうだ、堀先生が亡くなった秋も、追悼礼拝で「ピエ・イエズ」が歌われた。私は友人のくーと二人で泣きながら、同レクイエムの「イン・パラディスム」のヴァイオリンパートを弾いた。
 堀律子先生。私が中1と中2のときに国語を教わった先生で、私が所属していた音楽部の顧問をしておられた。「声楽」の基礎の基礎を私たちに手ほどきしてくれた先生だ。ご自分でリサイタルを開いておられたのだから、おそらくプロに近かったのだと思う。ある日「一番高い音はどこまで出るの?」と尋ねたら、真ん中のドの2オクターブ上のファ(Hi F)だと答えてくれた。本気でびっくりしたものだ。今思えば、私たちにとって最も身近な「ソプラノ歌手」だった。
 堀先生は授業での話しぶりも熱い、エネルギーのある先生だった。明るくて、気さくで、おおらかで、生徒にも人気があった。元気いっぱいでいつも私たちを励ましてくれた。ただ、なんとなく生き急いでいるような雰囲気が、なくもなかった。一日4時間半しか寝ていないと聞いたこともあった。私が中学3年のとき、先生は突然亡くなった。30歳代だったろうか。お若かったことは間違いない。
 私たちが中2で使った国語の教科書に、レイ・ブラッドベリの「霧笛」が載っていた。内容も少し大人っぽく、このテキストを扱っている間、授業はいつもと少し違う空気が漂っていた。堀先生は、自分の中に何か特別な思いがあるようで、それが教室に独特の緊張感を与えていた。
 ノートに写した、その授業の板書。「孤独がその本質」「愛しすぎてはいけない」「孤独をいやす相手を求めるなら、自分を抑え、相手を思いやらなければ」などとある。これが先生自身の解釈だったのか、クラスメイトの意見だったのかは定かでない。ただその日、先生の目は泣いていた。休み時間になると、クラスメイトは先生の過去の噂をささやいたが、私は彼女の中にある人間の本質のようなものを見る思いがしていた。
 「霧笛」の中で、マックダンは言う。『二度と帰らぬものをいつも待っている。あるものを、それが自分を愛してくれるよりももっと愛している。ところが、しばらくすると、その愛するものが、たとえなんであろうと、そいつのために二度と自分が傷つかないように、それを滅ぼしてしまいたくなるのだ』(大西尹明訳)。
 学校の帰り道、親友の桜子と私は「愛する者を滅ぼしてしまいたくなる思い」について、何日も話し合った。桜子は、ユダは愛するが故にイエスを売ったのだと主張した。そのとき私はまだオコサマすぎて、どうしてもその説が呑み込めなかった。愛がなぜそこまで行き過ぎてしまうのか、その理由が知りたかった。
 中2のある日、6時間目の国語が終わった後、教室を出て階段を降りようとする堀先生を呼び止めた。そのとき私が彼女に何を尋ねたのか、一体なんの相談をしたのか、まったく覚えていない。ただ先生が真剣な目で答えてくれた、その言葉を原稿用紙に残しておいた。
 「人を愛すことの幸せ。結果や過去はどうであれ、愛することの幸せに満ちている幸せ。それだけでいい。」以来、私がずっと心にしまってきた大事な言葉だ。「霧笛」の授業で涙するほどの経験をした彼女が教えてくれた、これ以上にないほどシンプルな真理。大人になった今は、その重みが痛いほどにわかる。
 数年前の秋、母校の講堂のパイプオルガンで、「ピエ・イエズ」を弾いた。堀先生のことを思い出していた。大きな筒を抜ける空気の余韻を耳にしながら、孤独と、生のはかなさを感じさせる霧笛のことを思い出していた。弾き終わって振り向くと、扉のところに石澤先生が立って待っておられた。自分から相談しに来た最中に、一言の断りもなく席を立って講堂に来ていたことを思い出し、慌ててオルガンから降りた。中2からまったく行動が変わらない私に呆れもせず、石澤先生が言われた。「たぶん、まきなはここにいると思った。」中2の私が、今の私を支えている。堀先生の言葉が、今の私を支えている。

ドニゼッティ オペラ「愛の妙薬」

2010-10-15 14:15:37 | オペラ・声楽
