音の向こうの景色

つらつらと思い出話をしながら、おすすめの名曲をご紹介

グリーグ 2つの悲しい旋律 Op. 34 「最後の春」

2012-12-25 00:54:35 | オーケストラ
 今年も、慈恵医大病院のゴスペル・コーラスのコンサートの司会をさせていただいた。関係者が「慈恵ゴス」と呼ぶこのコーラスは、今年で発足10周年のゆるやかなグループだ。お医者さん、看護婦さん、薬剤師さん、病院事務の職員さん、医学や薬学を学ぶ大学生など、慈恵の医療関係者を中心に結成されている。入院中の患者さんたちに、少しでもクリスマス気分を味わってもらえないだろうかと考えた先生方が、病棟内の小さなスペースで歌い始めたのが発端だったそうだ。年を追うごとに人の輪が広がり、外部のゴスペル好きの仲間もたくさん加わって、いまや60人近い大所帯になっている。
 私が「慈恵ゴス」に出会ったのは、2007年。発起人の沖野先生兄妹(精神科ドクターと耳鼻科ドクター)が声をかけてくださって、クリスマス・コンサートでピアノ伴奏をさせていただいたのが最初だった。以来、ピアノだけでなく、音響や司会などで、細々と隅っこに加えていただいている。みんなのあたたかい歌声とやさしい笑顔に、いつも心がほっとする。音楽があって良かった、と心から思える。
 クリスマス・コンサートの内容は、ゴスペル風にアレンジされた曲の他、讃美歌やクリスマス・ソングを交えて10曲ほど。会場となる病院併設ビルのロビーは、手作りのかわいらしい装飾に彩られて異空間に変わる。客席には、寝間着にコートを羽織った患者さんの他、車いすやストレッチャーに乗った方もいらっしゃる。患者さんのご家族も、寄り添うようにして聴いていらっしゃる。お子さんたちもいれば、お年を召した方もいる。
 コンサート後半で、お客様と一緒に「きよしこの夜」歌うと、私はいつも胸がいっぱいになってしまう。涙をぬぐう患者さんの姿を見ると、思わず泣き出しそうになる。指揮者である麻酔科ドクター・内海先生の言葉を、毎回思い出すからだ。「その患者さんにとっては、これが最後のクリスマスかもしれないんだ。人生最後のクリスマスを、病院で過ごさなくちゃいけないかもしれないんだ。そう思って歌わなくちゃ、だめなんだ。」
 今から13年前、母が最後に入院したときのことを思い出す。テレビも本も雑誌も目にしたくないと言うので、私はいくつかCDを見つくろって病室へ持って行った。どれを聴いても煩く感じると言う。普段あまりクラシックを聴かなかった母が、「この曲だけは心が落ち着くわ」と喜んだのが、グリーグの「最後の春」だった。私はとてもじゃないけれど、題名を告げられなかった。「ああ、グリーグだね。本当にきれいな曲だよね」
 タイトルは「過ぎにし春」「過ぎた春」などと訳されていることもあるが、元になっているグリーグ自身の歌曲の詩(ヴィニェ作)を読むと、明らかに「最後の春」だ。自分の寿命を悟った人間が「これが自分にとって最後の春になるのだろうか」と歌っている。中田喜直が曲をつけた三好達治の「たんぽぽ」のワンフレーズ「あわれいまいくたびめぐりあふ命なるらん」に近いものを感じる。この美しい春も、人生で最後かもしれない――グリーグの切ないメロディーにこめられた詩情が、母には直観的にわかったのかもしれない。
 母が病院で息を引き取って以来、私は「お医者さん」という人種があまり好きでなかった。何年もの間、救急車の音を忌み嫌い、病院という場所を避けていた。そこで誰かが日々頑張っているということなど、考えたこともなかった。生命倫理の研究室にいる間も「患者の権利」ばかり気になって、医療従事者が何を感じて仕事をしているかということに、思いを馳せたことなど一度もなかった。2007年の秋に、初めて慈恵ゴスの練習に参加した日も、「病院の空気なんて吸いたくない」という複雑な気持ちがどこかに巣食っていた。
 指揮者の内海先生は、真剣で、熱くて、指導も厳しかった。合唱の初心者さんが必死に歌っていても、宿直明けで体力の限界まで頑張っている人がいても、まったく容赦ない。「できようができまいが、みんなで一生懸命になって作る」という情熱が、やたらと新鮮だった。繰り返し繰り返し、丁寧に指示を出し続ける内海先生のエネルギーが、私の強張った気持ちをほぐしていくような気がした。
 ある日、新生児集中治療室の小児科のお医者さんが練習の途中でやってきた。疲れ切った様子で、激務の中のほんの少しの休憩時間を割いてきたようだった。見ると、みんなと声を合わせて思い切り歌う彼女の頬に、とめどなく涙が流れている。誰も何も言わずに、歌い続けた。ほんの10分後、職場へ走り戻る彼女の顔は、明るく毅然としていた。救えなかった命、どうにもできない命と向き合う人の姿を、私は目の当りにしたのだった。
 コーラスのメンバーと少しずつ話を交わしているうちに、自分と同世代の人たちが、情熱を持って医療現場に立っているということを、肌で感じるようになった。自分と同じように血と肉と感情を持った人達が、葛藤と無力感と戦いながら生きている。ときには、どうにもできない命と向き合って生きている。どんなに手を尽くしても、「これが最後のクリスマスになるかもしれない」患者さんとも、まっすぐ向き合っている。気負いもなく、それぞれが、ただ一人の人間として、ひたすらに。
 これが最後の春かもしれない。最後のクリスマスかもしれない。思えばこれは、私でも、あなたでも、目の前にいる人であっても、患者さんであっても、同じことなのだ。たとえ自分にできることはわずかであっても、一生懸命に自分の役目を果たす。できるかぎりを尽くして生きる。そんな日々でありたい。「慈恵ゴス」のみんなが教えてくれた情熱を、いつも胸に抱きながら。

ヴェルディ オペラ「ドン・カルロ」より 「むごい運命よ」 O don fatale

2012-11-25 21:43:01 | オペラ・声楽
 やっと、永竹先生にお線香を上げさせていただいた。半年も経ってからでごめんなさい、と心の中でお詫びをしながら。そして、他では絶対見られないような、先生らしい戒名に、思わずふっと笑いながら。手を合わせているうちに、先生との他愛もない会話ばかり思い出した。恩返しは何一つできなかった。
 オペラ解説家の永竹由幸先生。今年の5月にお亡くなりになった。私がお世話になったのは、大学2年から4年の2年間ほど。当時オペラのプロデューサーになりたいと思い始めていた私は、丁稚奉公をさせていただくという形で、1年近く先生の事務所で勉強させていただいた。「インターン」というより「弟子入り」という感じだった。
 まず、先生の事務所にある膨大なお宝映像資料の整理を少し。それから、大学院オペラ科の講義録を取ったり、打ち合わせに同行したり、見よう見真似で企画書を書いたり。オペラの招待券が届くと、よく連れて行ってくださったし、あちこちでご馳走になった。お寿司の食べ方を直されたことも。「マッキナ、おまえ、本当に美味しかったら『Squisito』ってんだよ~。ちったあ、いい言葉も覚えなきゃ。」
 はじめは私の名をイタリア語風に「マッキナ(Macchina:車、機械)」と呼んでくださったのだが、そのうち呼び名は「菜っ葉」になった。私が大きな声で返事だけしてモタモタしていると、「おい、なっぱ、『菜っ葉の肥やし』って知ってるか?」と、歯切れの良い江戸弁で叱られた。しょっちゅう怒鳴られながら、華やぐオペラの世界を覗き見していた。
 永竹先生との出会いは、先生が企画された音大生のオペラツアーだった。ひょんなことから部外者の私が混ぜてもらえることになり、2度参加した。2週間、観光して、食べて、飲んで、オペラを観る、その繰り返し。とにかく博学な先生の歴史解説が面白い。私は先生の話が聞きたくて、いつも隣に席を陣取った。作品の外側からオペラという「文化」を見る楽しさ。素人にも嬉しい下世話な話題も多く、歌科のお姉さんたちと毎日ひたすら笑った。酔っぱらうと、みんなで「ナブッコ」の序曲を歌いながら、肩を組んでラインダンスしながら歩いたりした。
 1度めのツアーの際、ボローニャの歌劇場で「ドン・カルロ」を見た。その日のエボリ公女はルチアーナ・ディンティーノ。爆発的で、素晴らしい歌だった。アリア「むごい運命よO don fatale」に圧倒され、体の芯まで感動した。まったく興奮が冷めず、その夜は先生とソプラノのCちゃんと3人で、明け方まで飲んだ。先生お得意のヴェルディ。オモシロ解説が冴えわたり、恋愛談義に花が咲いた。
「おれイタリア語がよくわからないころ、O don fataleのdonって、donna(女)だと思ってたんだよ。女はこわいな~、って(donna fataleだと、魔性の女といった意味になる)」私たちは夜中のホテルのバーで大声を上げて笑い、「女に乾杯!」とワイングラスを鳴らした。O don fataleは、ヴェルディの中で最もかっこいいアリアの一つだが、私はときどき先生のこの話を思い出して、ニヤリとしてしまう。
 私は、ちょうど先生のところで勉強させていただいている間に、大学院を受験した。色々なところで話しているのだが、博士課程に進んだのは永竹先生の一言がきっかけだった。勉強しなさい、と大いに背中を押してくださった。ところが学部の卒業前に、ちょっとした意見の食い違いがあって、急に疎遠になってしまった―確か、青臭い私が食ってかかり、強情を張ったような気がする。その後、風の噂でご活躍は耳にしていたのだが、結局10年以上お目にかからないまま、お別れしてしまった。
 それが今年の8月末、不思議なご縁で、先生のお嬢さんに出会った。ここで会ったが百年目。ほぼ初対面だったのだが、私は堰を切ったように話した。先生にどれだけお世話になったか。どんなに感謝しているか。それなのに、なぜ、お葬式に伺えなかったか。お嬢さんの明るい声が先生にそっくりで、まるで拝むような気持ちだった。
 そして今月、10数年ぶりに先生のお宅にお邪魔した。ドアを開けた瞬間、懐かしい匂いに目の奥が熱くなった。思えば、週に1,2度は通わせていただいたのだ。どきどきしながら伺った地下の事務所は、以前とまったく変わらないまま。ただ、先生の大きな遺影と、積まれた惜別のお手紙が、淡々と時の経過を示していた。階段を上がろうとした瞬間、思わず涙がこみ上げた。
「なっぱ、おまえはImpresarioになれ。」Impresarioは日本語に訳すと「興行師」だろうか。「プロデューサーでも、呼び屋でも、制作会社でもないんだよ。」歌い手の良し悪しから、作品の背景、演出のことまでわかった上で、興業をやる。ビジネスがわかっていて、お金に強い。人情に厚く、いざとなったら少々こすい手も使う。酸いも甘いも嚙み分けて、人間として面白いImpresarioになれ、と。深みのある人間になれ、と。
 そのメッセージが、いつもいつも心の奥にある。先生、どうぞ安らかに。