 恋人ができた。驚くほど理想的な恋人ができた。毎日新鮮な気持ちで過ごし、だいぶふわふわしている。支えてくれた友人たちに感謝をこめて報告すると、有難いことにみな声を上げて心から祝福してくれる。そのうち一人が、言った。「よかったねえ! ちょっと一体、何を飲んだの?」…これはつまり、「妙薬」のことだ。
 ドニゼッティのオペラ「愛の妙薬」。はじめてオペラを見る方には、真っ先にお薦めする。とにかく明るくて楽しくてほろりとするオペラだ。純朴な農夫の青年ネモリーノが、農場主の娘アディーナに恋をする。どうしても振り向いてくれないアディーナに好かれたい一心で、ネモリーノはいんちき薬売りのドゥルカマーラから買った「妙薬」(媚薬)を飲む。本当はただのボルドー・ワインなのだが、ネモリーノはそれを飲めば、きっと愛されるとかたく信じて飲む。効き目を早めるために、軍隊に身を売ってお金を手に入れてまで、妙薬を買う。阿呆くさいことこの上ないのだが、その一途な姿に、どうしても心打たれる。
 「愛妙」(と我々はよく略す)は、私が今まで最も多く関わったオペラでもある。学生時代、はじめてプロのオペラ公演の制作にバイトで入った際の演目だった。1カ月ほど稽古の現場に張り付いて、オペラができあがっていく様子を見たり、世界一流の歌手が誰より早く来て発声練習をするのを目の当たりにするという、非常に貴重な経験をした。多くの素晴らしい出逢いがあった日々だった。イタリア人歌手の朝の挨拶のキスが、日ごとに低い位置になるので、うぶだった私はかなり戸惑ったものだ。
 立ち稽古中、1幕のはじめに歌われるネモリーノのアリア「Quanto e bella(なんてきれいなんだろう)」を聞きながらぼんやりしていると、合唱のメンバーだった仲良しのSが来て、私をどついた。「まきな、ネモリーノそっくりやな。」否めなかった。ネモリーノは、私がオペラ作品中、最も共感できる登場人物である。つれないヒロインに向かって、馬鹿正直に愛を説くシーンは、見ていて胸が苦しくなるほどだ。稽古の間、雑用をこなしながら、いつも二重唱のネモリーノのパートを口ずさんでいた。
 本番当日、私は舞台裏で飲み物を用意したり、楽屋のセッティングをしたりして、慌しく過ごしていた。やっと仕事が落ち着いてふと息をつくと、有名なアリア「人知れぬ涙」が舞台から聞こえてきた。紆余曲折を経てアディーナに愛されていることを知ったネモリーノが、「もう死んでもいい!」と深い喜びを歌い上げるアリアだ。聴きながら静かにコーヒーを淹れていると、バリトンのNがやってきて、ぽそりと言った。「死んでもいいって思える女なんて、いるのかなあ。」そんな相手がいたら、もったいなくて私だったら死ねないな。むしろ欲深になりそうだよ。そう思いながら、私は答えた。「きっと、いるよ」
 物語の最後、アディーナはとうとうネモリーノに愛を告げる。彼女がなかなか肝腎な一言を口にしないので、ネモリーノはやきもきする。このシーンの音楽が素晴らしい。何遍見ても、じわっと涙が出てしまう。いざ恋が叶うという段になって、思わず臆病になったり、意地を張ったり、変な自尊心を持ち出したりする気持ちが、今となっては私にもよくわかる。「その言葉」が出てくるまでの緊張感が、こんなにもコミカルなオペラの最後に、とてもリアルに描かれている。
 結局、私が飲んだ「妙薬」は何だったのだろう、と思う。上述のバイトの仕事が終わったときに、私にとっての妙薬は、音楽の仕事をすることかもしれない、と根拠もなく思っていた。実際、ネモリーノのように何も考えず、愚直にちびちび飲んできた。そうしたら思いもよらないところから、効き目があらわれた。本人の考えの及ばない仕組みで降ってきたネモリーノの奇跡のように。
 今、確かに何もいらないぐらい幸せだけれど、私は元気に生きることにする。せっかく「人知れぬ涙」が実感できるような相手に出逢えたのだ、やっぱりもったいない。私に仕事をさせてくれた、大勢のドゥルカマーラ先生、ありがとう。妙薬、万歳!