メンデルスゾーン 6つの二重唱 Op.63より「秋の歌」

2012-10-26 22:36:25 | オペラ・声楽
 今日お会いした方に、「秋にオススメの曲はありますか?」と尋ねられたので、メンデルスゾーンの二重唱の「秋の歌」と答えてきた。メンデルスゾーンには、独唱用の「秋の歌」という歌曲もあり、こちらも素晴らしいのだが、秋の歌と言えば、私は真っ先に二重唱のほうが思いつく。女声2人用に書かれた美しい重唱曲集の4曲目。私がこの曲に始めて出会ったのは、小学生のときだった。
 小3から小6ぐらいの間だったと思う。週末になるとよく、同級生のまーちゃんのお家に遊びに行った。日曜の教会学校の後は、しょっちゅうお邪魔していた気がする。まーちゃんは3人兄弟。一人っ子の私は、兄弟喧嘩を物珍しく眺めながら、みんなで鬼ごっこをし、ケンパをし、MSXのゲームで盛り上がり、そして音楽をした。父と私はいつもピアノで連弾をしていたが、まーちゃんのお家では、違う楽器と一緒に楽しむ「アンサンブルの喜び」を教えていただいた。
 まーちゃんのパパはフルートを吹かれ、まーちゃんはリコーダーを、お姉ちゃんの陽子ちゃんはピアノを、弟の雅一くんはヴァイオリンを弾いた。私はリコーダーを吹いたり、習い始めたばかりのヴァイオリンを擦ったり、陽子ちゃんと交替してピアノを弾いたりした。高声部楽器の簡単な重奏の譜面を、パパが選んでくださって、それを色々なペアで弾いてみた。いつも初見で遊ぶという習慣は、ここで身に着いた。
 弾いていたのは、おそらくバロックの小品や、歌の編曲だったと思う。いずれにせよ私達子供は知らない曲ばかりだった。ただ1曲だけ、私の記憶に鮮明に残った曲がある。美しい短調メロディーの二重奏に、流れるようなピアノの伴奏がついていた。そこにはハモる喜びと、追いかけて弾く喜びがあった。私達はたちまちこれが好きになり、何度も繰り返し弾いた。高校時代、昼休みのコンサートで上級生が歌っているのを聴いて、これがメンデルスゾーンの二重唱なのだと知った。「秋の歌」というタイトルだった。
 秋が来る寂しさを歌っている内容だが、「なんと早く踊りは終わってしまうのか」「なんと早くすべての喜びは悲しみに変わってしまうのか」という歌詞を反映して、意外とテンポが速い。子供の頃ゆっくり弾いた印象が強いせいか、いつ聴いても「速いな」と感じてしまう。あっという間に気温が下がり、冬がやってくるときに感じる、あの「季節が巡る速さ」だろうか。
 さて、私達子供が合奏の喜びをすっかり覚えた頃、まーちゃん一家と、うちの従兄弟の家と、我が家の三家族は、年始やGWに集まって「こどもコンサート」を始めた。小さなホームコンサートである。まず、くじ引で順番を決めて、子供達がそれぞれ練習してきた曲を発表する。その後は好き放題、「あれやろう」「これやろう」と、初見合奏大会をする。お父さん達はお酒を楽しみながら楽器を弾き、お母さん達は料理の腕を揮ってくれた。
 我が家でもう10年以上続いている「音楽祭」の原型はここにある。今では毎年2回、初心者からプロまで仲間が集まって、発表会+合奏大会をしている。有難いことに仲間も増えて、ちょっとしたオーケストラになることもある。最近はまーちゃん、陽子ちゃんのお子さんたちも加わるようになって、次世代へと続いている。
 音楽は、楽しい。何よりも誰かと一緒にアンサンブルするのが、楽しい。ひとつの曲を一緒に弾いているときは、年齢も、職業も、国籍も関係ない。その喜びを教えてくれた、まーちゃんのご一家には、いつも感謝でいっぱいだ。近い将来、まーちゃんの息子さんと一緒に、ヴァイオリンでこの「秋の歌」を重奏するのが、私のひそかな夢である。

チマーラ 「郷愁」

2012-09-23 21:17:49 | オペラ・声楽
 中高時代は、部活のために学校に行っていた。5年間、音楽部という名の、ミュージカルをやる部に所属していた。中高一貫なので、中1から高2まで一緒になって舞台を作る。はじめは大道具や幕を作る裏方が主だったが、大勢でひとつのものを作り上げることが嬉しかった。演技をするのも、できないダンスをするのも楽しかった。何より、学校中で自分たちしか知らない歌を、先輩・後輩と歌えることが嬉しかった。
 我々の頃は、ブロードウェイの名作や、劇団四季の作品が主な演目だったが、文化祭のときには「オリジナル」を上演した。オリジナルと言っても、新しい曲を作って上演するわけではない。私達より5~6代上の先輩方が始めた形で、「自分たちで脚本を書き、そこに色々なところから曲を借りてきて集め、日本語の歌詞をつけて、替え歌にする」という方法だった。
 借用されたのは、たいていはミュージカルや映画の曲。毎年、最高学年の高校2年生が制作をするので、自分が高1までに覚えた歌の出所は、後々になって知ることがほとんどだった。「アニーよ銃を取れ」「オクラホマ」「チェス」「Big river」…etc. 元の作品を見た際には、思わず音楽部の替え歌歌詞を口ずさんでしまった。
 中1のときに文化祭で上演された“オリジナル”ミュージカルの中に、1つだけとても音域の広い曲があった。舞台脇で合唱する先輩たちが、一生懸命上のGを歌っていた。当時から、なんとなくこの歌だけは毛色が違うと感じていて、ドラマチックで素敵な曲だなと思っていた。私がこの歌の引用元に出会ったのは、大学時代だった。
 チマーラの「郷愁」という曲だった。チマーラは「イタリア近代歌曲集」にいくつか歌曲が入っている作曲家で、ジャンルとしては純粋に「クラシック」だ。あるとき友人が、コンクールで伴奏をすることになったと言って、2つキーを下げた手書きの移調譜を見せてくれた。弾いてもらったが、初めは何の曲か思い出せなかった。後半、調が変わるところを聞いた途端、音楽部の歌詞が自動的に口をついて出てきた。懐かしい! 私は飛び上がって、楽譜をコピーさせてもらった。
 ハイネの美しい詩につけられた歌だった。タイトルの「Nostalgia」は「郷愁」と訳されているが、遠い故郷を懐かしむ内容ではなく、なかば幻想的に「人」を思い出している情景だ。おそらくは、失った人。愛した人を。

『夕べに 眠れる森へ 疲れてゆく時
私のそばにお前の繊細な姿が見える様に思える
白く見えるのは、お前のベールなのだろうか?
それとも松の茂みの中へさし込む月明かりなのだろうか?
でも、ひそやかに聞こえるのは、私の涙の流れる音か?
それとも、本当にお前が私について来て こんなに泣いているのだろうか?』

 詩の中にある「delicata」(繊細な)という言葉どおり、曲はささやくように始まる。ぼんやりと見える幻影を壊さないように、少しずつピアノに動きが出てくる。差し込む光の源をたどり、目を空へ向けながら、転調する。涙の音がそっと三連符の和音で現れ、「piangi tanto」(こんなにも泣いているのか)の盛り上がりへと進んでいく。心の機微が、なんと細やかに表現されているのだろう。曲は決して悲壮ではなく、どこか透明である。
 以来、色々なところでこの歌を聴くようになった。聴くたびに、中学時代にミュージカルをやった旧校舎の講堂を思い出す。雨の日に匂う木の椅子の匂い。すりガラスの窓の白く淡い光。臙脂色の幕の向こうに見えた客席。照明の光に霞んだ空気。よくわからない憧れと、よくわからない切なさ。できたことでなくて、できなかったこと。舞台が終わってしまうさびしさに、涙を流しながら炊いていたドライアイス。
 そして、この曲に載せて音楽部時代に歌った歌詞。劇中で歌われる意味とは異なるのだが、はからずも「懐古」のコンセプトが感じ取れる言葉だった。「時の流れの中に 何かがあるのなら 探しに行こう だって 僕らは時の旅人なのだから」これが、私自身の小さな「郷愁」だ。

シェイファー 「自由の象徴」

2012-08-22 22:23:53 | その他
 小学生の頃、父の知り合いの指揮者さんが振るコンサートに連れて行ってもらった。年に1、2度だったと思う。曲目はいつも、ベートーヴェンやチャイコフスキーの定番シンフォニーで、いずれも子供にとっては「知らない曲」で「長い曲」だった。私はおとなしく席に座り、しばしばぐっすり眠った。
 子供が飽きないようにという配慮だったのか、父はときおり私にポケットスコア(A5サイズの総譜)を手渡してくれた。父なりの音楽教育だったかもしれない。おそらくは、自分が読むために持って行って、途中で小さな音符に目が疲れて私に投げてよこした、というのが実情だったと思う。いずれにせよ、曲の途中で無造作に、はい、とスコアが渡された。
 私は開かれたページの中から、「今どこにいるのか」を必死になって探し出す。さっさとしないと、音楽は次のページに逃げてしまう。オーボエのひと節や、特徴的なリズムを手がかりにして、なんとか現在地を見つけ出すと、何か素敵な乗り物に乗ったような気持ちで楽譜の流れを追っていく。
 ところが、オーケストラのスコアには落とし穴が随所に潜んでいる。まず、ページによって、書かれている五線の段数が異なるのだ。長くお休みをしている楽器の五線が省かれている (私が使っている「Finale」という楽譜編集ソフトの用語では「最適化」と言う)。ページによって段組が違うことを知らなかった私は、演奏する楽器の少ない静かな場面になると、毎度迷子になってしまった。
 そこで慌ててあちこちページをめくっていると、冒頭の旋律が聞こえてきたりする。「あ、繰り返しだ!」急いで最初のページに戻って、ほっとする。ところがしばらくすると、違う調に変わってしまう。またもや取り残される。ソナタ形式は曲者だった。
 スコアの一番の謎は、五線によって調号(最初についているシャープやフラットの数)が違うことだった。みんなでひとつの曲を演奏しているのに、なぜスコアの真ん中辺の人たちは、違う調なんだろう。どう考えても、耳から聞こえてくる音と、書いてある音が違う。中学生になるまで、私は世の中に、B管、A管などの移調楽器があることを知らなかった。
 さらにおそろしかったのが、ト音記号でもヘ音記号でもない、変な音部記号。ヴィオラの譜面に使われるアルト記号だ。当時はなんとなくこれが魔女の文字のように見えた。スコアを手渡されるたびに、その記号のついた段を追いかけ、ある日気づいた。このパートの人たちは、書いてある音と、ひとつズレた音を弾いている! 魔術的な匂いがした。オーケストラは、不思議な力に満ちて見えた。
 私が初めて自分でスコアを買ったのは、高校2年のときだ。吹奏楽バンド用の「自由の象徴」という曲だった。部活仲間のわら(吉原祐美子氏)が、弟さんの吹奏楽発表会でこの曲を見つけてきた。彼女は、部活のミュージカルのオープニングに「この曲を使おうよ!」と推薦してくれた。何かが始まる楽しい予感があるような、わかりやすい明るい曲だった。静かな中間部は、プロローグのセリフを入れるのに、ぴったりだった。
 銀座の楽器屋さんの管楽器フロアに、生まれて初めて足を踏み入れ、どきどきしながらスコアとパート譜のセットを買った。開けると、知らない管楽器の名前がずらりと並んでいた。おまけに移調楽器ばかりで、スコアは段ごとに調号が違う。なんだこれは。まったくブラス文化に触れたことのなかった私は、面食らった。
 我々のミュージカルで使うためには、とにかくこれを、ピアノ4手用に書き換えなくてはいけない。共通の調号がついている段をピックアップし、少しずつ読み解きながら、4段の五線譜に音を移していく。頭の中で移調し、わからなくなったらドレミを書き入れる。やり始めてみたら、これがなかなか面白い。魔法の世界だと思っていたスコアの秘密を、自分の手で解いていくような気がした。
 後になって知ったのだが、シェイファー作曲「自由の象徴」は、初心者の多いブラスバンドのために書かれた曲だった。どうりで、私にも理解しやすかったわけだ。デイヴィッド・シェイファーはアメリカの学生バンドの指導者として、この手の作品を多く残している。技術のない初心者でも楽しめるように、合奏の喜びが感じられるように書いているのだ。きっと彼の曲を演奏して、音楽が大好きになった少年少女が、アメリカにも日本にもたくさんいるに違いない。
 この曲が作曲されたのは1991年。私が楽譜を買ってきたのは、1993年。最近まで知らなかったのだが、当時は新しい曲だったのだ。まさか太平洋の向こうで、「ブラスバンドをやっていない」一高校生が、スコアを1つ1つ解読して胸をときめかせていたとは、よもやシェイファー氏も思わなかっただろう。私にとっては、新しい世界を開いてくれた、希望の一曲だった。