イベール モーツァルトへのオマージュ

2010-09-13 02:44:28 | オーケストラ
 先月、オペラ初心者の方に「魔笛」の簡単な解説をさせていただく機会があった。「魔笛」の中で私が好きなのは、夜の女王の一幕のアリアと、パミーナとパパゲーノのデュエット、それからパミーナのアリアだ。あとは割と気楽に構えて、のんびり鑑賞する。そして、ザラストロのアリアでは、低周波と緩やかなテンポで、どうしても眠くなってしまう。しかし見せ場の一番低い音が来ると、毎回、ふと思い出し笑いをしてしまう。私の大好きなVictor Borgeのギャグを思い出すのだ。
 Victor Borgeは、20世紀後半にアメリカで活躍した、デンマーク出身の、エンターテイメント性の強いピアニスト。むしろピアノを弾くコメディアン、と言うべきだろうか。初めて私がBorgeの映像を見たのは、確か中学生の頃だったと思う。父の友人がアメリカから送ってくれたビデオ・テープだった。当時の私の英語力では、彼の冗談の1割もわからなかった。でも、なんだかピアノの上手い人がものすごく面白いことをやっている、ということだけは伝わってきた。少しずつ彼の英語の訛りに慣れて内容がわかるようになり、そのおかしさがひとつひとつ解明されていった。
 Borgeのすごいところは、なんといってもピアノがうまいことだ。ちゃんと一曲弾けば、色気があって、音楽的で小洒落ている。ところが、ちゃんとまともに一曲聞けることは、あまりない。笑いの半分は音楽なのだが、もう半分は言葉の遊びである。「ハッピー・バースデー・トゥー・ユー」を色々な有名作曲家のバージョンにしてみせたり、リクエストを取りながら、お客さんをいいようにからかったり。ハンガリアン舞曲の連弾をするコント、譜めくりのお兄さんをだしにする芸、ソプラノに憎まれ口を叩きながら伴奏するCaro nome(ヴェルディ「リゴレット」中のアリア)。どれも最高だ。
 私が最も気に入っているのは「モーツァルトのオペラ」という、10分ほどのとびきり楽しいネタだ。てきとうに作ったあらすじを語り、「モーツァルトのオペラっぽい曲」を弾き語る。モーツァルトを完全に茶化した失礼きわまりない代物なのだが、音が非常にモーツァルトっぽいことは否めない。オペラや、オペラ歌手をというものを完全におちょくっているのだが、「確かにこういう人いるよね」という部分があるからこそ、笑いが抑えられない。
 このネタの中で、Borgeはバス歌手の真似をする。レチタティーヴォ・アコンパニャートのような合いの手をピアノで入れながら、音程にならないほどの低い声を出して、げーげーと吐くような声で歌ってみせる。そして「人間は一体どこまで低いところへ行けるやら」と言い放つ。「魔笛」のザラストロを見るたびに、私はこのくだりが思い出されて、「どこまで低いところへ行けるやら」と思ってふと笑ってしまうのだ。(*多分この「低い」という単語には「下劣な」の意味が掛けられている。)
 モーツァルトのパロディや、「モーツァルト風」に作られたものは他にも数あるが、私はイベールの「モーツァルトへのオマージュ」が何より大好きである。モーツァルト生誕200年祭のときに作られた作品らしい。そこかしこに、「知っているような気がする」メロディーがちらほらする。きっとイベールも、モーツァルトが好きだったんだろうなあ、と思えてくる。楽しくて、屈託なくて、いつ聞いても気分が明るくなる。そして、間違いなくイベールの彩りがついている。
 自分の大好きなものを咀嚼して、自分なりの味付けをするって、こういうことかな、と思うのだ。自分の好きなものを選んで、それをなんとか消化して、自分だったらこうする、と差し出す。結局、人生の作業の大半は、そういうことなのではないだろうか。まあ、Borgeやイベールほど面白いものが差し出せるかどうかわからないけれど。