シューベルト ピアノ五重奏「鱒」

2012-07-27 13:02:13 | 室内楽
 「今年も無事にクリスマス・レクチャーin Japanが終わりましたよ」と、ご連絡をいただいた。2008年から昨年まで計4回、仕事でお手伝いさせていただいたイベントだ。今年の模様は、秋にEテレ(NHK教育)で放映されるらしい。
 「クリスマス・レクチャー」は、英国でマイケル・ファラデーの時代から続く、子供向けの実験ショーだ。有名な科学者が、クリスマスの贈り物として、子供達に科学の魅力を伝える。矢継ぎ早に行われるデモンストレーションが特徴で、客席の子供が舞台に上がり、いくつもの実験に参加する。20数年前から、読売新聞社とブリティッシュ・カウンシルが共催で、これを翌夏に「輸入」している。会場は毎年満席で、好奇心にあふれたキラキラした瞳が並ぶ。
 公演の直前になると、イギリスから大道具が届き、講師と数人のアシスタントが来日する。音響・照明などの舞台スタッフさんや、同時通訳さん、運営スタッフさんたちが一緒になって、本番のホールで内容を詰めていく作業は、オペラとよく似ている。大学生のボランティア・スタッフも加わって、現場は活気づく。
 お手伝いしたどの公演も楽しかったが、2009年のことが最も印象に残っている。この年私は、生まれて初めてと言ってよいほど、「チームワーク」の醍醐味を体感した。――まず自分の仕事を楽しんでやる。それぞれが独立して、持ち分の作業を進んでやる。互いを尊重し、互いに聴き合う。できることは助け、助けられる。そしてひとつのものができあがる。それが驚くほどに、新鮮だった。
 実はそれまで私は、「チームワークは苦手」だと思っていた。幼い頃から基本的に一人で行動するほうが楽だったからだ。高校時代には「皆で相談しているヒマがあったら、自分で決めてさっさと実行したい」と考えていたし、会社を始めたときも、誰かと立ち上げるなんて考えもしなかった。役割分担のしくみは理解していたが、チームとして動く面白さは、よくわからなかった。要は、好き放題わがままが言えないのはイヤだ、と思っていたのだ。
 2009年のクリスマス・レクチャーの大阪公演の仕込み中、ある夜、スタッフチームでわいわいと梅田スカイビルの展望台に登った。見上げると、くっきりと明るい星が見えた。ロンドンから来たアシスタントのルイスは宇宙生物学が専門だったので、夜空を指して確かめてみた。「Is that Jupiter?(あれは木星?)」「Yeah. (うん)」あまりにも何でもない会話だったのだが、そのときなぜか私は、ふっと肩の力が抜けた。
 ああそうか、全部自分でやろうとしなくてよいのだ。教えてもらえるのだ。助けてもらえるのだ。それぞれ己の足で立っているから、大丈夫なのだ。私が東京公演で大失敗をしたときも、みな素早く、静かに救ってくれたではないか。はっとして周りを見回すと、思い思いに夜景を楽しむチームの皆がいた。みんなこんなにもバラバラで、でもそれぞれが楽しそう・・・これがいいのだ。
 公演終了後、観光で訪れた京都の三十三間堂の縁側で、ぼんやりと青空を見ていると、イギリス人たちがやってきて、右手を差し出した。「楽しかったね、今回はありがとう。」私も応えた。「ありがとう。」そのとき、またはっとした。ああ、チームメイトに感謝するってこういうことなのか。信頼関係って、実績を見せつけて勝ち得るようなものではなくて、お互いを尊重して築いていくものなのか。向こうから、仏像群を堪能したチームの皆がニコニコと歩いてくる。心がやわらかくなるのを感じた。
 思えば私は、いつもプロジェクトの成功ばかり見つめて、キリキリしていた。事を成就させることだけに必死で、人を見ていなかったのだ。思い返せば、中学時代の合唱コンクールもそう、高校時代の部活もそう、大学時代のコーラスもそうだった。ポスドク時代のイベントもしかり、会社を作ってからは、なおさら。本当はいつだって、みんなが気持ちよく仕事をすることを考えることが大事だったのだ。
 先日友人にこの話をしたところ、「牧菜は、音楽をやるときは、そうは見えないのにね。」と言ってくれた。なんだかとても嬉しかった。「合奏しているときは、人と一緒に何かをやるのがとても好きそう」なのだそうだ。言われてみれば、室内楽はチームワークそのものだ。皆それぞれが違うことをやって、それを聴いて合わせたり、引っ張ったり、ついていったりする。それが私にとっては、世の中のどんなことよりも楽しい。
 仲間と音楽をする楽しさを強く感じる曲といえば、シューベルトのピアノ五重奏「鱒」だ。ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ピアノという変わった編成で、アマチュアが遊ぶには、どのパートも難しい。それでも弾くたびに「楽しい」と心の底から思う。私は大抵ピアノに座るのだが、一緒に弾いてくれる仲間がいて良かった、と思ってうれしくて涙が出そうになることがある。1楽章の展開部と、5楽章で3連符に伴われてクレッシェンドするときは、いつも胸が震える。
 チェロを弾く愛好家の依頼で書かれたというこの五重奏。シューベルトは、「仲間と遊ぶための曲」として書いたに違いない。そして彼は、どうやったらみんなが楽しく音楽ができるのか、よくわかっていたのだ。この曲は、参加した全員が楽しくなるようにできている。そして互いに支え合い、聴き合う喜びに満ちている。依頼者の希望で、4楽章には作曲者自身の歌曲「鱒」をテーマにした変奏曲が入っているが、順番に各楽器がメロディーを担当する。それぞれが持ち味を発揮して、至福の瞬間を味わえるようにできている。
 この五重奏を聴くたび、そして仲間と一緒に弾くたびに、思う。チームワークは、肩肘張って構築しようと努力するものではないのだな、と。もっとおおらかに、自立したメンバーがそれぞれの持ち味を寄せ合って、作るものなのだ。何かプロジェクトの成否ばかりが気になるときには、また「鱒」を聴く。自分と一緒に活動してくれる仲間の有難味を、もう一度思う。魚が清流を泳ぐように、のびやかな音楽。ヒントはここにある。

ディーリアス ヴァイオリン・ソナタ ロ長調

2012-06-24 12:19:20 | 室内楽
 先月に続いて、大学1年生で受けた授業の話の続き。自分の専攻である生物の授業も面白かったのだが、専門以外の授業もいろいろと魅力的だった。宿舎の隣部屋の趙さんと会話ができるのがうれしくて、第二外国語の中国語は一生懸命になってやった。週に3回も授業があったので、1年後はちょっとした日常会話は楽しんでいたはずなのだが、今や「ゴハン食べましたか?」以外、何一つ思い出せない。
 体育専門学群の、いわば「プロ仕様」のプールで泳ぐ体育の授業も楽しかった。それまでまったく興味のなかった地球科学にも、わくわくした。化学の先生が、1学期間、シュレーディンガーの波動方程式の証明らしきものを、延々と黒板に書き続けていたのには辟易したが、それがどんなに難しいかということは、イヤというほどわかった。そして3学期、私の人生で最も心ときめく講義に出会った。なんと、物理の授業だった。
 高エネルギー物理学研究所(当時)の森本教授という先生だった。ぱっと見は、厳しい学者風。1時間めは、マクスウェル方程式。「場というものは、物質と相並んで考えるもので…」先生は滔々と語り始めた。電気と磁気が統一されるまでの歴史的な流れを講談師のようにすらすらと話し、シンプルな図と式をひとつずつ書いては、その「意味」を説明してくれた。あっという間に話に引き込まれ、その日の終わりには、光は電磁波だ…いうところまでたどり着いた。だまされたような気がしたが、ちょっと感動した。
 ほんの3か月だったが、こんなに面白い授業はなかった。内容は特殊相対論と、一般相対論と、量子論の初歩の初歩。物理なのに、数式はなるべく使わない。ひたすら言葉で語る。歴史を順に追いながら、森本先生は、とにかく「コンセプト」を語った。科学者たちは、何を疑問に思い、何を解決しようとしたのか。学問の客観性というのはどうやって作り出されてきたのか。物理学で最も美しいと呼ばれる式は、一体どんな意味を持つのか。そこでは、物理上の概念の変遷という、めくるめくばかりのドラマが展開された。講義を聴いて夢中になって、思わずヨダレをすすったのは、生まれて初めてだった。
 用語を整理し、定義を厳密にした上で、先生はいざというときには、数式を出した。しかしそれは数学の苦手な私でも理解できるような形だった。項の移動や、代入や、通分など、ちょっと式をいじれば結論が出るようなところから、説明してくれた。それがあまりに上手なので、まるで自分の手の中で式を導き出せたような錯覚に陥るのだ。自分のノートの上に、ローレンツ短縮の式が現れたときには、涙が出そうなぐらい感動した。小5のとき図書室の百科事典で相対論のページを読んで以来の疑問が、ぱあーっと解けた瞬間だった。大袈裟だと笑われるかもしれないが、まるでノートから光が出ているような気がした。今でもこの授業のノートは大切にとってある。
 ちょうどその頃、私はディーリアスという作曲家の存在を知った。以来、私の大好きな作曲家だ。イギリスで生まれ、フランスで活躍した人だ。私が特に好きなのは、ヴァイオリン・ソナタロ長調。ヴァイオリニストの南條由起ちゃんのコンサートで聴いた際、はっと気が付いたら、私の目は涙ぐみ、口元はデレーッとしてしまっていた。めくるめくような美しい旋律に、思わずヨダレをすすってしまった。
 初期の作品であるこのソナタは、フランクや、シュトラウスや、グリーグの要素がうまく混じりあっている感じである。とにかく美しい。聴いていると、極上の幸せを感じる。もう、ヴァイオリンで弾ける限りのびやかに弾かせている。なんだか恋をしてドキドキするような感覚すら覚える。だから、のびのび考えたいときには、よく部屋で聴いている。今日も講義の準備をしながら、部屋でこの曲をかけている。どうやったら森本先生のように話ができるだろうか、と思いながら。
 思えば、森本先生の話は、いつも情熱的だった。あるとき、先生は言った。「正直でいてください。」わかったようなふりをしないほうがいい。わからなければ、一生考えていればいい。謎だらけだから、学問は面白いのだ、と。それは本当に素朴な一言だったけれど、私にとっては大きかった。
 大学で生物を学んでいると、感覚はただの電気刺激で、生物はただの化学物質の塊だということが、日々当たり前になってくる。しかし、たとえ生命が「化学反応の一時的な集合体」であろうとも、人間は学問をする。音楽をする。美しいものをたくさん作り出す。それが、私にとっては何よりの不思議であり、きっと一生考え続けることなのだろうな、と大学1年生の私はぼんやり気づいていた。謎だらけだから、人生も面白いのだ。
 理想は高く、私もいつかは森本先生のような話ができるようになりたい。世の中には面白いこと、不思議なこと、美しいものがあることを、情熱を持って語る人間になりたい。ヨダレをすすってもらえるようになるかどうかは別として。

バルトーク 弦楽のためのディヴェルティメント

2012-05-21 00:05:07 | オーケストラ
 この春、大学で講義を始めてから、自分の大学時代をよく思い出すようになった。受講生は1年生なので、特に自分が1年のとき受けた授業のことを思い出す。初日の1時間めは、有機化学だった。高校の化学からはかけ離れた次元の説明が、ものすごい速さで進められ、これはエライところに来てしまったと冷や汗が出た。それでも、大教室にOHPが用意され、そこへ教授っぽい先生が来るというだけで、なんだかうっとりしたものだった。
 毎週金曜日の午後は「基礎生物学実験」。だいたい週替わりで違う先生が担当してくださって、色々な実験の「初歩」に触れた。私は初めて覗く双眼顕微鏡に興奮し、両目を中央に寄せ過ぎて、頭がくらくらした。初めてクリーンベンチに手を突っ込んだときには、距離感がつかめず何度もガラスに頭をぶつけた。ザリガニやハマグリも解剖したし、マウスを解剖して肝臓のパラフィン切片を作る実験もあった。カエルの解剖のときには「なあんだ、四六のガマじゃないのかあ」とみんなで笑った。
 顕微鏡下で赤血球を数える実験の際、ホールピペットで羊の血を吸って「うわっ、飲んじゃった。」と青ざめていた隣の河村くんも、今では高校の先生だ。タマネギの細胞分裂を観察する際、「カエルにバカにされるより、タマネギにバカにされている気がする方がヤダ。」と、染色液で手を真っ赤に染めながらイラついていた、向いの席の久保くんも、やはり今では高校の先生だ。蛍光顕微鏡で見せてもらったテトラヒメナの輝きも、助手の先生が腕に乗せてかわいがっていた巨大なヤスデの赤い足も、同級生たちの穏やかな笑顔も、実験室の匂いと共に思い出す。
 大学に入って最初の山場は、生態学の実習だった。シラカシを枝ごと取ってきて、葉や枝を測定した後、データをエクセルで解析する。当時、生物学類のコンピュータールームにはマッキントッシュが入っていた。しかしパソコンそのものを使える人間が、クラスに数名程度。私は「マックの使い手」と「数学ができる」何人かにくっついて、「サティアン」と呼ばれていたコンピュータールームに、何日も陣取った。クラスメイトの中田くんに「おせっかいかもしれないけど、ちょっとは外に出ろよ。」と言われて、自分がそこに籠っていたことに初めて気がついた。
 もうひとつの生態学実習は、カラスノエンドウについたアブラムシを数えるというものだった。実験の目的もよくわからないまま、実験棟の裏手の原っぱに分け入って、降り出しそうな空の下で、アブラムシを探した。案の定うまいことデータは取れず、また後日グループで集まって、エンドウの原っぱにもぐった。宿舎の部屋に帰って頭を掻くと、アブラムシが降ってきた。「ムシ」なんて全然好きじゃなかったのに、環境は人を変えるもんだな、とひとりごちた。
 レポートや宿題をしながら、部屋では毎夜、NHKFMのベストオブクラシックを聴いていた。もちろん、ほとんどが知らない曲だったので、選り好みせず、とにかく流れてくるものを、聴いた。そして日記に、できるだけ曲名と感想をメモしていた。いわゆる「名曲」の類は、ずいぶんこのラジオで知ったような気がする。
 大学1年生、19歳の誕生日の夜は、バルトークの「弦楽のためのディヴェルティメント」を聴いた。バルトークの命日の前後で、その週はずっとバルトークの特集が組まれていた。何でもトライしてみなくちゃと思い、私はそれを律儀に聴き続けた。数日間、難解な弦楽四重奏を聴いた後だったので、この「ディヴェルティメント」は聴きやすく感じた。生まれて初めて一人で過ごす誕生日の夜だった。日記には、こう書いた。「人間って難しいけれど、決して悪くないんだ。」
 大学1年生。勉強、生活、友情、恋、音楽、何もかもが新しくて、とにかく必死だった日々。いちいち感動して、いちいち落ち込んだ日々。やる気ばかりが先走って、どうしてよいかわからなかった。染色液で染まった手で、友人たちに大量に手紙を書いた。SFCの友人との間で開通したばかりのメールをやたらと交換した。アミノ酸や核酸の化学式を覚えては吐き出し、嵐のようにレポート書いた。全く寝ない日もあれば、一日中眠る日もあった。自分の人生の答えを探しながら、闇雲に突っ走っていた。
 今日は久しぶりに、バルトークのディヴェルティメントを聴いてみた。やっぱり、かっこいい曲だ。弦楽器のザッザッという勢いのある音とリズムが小気味よい。音は複雑であっても、決して不快さはない。弦楽器の重なりが、強く突き抜けてくる。胸に迫るものがある。19歳の私の気持ちが、少し蘇る。まっすぐに、何でもやってみようと誓った日。バランスなどまったく考えずに、ただひたすら走っていたあの頃。そしてその火が、まだ自分の中に残っているような気がした。

モーツァルト 教会ソナタ 第16番ハ長調 K.329

2012-04-25 00:06:06 | オーケストラ
 小4から2年半ぐらいだったと思う。ヴァイオリンを習わせてもらった。従兄妹や友達が弾く弦楽器にあこがれて、私もと親にせがんだのだが、まともに練習もせず、部活が忙しくなったところでレッスンをやめてしまった。以降、家族や友人たちと小さな合奏はしていたのだが、中学3年ごろから、学校の課外活動の弦楽アンサンブルに混ぜてもらった。
 練習はいつも、月曜日の6時間目が終わった後。メンバーはほぼ全員がヴァイオリンで、上級生・下級生含め、常時10人ぐらいいた。練習場所は、73番教室と呼ばれていた音楽室。校舎の角にある明るい教室で、大きな窓から気持ちの良い風が抜けていった。パッヘルベルのカノンを弾きながら、よくみんなでまどろんでいた。
 顧問として指導してくださったのは、音楽の遠藤あかね先生。ときどき外からヴァイオリン専門の先生も来てくださったのだが、私達はとにかくあかね先生が大好きで、先生との練習が楽しみだった。怒られても、怒られても、笑いの絶えない時間だった。
 「遅くならない!」「速くならない!」「ここは満を持して入って!」「だから、ここは準備っ!!」学校一の美人先生が、リコーダーのお掃除棒で金属の譜面台をがんがん叩きながら、私達のいい加減な演奏に声を荒げていた。私達は「『メトロノームあかね』だ~」とのんびり笑っていた。「もう、いちいち笑うな!」と叱られて、ニヤリと隣を見ると、1つ下のさとちゃんがウィンクを返してくれた。仲間と音楽をやるって楽しいね。さとちゃんの笑顔がいつもそう言っていた。
 正直に言うと、楽器を肩に学校へ行くだけで、もう私はなんだか楽しい気持ちだった。ヴィブラートを習う前にレッスンはやめてしまったので、国語の授業中に、仲間からやり方を教わった。筆入れや色ペンをヴァイオリンのネックに見立てて、左手を揺らしながら、右手で板書を写していた。歴史の時間には、仲間と一緒に楽譜を睨みながら、速いパッセージのどこでポジションを変えるか、真剣に話し合った。
 初めは有志のゆるやかな集まりだったアンサンブルも、次第に人数が増え、先生方のご尽力もあって、「課外器楽科」という正式な課外活動として成立することになった。ときには何本か管楽器も加わって演奏するようになった。年に何度も本番の機会があり、メサイヤやモーツァルトの戴冠ミサの数曲は、合唱と一緒に演奏した。受験生のための学校説明会の際には、小さなポジティブオルガンを囲んで、ハイドンのオルガン・コンチェルトをやったこともあった。
 特に印象に残っているのは、高1のときに弾いた、モーツァルトの「教会ソナタ」第16番。典礼用にモーツァルトが書いた17曲の教会ソナタの中でも、編成が大きく華やかな曲だ。当時は「教会ソナタ」という名称そのものが、なんだか変わっているなあと思っていたのだが、明るく堂々とした曲調と、16部音符で弓を動かす感覚が気持ち良かった。トランペットやオルガンやティンパニも入って、純粋に「かっこよかった」。
 第一ヴァイオリンの隅に座っていた私は、冒頭始まってすぐ出てくる、跳躍先の高いEの音がうまく取れない。へたくそで元々音程が悪いのに、緊張するとますます高い音がつかまえられない。何人かの仲間と一緒に、本番前にセロテープを小さく切って、こそこそ指板の上に貼った。あかね先生は苦笑しつつも、背に腹は代えられぬ、という表情だった。
 この曲を最初に演奏した本番は、中学部の入学式。新入生の入場の音楽だったはずだ。講堂の2階席の隅っこに陣取った我がアンサンブルは、どきどきしながらも、思い切って弾いた。学校に入ったら、こんな楽しいことがあるよ、と言わんばかりに。指揮をしていたあかね先生は、最後の音を止めると、満足そうに笑顔で頷いてくださった。私たちもお互いに「へへへ」と顔を見合わせた。
 弦楽アンサンブルのみならず、中高の6年間、私はあかね先生にお世話になり続けた。「180人中一番うるさい」(1学年の人数が180人)とたしなめられたものだが、今から思うと、なにくれとなく気にかけてくださったのだと思う。合唱コンクールの伴奏をしたときも、部活の音楽部で役を演じたときも、友人と何か人前で演奏をしたときも、「最後まで心配だったのよ」とよくおっしゃった。当時の私は、「なんで心配されちゃったんだろうなあ」と不思議に思っていたぐらいに鈍感だったのだが。
 あかね先生が、ときどきまっすぐにこちらを見て、おっしゃった。「音楽は消しゴムで消せないのよ」。音楽は、音を出したら、もう消せない。だから、一瞬一瞬、本気で演奏しなさい。真摯に向き合いなさい、と。それは音楽に限らず、私の人生の大切な指針でもある。中高時代からまったく変わらずへらへらと生きて、何も考えずがちゃがちゃと楽器を弾いて遊んでいる私だが、今はもうちょっと音楽の「有難味」がわかる。人生の瞬間瞬間の「有難味」がわかる気がする。消しゴムで消せないから、音楽をしているのだと思う。消しゴムで消せないけれど、生きていくのだ。教会ソナタを聴くと、やっぱりそう思う。