 「モーツァルトのオペラ」ネタの最後に「ソプラノは死ぬ前にアリアを歌う、いわゆるダイ・アリア(Die Aria)だ。」と言う部分がある。ライブCDを聞くとここでお客さんたちが爆発的に笑っているのだが、私はその意味が長いことわからなかった。学会でアジアの医療についての発表を聞いていたとき、Die Ariaと同じように聞こえる「diarrhea」という単語に出逢った。マジメな学会中、声を上げて笑いそうになるのを必死になってこらえたのは言うまでもない。

ロッシーニ オペラ「セヴィリアの理髪師」より 「今の歌声は」

2010-08-08 00:44:04 | オペラ・声楽
 長く続いている習慣はほとんどないのだが、高校時代からずっと毎日欠かさずにやっていることがひとつある。現金出納帳をつけることだ。寝る前にその日のレシートを整理して入力する。月末に費目ごとに合計を出して、月ごとの推移を見る。日々を振り返り、心が落ち着く。
 高2のときに生徒会の会計をやったのが、きっかけだった。レシートをノートの片面に貼って、金額を記入するやり方を覚えた。会計の顧問だったK先生は、どちらかというと口下手な数学の先生で、私が勢い良くまくし立てると、会話が成り立たなかった。ところが、桁をきれいに揃えて書いたノートを黙って開いて見せると、先生はにっこりと頷く。出納帳は、我々のコミュニケーション・ツールになった。
 大学4年で会社ごっこを始めた日から、帳簿もつけることにした。父の事務所で経理をやっていたお姉さんに、伝票の起こし方を教わり、会計ソフトの入力方法を覚えると、たちまちこの作業が好きになった。起業した後も、経理も税務申告もそのまま自分でやっている。最近は、帳簿をつけていると脳内にセロトニンが出るような気がする。とても穏やかな気持ちになる。
 算数はそんなに好きではなかったのに、なぜお金の管理は好きなのか。おそらく、根本的に「ケチ」だからだ。どうも小学生のときからそうだったらしい。友達と遊びに行ってもほとんどお金を使わない私見て、母はよく訝しげな顔をして驚いていた。何不自由なく育ったのに、なぜそんなに財布を開けることを嫌がるのかと、本気で不思議がっていた。自分で会社を始めて、費用=投資という考え方ができるようになってからは、だいぶ気前がよくなったと自分では思っているのだが、父は今でもときどき私のケチぶりをからかう。
 吝嗇家とはちょっと違うが、中高時代に部活でミュージカルをやっていたとき、オヤジ役専門だった私は、スリの親玉の役を2度もやった。劇団四季のオリジナル作品「雪ん子」の親方役と、おそらくその本ネタであろう「オリバー!」(ディケンズ原作)のフェイギン役だ。いずれも、子どもたちにスリをやらせて食べている、せこい爺さんだ。
 盗人にも三分の理というが、彼らも自分なりの哲学を持っていて、それを歌やセリフで開陳する。愛しい貯金箱を抱えた独白シーンは滑稽だが、なぜか自分にしっくりきて大好きだった。考えたら、夜中に帳簿をつけて一人笑む私と、大差ない。スクルージも、アルパゴンも、他人事とは思えない。
 しかし節約の美徳も度を越すと、精神活動まで「ケチ」になってしまう。1タラントンを死守することが目的化してしまう。だから私は、何かをする際には、自分に言い聞かせる。「出し惜しみをしない。」アイデアを出すとき、新しいことに挑戦するとき、何かを教えてほしいと頼まれたときには、特にそうだ。そしてこの教訓を常に思い出させてくれるのが、オペラ歌手の友人たちだ。うっかりするとしみったれになる私を、いつも解放してくれる。コンサートの冒頭からいきなり派手な曲を披露したり、お客さんのノリ見て最後の高音を長めにのばしたり、これでもかというぐらいアンコールをやっているのを見ると、思わず反省する。「ああ、やっぱり。出し惜しみをしない、だな」と、つくづく思うのだ。