リヒャルト・シュトラウス 二重小協奏曲

2012-03-22 00:32:54 | 協奏曲
 あたたかい風を感じて、大学院の卒業式を思い出した。華やかな式ではなかったけれど、とりあえず晴れ着を着て、博士号のお免状をいただいた。まあ、この紙をもらったからといって、別に生活は変わるわけではないと思っていたところ、家にゴキブリが出た。私も得意ではないほうだが、引っ越しを手伝いにきてくれていた友人・麻衣ちゃんが、恐ろしい金切声をあげた。「ちょっと、牧菜、理学博士でしょ!!」はからずも気圧されて、へっぴり腰で退治した。そうか、もう私はゴキブリにびびってはいけない資格を取ったのか。博士号取得後、最初の作業だった。
 そしてこの春、京大でのポスドクが決まった。「ポスドク」というのは、博士を取った後に研究員として勤める職のことで、研究者としてアカデミーに残る人は、大体このコースを進む。私は学部時代から、さっさとアカデミーを出ると言い続けていたのだが、魅力的な新しい研究室立ち上げの話を伺って、即、京都行きを決心してしまった。快く受け入れを決めてくださったボス・加藤和人氏に感謝しながら、うきうきと準備を始めた。
 京都では、友人の叔母様宅に居候をさせていただいた。場所は山科。京都駅から一駅。峠を越えれば、東山区だ。とにかく私にとって、はじめての関西、それも古都である。ただ外を歩くだけでも楽しかった。朝は早めに起きて、通勤路をなるべく徒歩にしようと試みた。天気が良いと、1時間半ほどかけて百万遍のキャンパスまで歩いたことさえあった。
 イヤホンでドヴォコン(ドヴォルザークのチェロ協奏曲)を聴きながら歩けば、鉄道会社のCMもかなわない。青空にどかーんと現れる平安神宮の赤い鳥居を眺めると、これ以上ないほど爽快な気分になる。聖護院あたりの人気のない裏道では、山伏さんたちと遭遇して、我知らず会釈をしたこともあった。京都は山が近くて、空が広い。東京とは少し違う時間の流れ方が、とても新鮮だった。
 朝、まだ誰もいない研究室にたどり着くと、私はよくリヒャルト・シュトラウスの二重協奏曲をかけて、仕事を始めた。新設されたばかりで、まだがらんとした研究室に、明るい陽射しが差しこんでくる。窓を開けると、緑の匂いがする。木管のやさしい音を聴きながら、パソコンに向かう。クラリネットとファゴットの打ち解けた会話が始まる。全楽章をリピートして聴いていると、そのうち研究補佐員の山本さんが出勤してきて、「これ、きれいな曲ですね」。私達も笑顔で挨拶を交わした。
 このクラリネットとファゴットのための二重協奏曲(コンチェルティーノ)は、リヒャルト・シュトラウスが最晩年に書いた、穏やかで美しい擬古典的な作品だ。彼の大編成でド派手な作品群ではなく、オーボエ協奏曲や、オペラ「カプリッチョ」の前奏曲の類に入る。室内オーケストラ規模の弦楽器とハープの伴奏で、2本の木管楽器が仲良くおしゃべりする。聴く分には、耳馴染みの良い、やさしい印象の作品だが、楽譜を見てみると様子が違う。パートによって書いてある拍子が異なったり、弦楽のパートがソリスト並みに技巧的だったり、なかなかの難物だということがわかる。さすがは、シュトラウス。
 さて、当時私のボスだった加藤和人氏の師匠は、生物学者の岡田節人氏だった。発生生物学の大家としても、文化人、音楽愛好家としても有名な節人氏に、京大にいる間、何度かお目にかかることができた。いつもヴィヴィッドなお洋服に目を丸くしていると、女性は鏡を見るから長生きするんじゃないか、とおっしゃる。鏡でよく自分の姿を見て、体の変化に気をつけること、そしてお洒落をすること。それが長生きの秘訣だと。80歳近い氏のエメラルドグリーンのジャケットを眺めながら、説得力があるなと思った。
 京大の理学系の学部では、どんな偉い教授でも「さん」付けで呼ぶらしい。これが私には大きなカルチャーショックだった。真理探究の上では平等だという通念があるようで、皆が「さん」付で呼び合っていた。節人氏に代表されるような京大の自由な雰囲気と、議論好きで闊達な研究者たちに出逢って、私は日々刺激を受けた。キャンパスにいると、「優秀な人」にも多様性があるのだなあ、としみじみ感じた。
 びしっと決めた格好で1日18時間研究室にいるような研究者もいれば、かなりラフな軽装でふらふらっと歩いている研究者もいる。自分の好きなことを、好きなスタイルでとことんやる人たち。音楽家に似ている。そして、自分の研究のことを、楽しげに話す彼らがキラキラして見えた。ベテランの大科学者も、若い大学院生も、ざっくばらんに話してくれた。私も、遠慮なく質問した。肩の力が抜けたおしゃべりの中に、ときには人類の夢が詰まっていた。二重協奏曲を聴くと、そんな京都での会話の数々を思い出す。
 そういえば一度、先述の節人氏が大学で講演をされた後、聴衆の若い学生から質問が出た。「今、大学に入りなおして勉強するとしたら、どの分野を選ばれますか?」学生の質問の意図は、分子遺伝学的な手法が発展した今、生物学だったらどの分野を選ぶか、ということだったのだが、節人氏は、何をいまさら、という顔をして答えた。「そりゃあ、芸術。音楽に決まってますわ…」

Rodgers & Hammerstein Ten Minutes Ago

2012-02-27 01:53:44 | その他
 2月の末は、どこの小学校でも「クラブ発表」が行われる時期らしい。私も「発表する側」になった4年生からは、毎年2月の発表会が楽しみで、ひたすらわくわくしていたものだ。以前も書いたが、私は3年間「合唱クラブ」という名のクラブで、オペレッタをやった。
 オペレッタといっても、学芸会などで使うために作られた、市販の「学校用オペレッタ台本」。子ども向けに書かれたもので、ごく単純な音楽だった。それでも先生がいくつか候補の作品を選んできてくださると、みんなで真剣になって検討した。どきどきしながら配役を決め、小さなアイデアを出し合って、一生懸命練習した。
 6年生のときにやったのが、「シンデレラ」。当時から曲の稚拙さには苦笑いしていたが、歌って演じること自体が、とにかく楽しかった。シンデレラには色々なバージョンがあるが、この台本はグリムのストーリーに近く、白い鳥が出てきてシンデレラにドレスを着せた。私の役は「意地悪な姉2」だった。
 幕が上がると、姉たちがドレスをひらひらさせながら順に出てきて、歌う。「私は世界一、器量良し~」そして2重唱になる。「私は世界一、器量良し~」自分が今まで歌った歌の中で、もっとも衝撃的な歌詞だ。今でも、お化粧をしながら、たまに鏡に向かって歌ってみる。なかなか滑稽で、思わずひとりで笑ってしまう。
 シンデレラ役は、悪友C。澄み切ったきれいな歌声で、みんなをうっとりとさせた。ところがこの台本のシンデレラ、やたらと横柄な口をきく。台詞がいちいち、感じが悪いのだ。返事は「はいはい」と二つで書いてあるし、大団円で謝る母と姉に対しては「まあまあ、私は何とも思ってやあしません」ときた。性根の悪いシンデレラに笑わせられながら練習を重ねた、講堂の景色が忘れられない。
 それで、毎年2月になると、なんとなくシンデレラの物語を思い出す。ロッシーニのオペラ「チェネレントラ」は何回見ても楽しいし、マスネの「サンドリオン」は華やかだし、プロコフィエフの「シンデレラ」の愛のテーマは泣ける。しかし私が一番好きなシンデレラの音楽は、ロジャース&ハマースタインのゴールデン・コンビが作ったミュージカルだ。15年ほど前、日本語上演されたものを初めて見て、驚いた。帰り道に口ずさめるほど印象的で、美しい旋律がちりばめられている。
 中でも私が好きなナンバーは「Ten Minutes Ago」だ。王子様とシンデレラが出会って、踊って、恋に落ちたときに歌われる二重唱だ。「ほんの10分前、僕は君に出逢った。そしてぎこちなく挨拶をした…今ではもう、空を飛ぶ心地だ…」ときめく二人の心が歌われる、一度聴いたら忘れらないワルツ。英語の韻が、とてもかわいらしい。
 シンデレラ物語のメッセージは、苦労はいつか報われるとか、希望を持ち続ければいいことがあるとか、心の清い者は救われるとか、バージョンによって色々違う。このミュージカルでは、魔法使いのおばさんが歌う。「不可能なこと」が、この世では毎日いくらでも起こっている、と。実はこのおばさん、なかなかさばけていて、「召使いをするんだったら、どこか外でやって稼げばいいじゃない」などと言ってのける。ただぼんやり夢見るだけじゃ始まらない。「ダメだ」と思っている思い込みを捨てて、強く強く願うことを教えてくれる。
 「Ten Minutes Ago」を聴くと、ふと気持ちが明るくなる。そうだ、ほんの10分で、シンデレラはお姫様になったのだ。短い時間で、運命なんていくらでも変わり得る。ぶすくれてる場合じゃない。ほんの10分で、誰だってお姫様になれるかもしれないのだから。いざとなれば「世界一の器量良し」にだって。

文部省唱歌 「冬景色」

2012-01-25 10:44:10 | オペラ・声楽
 年に数回、ソプラノさんと一緒に横浜市立の小学校へ行っている。もう6年めになる。横浜市教育プラットフォームの取り組みで、プロのアーティストが授業をするプログラムの一環だ。もともとソプラノの鈴木慶江ちゃんから、「小学校でワークショップをすることになったから、ちょっと手伝って」と声をかけてもらったのがきっかけだった。翌年からは、ソプラノの山口佳子ちゃんとも学校へ訪れるようになった。授業自体は完全に歌い手さんが行い、全体のコーディネートと、ピアノの伴奏が私の役割だ。
 NHKの番組「ようこそ先輩」をイメージしていただくとわかりやすいかもしれない。普段は教育とはまったく関係ない現場で働いている「プロ」が教室にやってきて、学校の先生とは違う形で授業をする。1人の歌い手さんが、基本的に3日間学校へ行く。最初の日は、まずコンサートの時間を設け、その後、音楽室でクラスごとに授業。2日めはさらに授業。1週間ほど空けて、3日めは全校生徒や親御さんを招いて成果発表会。主に変声期前の5年生が対象だ。
 本格的なオペラ・アリアを聴いた子どもたちの感想は面白い。大人からは決して聞かれないコメントがたくさん寄せられる。「窓が割れるかと思いました。」「防犯ベルのようでした。」「人間じゃないと思いました。」コロラトゥーラは即座に笑いを取るし、レチタティーボは怪訝な顔を生む。低学年の中には、上のB♭を超えると耳をふさいで怖がる子もいる。もしかしたら、大人には聞こえない倍音も聞こえているのでは、と私達は想像している。いずれにしても、パニエの入ったドレスにうっとりし、歌声に唖然として口を開けている子どもたちの顔が、いつも新鮮だ。
 授業に入れば、もっと面白い。準備体操をして体をほぐし、呼吸の練習、発声練習、歌の練習へと進む。5年生だったら、課題曲は教科書に載っている文部省唱歌「冬景色」。文語の歌詞の意味を説明して、みんなで情景を想像した後、日本語を大切に歌う方法を練習する。元気な子どもたちとはいえ、普段使わない筋肉と集中力を使うので、かなりの体力勝負だ。授業が終わった後に、「疲れた~」と床に転がる子をよく見かける。
 2人のソプラノさんの授業は、それぞれ個性的で本当に素晴らしい。慶江ちゃんの授業には有無を言わせぬ勢いがあって、いつの間にかそのペースに子供たちが巻き込まれていく。初日に、参加した子どもたち全員が列になって、順番に彼女のおなかを触るというコーナーがある。歌手の呼吸を自分の手から感じた子どもたちは、「すげえ、バケモンみてーだ!」と騒いだ後、必死で真似をしようとする。彼女はひたすら子どもたちのイメージ力を引き出す。彼女の指先に集中しているうちに、いつの間にか美しい響きが広がっている。それはほとんど、宗教的な儀式のような時間だ。
 佳子ちゃんの授業は、子どもと対話をしながら進む。ひとつひとつのプロセスを子どもたちが「理解」して学ぶことに重点が置かれている。ご両親の血か、昨日まで小学校で教えていたのではないかというぐらいに慣れた様子で、初めは私が仰天した。「歌を歌うときは、○○呼吸です。さあ、何呼吸でしょう?」というくだりは、毎回、クラスが大喜利状態だ。子どもたちは、さっと手を挙げて大真面目に答える。「えら呼吸!」「皮膚呼吸!」「人工呼吸!」「過呼吸!」新しいことを覚えて挑戦する空気にあふれた教室は、最後にはのびのびとした歌声でいっぱいになる。
 お昼は子どもたちと一緒に、教室で給食だ。「今まで何回失恋しましたか」とか「好きな音符は何ですか」とか、とんでもない質問が飛び出す。せっかくの取材チャンスなので、私は「今、理科で何を習ってる?」と、まわりの子どもたち訊ねてみる。なんだ、みんな結構理科が好きなんじゃないか、と思いながら、給食を終えて立ち上がると、歌い手さんが私を探している。どうやら私は小学生に完全に紛れてしまうらしい。
 課題曲にする「冬景色」は、唱歌のコンサートではよくリクエストがかかる人気曲で、今でも教科書に残る理由がある名曲だ。恥ずかしながら、私が「冬景色」を覚えたのは大人になってからだが、このワークショップのたびに「なんてよくできた歌だろう」と感嘆する。確かに文語が難しいので、歌詞を説明する段になると、子どもたちから驚くような発言が出る。「『げに』って平安時代みたいだねー」「『それとわかじのべのさと』は…野辺が火事!」さらにそこに描かれている情景も、今の子どもたちには少々縁遠い。「麦を踏んで小麦粉をつくる」という発言が出たこともある。
 それでも、「一番大事なことは、何を歌っているのかちゃんとイメージして歌うこと」。歌手の真剣なメッセージは、子どもの心に届くようだ。子どもたちは必死になって想像力をはたらかせ、やっと意味がわかった言葉を一生懸命に唱える。はじめは暴れていた子どもが、夢中になって顔を真っ赤にして歌っている。静まり返った寒い朝、ぽかぽかとのどかな昼、嵐が来る夕方、そして暗い中に見つけた人里の灯り。子どもたちの表情に、それが見えたとき、私は思わずぐっときてしまう。歌の持つ力は、限りない。

ヴィヴァルディ フルート協奏曲 ニ長調 「ごしきひわ」

2011-12-25 23:52:17 | 協奏曲
「私ね、N響と共演することになったの。」放課後の階段で、まーちゃんがぽそりと言った。意味がよくわからず聞き返すと、まーちゃんは少し恥ずかしそうに下を向いたまま、言葉を足して説明してくれた。「今度、学校にN響の人たちが何人か来るでしょ。コンサートがあるでしょ。そのときに、私リコーダー吹くことになったんだ。」中学3年生の秋だった。
 まーちゃんは私の小中高の同級生で、歯医者さんのお家のお嬢さんだ。家も近くて教会学校もずっと一緒だった。部活も同じだったし、卒業してからもあれこれ一緒に演奏した。世界的に有名な古楽器コレクターのパパを筆頭に、音楽大好きの一家で、今でも家族ぐるみのお付き合いをしている。子供時分、私が合奏の楽しみを覚えたのは、日曜日の彼女のお宅だ。
 まーちゃんは、小学校の頃からリコーダーを習っていた。みんなが学校でプラスチックのリコーダーをやっとこさペエペエ吹いている頃、彼女は漆黒の木のリコーダーでバロックを吹いていた。水泳が得意で、並外れた肺活量を持ち、長いフレーズもお手の物だった。プロのクラリネット奏者が彼女を見て「どうしてそんなにまっすぐ息が出せるのか」と、感嘆したという。
 そのまーちゃんが、一流のプロと舞台の上で共演する! 中3の私は、驚きと誇らしさで、目がくらむような心地がした。足取り軽く階段を上るまーちゃんを見上げながら、さっそく曲名を訊ねた。「ヴィヴァルディのごしきひわ。」ふーんと返事をしたものの、正直私は「ゴシキヒワ」とは何語なのかも、わからなかった。
 ヴィヴァルディのフルート協奏曲ニ長調「五色ひわ」。ゴシキヒワは、スズメ目のかわいい鳥だ。この協奏曲では、その鳴き声を模したフルートソロが、速いパッセージでぴよぴよと鳴く。急緩急の3楽章形式で、1楽章が始まってすぐ、ソロのカデンツァがあり、鳥は大いにその美声を披露する。このフルートパートを、リコーダーで吹くというのだ。
 しっかり者の次女のまーちゃんは、どんな大変なことでも、ぎゃあぎゃあ騒いだりせず、きちんとこなす。鑑賞行事の日、ソプラノ・リコーダーよりも小さい「ソプラニーノ・リコーダー」を持って、彼女は静かに舞台に立った。N響メンバーによる弦楽アンサンブルと音楽の先生のチェンバロをバックに、立派にソロを吹いた。礼拝堂に高く響く鳥の声。私は世界中に自分の友達を自慢したかった。
 その年の暮れ、中高部の課外クリスマス・コンサートで、再度この曲が演奏されることになった。今度伴奏を担当するのは、我々学生15人ほどの弦楽アンサンブル。ヴィオラがいなかったので、私は「第三ヴァイオリン」。シンプルな伴奏で和声が変わるのが新鮮だったし、リコーダーと弦楽器が呼応する感じも楽しかった。なにより、まーちゃんのリコーダーと一緒に演奏できることがうれしくてたまらなかった。
 コンサート会場は、とてもきれいな教会だった。白く高い天井にリコーダーの囀りが飛んでいく。緊張と熱気とまぶしさで、くらくらしそうになりながら、一心不乱にヴァイオリンを弾いた。「ゴシキヒワ」という鳥が、キリスト教絵画で「受難」を象徴するとは知らなかった。今思えば、クリスマスの教会コンサートにふさわしい曲だったのだ。
 この日のチェンバロは、まーちゃんのお姉さんの陽子ちゃんが弾いていた。美しい2楽章はヴァイオリンはお休みなので、楽器を下して、姉妹の奏でる極上の音楽をみんなで聞いた。リコーダーの澄んだ音が、のびやかに飛んでいく。バロックらしく、繰り返しの2回目はメロディーに装飾がつけられている。それがまるで光の粉のようにキラキラしていた。この世の中には、こんなにも素晴らしい瞬間があるんだな、と思った。
 友達がこれほど「誇らしい」と純粋に感じたのは、生まれて初めてだった。もし私がソロを吹くことになったら、もう嬉しくなって大声で言いふらして歩くだろう。まーちゃんにはそんな様子は微塵もなく、難しい16分音符に文句も言わず、謙虚な姿で真摯に楽器を吹いている。友達がいるだけで有難いのに、誇りに思える友達がいるって、すごいことなんだ。譜面台の隙間から、真ん中の通路に続く真紅の絨毯が見えた。一生忘れない、美しい景色だった。