 その極みが、ロッシーニだ。もともとそんなに興味はなかったのだが、ロッシーニを得意とする友人のソプラノ・山口氏の本番を何度も聴いているうちに、だいぶ身近な音楽になってきた。アジリタ(細かく速く動くパッセージ)や早口も、ボッポボッポとベースに煽られて盛り上がる「ロッシーニ・クレッシェンド」も、こういう「型」なのだとわかってはいても、なんだか漫画っぽくてどきどき笑ってしまう。聴衆を驚かせ楽しませようというホスピタリティ満載の音楽には違いない。
 正直言えば、いまだにロッシーニのアリアや重唱に出てくる音符の多さには面食らう。「その16分音符、楽器で弾いたほうが手っ取り早いんじゃない?」と、しばしば思ってしまうのだが、これこそケチな考えだ! 歌い手さんたちが、相当の自己抑制をかけながら芸術と曲芸をいっぺんにやっている姿を見ると、爽快感を通り越して、尊敬の念を覚えたりする。音の数も、技術も、努力も、出し惜しみしているヒマがないのだと思う。
 ロッシーニでおそらく最も有名なアリアは、「セヴィリアの理髪師」のロジーナのアリア「今の歌声は」だろう。単独で演奏されることも多く、CMにもよく使われている。サン=サーンスの「動物の謝肉祭」の「化石」の中では、「ロッシーニなんてもう化石のように古い」という皮肉として引用されているが、何度聴いても楽しい。やはり名曲なのだ。
 我が身の単純さを少々恥ずかしく思いながらも、このアリアを聴くたび、どきどきする。どんな強いロジーナが現われるのか、どんなコケティッシュな魅力が繰り出されるのか、どんなカデンツァ(歌い手の裁量に任された部分)が披露されるのか。これは、部屋で一人こっそり聞く音楽ではない。生で聴いて、その臨場感とスリルを味わって、面白かったら、最後には気前良くブラヴァの一声もかけようではないか。出し惜しみのない歌には、惜しみなく拍手を送ろうではないか。
 帳簿をつけて、穏やかに眠りにつく日々のなんと幸せなことか。しかし、日々得たものを、惜しみなく放出できれば、もっと幸せだ。どうせならロッシーニのアリアぐらい、大盤振る舞いに。ともするとせせこましくマジメになり、なんでもこじんまり作りがちな私に、師はいつも言っていた。「やりすぎぐらいがちょうどいい。」

ドヴォルザーク 8つのユモレスク Op. 101 より 第7番変ト長調

2010-07-10 00:55:39 | ピアノ
 幼稚園の卒園記念に、園児の声と歌を吹き込んだカセットテープが作られた。我々は一列に並ばされ、名前と将来なりたい職業を一人ずつ吹き込んだ。その時の葛藤は、かなり生々しく思い出せる。自分の番が回ってくるまで、ずっと悩んでいた。
 同じ組には、ピアノが上手なさほちゃんがいた。自分よりうまい人がいるのに、ピアニストになりたいなんて、おこがましい。というより、自分よりできる人がいることは、やってもしょうがない。録音マイクの前で、他の女の子たちを真似て、「かんごふさん」と言った。嘘をついた。なんとも言えない苦い気持ちだった。
 おそらく、かなりの負けず嫌いだったのだと思う。小学校に入れば、ピアノの上手い子はクラスにざらにいたし、すぐそばには悪友Cという歌姫がいた。うまいやつがいるんだから、別に私がやることはない。テクニックで勝負するより、光GENJIの新曲をいち早く聞き覚えて教室のオルガンでそれっぽく再現するほうが良い。人と競争するよりもニッチを選ぶという戦略を、ずっと取り続けた。誰が、どれぐらい音楽ができるのか、いつもどこかで鋭く察知していた。
 いずれにしても、常に音楽のそばにいた。小学3年生になって、学校の図書室が使えるようになったとき、最初に見つけたのは作曲家の伝記シリーズだった。隅の棚の一番下の段に、子供向けに書かれた伝記が並んでいた。バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームス、リスト、ショパン、ワーグナー、J.シュトラウス、チャイコフスキー、サン=サーンス、ドビュッシー…。
 片端から読んだが、内容は全く覚えていない。史実に忠実な伝記ではなく、あくまで子供が読んで楽しい「物語」として書かれていた。たまに知っている曲が出てくるのがうれしくて、次々読んだ。どんな気持ちのときにその曲が作られたのか、どうしてその曲を作ろうと思ったのか、そんなことに思いを馳せることができた。
 この伝記シリーズの中で、たった一つだけ覚えているのは、ドヴォルザークの「作品101ユモレスク」のシーンだ。おぼろげな記憶だが、確かこんなストーリーだったはずだ。ドヴォルザークが、アメリカで出会った黒人の少年に曲を書いてあげると約束した。故郷へ戻った彼は、葉書にユモレスクのメロディーを書いて少年に送った。葉書を受け取った少年のお父さんがヴァイオリンを奏で、少年と二人、夕暮れの納屋でいつまでも踊っていた…。もちろんフィクションだろうが、心あたたまるページだった。
 有名な「ユモレスク」は、クライスラーが小品として演奏したのがきっかけで、ヴァイオリン版がポピュラーになったのだが、原曲はピアノの小品だ。私が小さい頃、父がよく家でぽろぽろと弾いていた。それも、フラット6つの調が難しいからと、いつもト調に落として弾いていた。和音が細かく移り変わるところと、メロディーが「半音下がる」(つまりブルーノートになる)部分が大好きだった。幼い私はせがんだ。「ゆーもれすく、ひいてー」実は私も、さんざんこの曲に合わせて踊ったのだ。子供用の伝記に出てきた黒人の少年に、強い親近感を覚えたのはそのせいだ。
 大人になってから、自分が小3のときに書いた、ドヴォルザークの伝記の読書感想文を見つけた。ドヴォルザークは鉄道に興味があり、肉屋の資格も持っていた。「だから音楽だけじゃなく、いろんな事を知っていた方が、いい曲が、たくさん作れると思います。私も、いろんな勉強をして、りっぱな、音楽家になりたいです。」担任の栃内先生の花丸と、コメントが付いていた。「その方がいいわ、大さんせい。そして音楽で人の心を喜ばせてね」
 私が音楽家になるという道を選ばなかったのは、「音楽は趣味でやりなさい」という家訓のためだったと、長いこと自分自身でさえ思っていた。才能がないのだと自分に言い聞かせていたこともあった。なんとなく音楽の道に進みたいけれど、どうしていいかわからないという悶々とした時期が長く続いた。自分の役割や立ち位置を見出すまでは、すいぶん悩んだものだ。
 今になってみると、要はそれほど「音楽家になりたい」とは思わなかったのだな、と笑いながら振り返ることができる。こうして、とことん音楽を楽しめる身になってみると、あんなに悩んだのがもったいなかったと思うほどだ。しかし、自分の居場所を見つけるまでの葛藤の数々は、無駄ではなかったはずだ。小さい頃から「他人」の音楽的能力に関して非常に敏感だったことを考えると、もしかしたら今は自分にぴったりの仕事をしているのかもしれない。
 ユモレスク、聴けばいつも懐かしくあたたかい気持ちになる。たくさん悩んだことも、泣いたことも、くやしかったことも、全部通り越して、ただひたすら踊っていた頃の気持ちに戻る。そして、ずっと音楽と一緒に生きられることに、感謝でいっぱいになる。あれやこれや手を出しながら、こうして音楽の仕事をしていることに、天国の栃内先生は花丸をつけてくれるだろうか。