スメタナ 歌劇「売られた花嫁」 序曲

2011-11-24 00:57:37 | オペラ・声楽
 松ぼっくりの季節になると、母のことを思い出す。穏やかで、気をよく遣い、決して自分から前に出て行くようなことはない女性だったけれど、いつも屈託なく笑い、泣いた。私が大学時代に一人暮らしをするまで毎日一緒にいたのだから、素敵な出来事が沢山あったはずなのに、思い出すのはなぜかちょっと滑稽な瞬間ばかりだ。
 つけたテレビに、たまたまドラマのラストシーンが映ると、筋も知らないのにもらい泣きする母。私がちょこまかと周りをうろつくと「目が回る」と言って頭を押さえていた母。夜中、家の階段に座って考え事をしていた私を見つけて、驚いて2メートルぐらい飛び退った母。そして、松ぼっくりや、からすうりに、まったく目がなかった母。
 私が小学校に入った頃から、母は趣味でフラワーアレンジメントをやっていて、秋冬はリース作りに夢中だった。クリスマス前になると、夜な夜な居間のテーブルには新聞が広げられ、どんぐりやら、針金やら、リボンやらが散乱していた。グルーガンを片手に、毎年楽しそうに、次々とリースを作っていた。松ぼっくりも、からすうりも、リースの格好の材料であり、11月になると「収穫」のための散歩へ連れて行かれた。
 私は大学に入る際に、一般推薦の試験を受けたので、受験日は11月の末だった。1日目は英語と国語がミックスされたような試験で、2日目は面接。はじめて筑波に2泊することになった。事前にホテルを予約しようとすると、母が一緒に行きたいと言う。過保護すぎるよと笑ったのだが、どんなところか見ておきたいと言い張るので、一緒に行くことにした。私も珍しくナーバスになっていた時期だったので、内心では、ほっとしていた。
 試験前夜に筑波に着くと、母はすでに不安そうな顔をしている。「こんな大きな通りなのに、街灯がないわ。ここに住むの? 大丈夫なの?」自分は街灯のない田舎で育ったことを自慢していたくせに。母親と言うのは、本当に子供の心配をするのだなあと思いながら、ホテルへ向かった。「大丈夫、大丈夫。星がきれいでいいじゃない?」私は答えた。
 翌朝、筆記試験を終えて、近くの喫茶店で落ち合うと、驚いたことに母は非常に晴れやかな顔をしていた。「試験はどうだった?」「やれるだけのことはやったけど…。なんか、ママうれしそうだね?」「ふふふ。ダンボール2箱、拾っちゃった! そこのコンビニから家に送るわ!」
 筑波大学は南北3キロに広がる縦長のキャンパスを持ち、そこでは美しい並木だけでなく様々な種類の樹木を見ることができる。医学部付近の松林は、彼女にとって、思いもよらぬ絶好の「収穫場所」だった。私の受験が気がかりで仕方ないのを紛らわそうと散歩に出たところ、「良質の松ぼっくり」がごろごろ落ちているのを見て、無心になって拾ったらしい。台車に積まれた松ぼっくりの箱と、母の無邪気な笑顔を眺めていたら、試験の疲れが飛んで行った。
 私が大学に合格すると、母は涙を流して喜んでくれたのだが、結局私が何の勉強をしているのかはよくわからなかったらしい。今でこそ私は、「身近な人に自分の専門の話をすることこそ、最初のサイエンス・コミュニケーションですよ」なんてエラそうに言っているけれど、大学で学んだことをちゃんと母に説明したためしはなかった。おまけに、誰かに「お嬢さんは何を専攻してるんですか」と訊かれるたびに、母は手帳に書きとめた私の所属をたどたどしく読み上げていた。ついぞ、覚えられなかったらしい。
 ただ、大学に入ってから、私が音楽をますます一生懸命やっているということは、察しがついていたようだった。ある日曜日、実家で起きて居間へ行くと、母がテレビの前にさっと立ちはだかり、「まき。賭け、しよう!」と言う。母が「賭け」などと言い出したのは、あとにも先にも、このときだけだ。「これが何の曲かわかったら、1000円あげる。」いったい突然、何なんだろう? よくわからないまま、流れて来る曲を聴いた。
 おそらく「あまり取り上げられない曲」とか「珍しい曲」とかいう解説があったのだろう。マニアックな曲を私が知っているかどうか、戯れに試してみたくなったのだな。ふふん。見ると、画面のオーケストラの弦楽器群は、ものすごい勢いで弓を上下させている。この動きは、どこかで見たことがある。そうだ、たまたま前の週に大学の図書館のLDで見たオペラだ。ラストの盛り上がりを聴いて、確信した。「スメタナの売られた花嫁序曲。」
 母は目を大きく見開いて、叫んだ。「まき、すごい!! すごい!!」母は、約束通り1000円を財布から取り出して、すごいすごいと繰り返しながら、私に渡した。私は思いがけないお小遣いをもらいながら、最近聞いたばかりの曲で良かった…と胸をなでおろしていた。「まき、よく知ってるのねえ~!」突拍子もない出来事だったが、母が純粋に私を褒めてくれたことが、なぜか純粋にうれしかった。
 実際は、「売られた花嫁」の序曲はそんなにマイナーでもなく、「序曲名曲集」には入っている。確かに、オペラ自体は日本ではなかなか上演されないが、筋も単純でハッピーエンドだし、音楽も明るくてわかりやすい。古典的な音楽技法で書かれているけれども、なんとなくボヘミアンなメロディーが出てきて、とても親しみやすい作品だ。
 私は勢いのあるこの序曲が大好きで、ときどき口ずさむのだが、冒頭部分はいつも友人たちに「それ、寅さんのテーマに聞こえる」と言われるので、なるべく第二主題のところを歌うことにしている。とにかく、聴くと、すかーっとする一曲だ。そして、屈託なく笑う母の笑顔を思い出す。
 心の底から楽しみ、泣き、びっくりする。誰かのことを、掛け値なしに「すごい!」と讃嘆する。思い切り拍手する。そんな当たり前のことを、うっかり忘れそうになったら、私はこの曲を聴く。誰かを褒めるなら、心から褒めよう。本気で褒めよう。すごいと思ったら、ちゃんと「すごい」と言おう。こんな小さな出来事でさえ、10数年経っても、私の心に灯をともしてくれるのだから。

サン=サーンス 「サムソンとデリラ」より 「あなたの声に私の心は開く」

2011-10-28 15:43:48 | オペラ・声楽
 サン=サーンスのオペラ「サムソンとデリラ」。私の周りの音楽家たちはみな、略して「サムデリ」と呼ぶ。全幕で上演される機会は少ないが、アリアやバレエ音楽の「バッカナール」がよく取り出されて演奏されている。2幕にデリラのアリアが2つあり、「好きなオペラアリアは」と訊かれたら、私は必ずこの2曲を上位に入れる。そして「生まれ変わったら、メゾ・ソプラノになって、この役を歌う」と、よく冗談で言っている。
 「あなたの声に私の心は花開く」のアリアのほうは、一度聴いたら忘れられない美しいメロディーで、歌われる機会も多い。先日、小さなコンサートで、この曲を歌うアマチュア声楽家さんの伴奏をさせていただいた。弦楽器のささやくような十六分音符は、とてもピアノでは弾けないのだが、やっぱり素晴らしい曲だ。何度もうっとりした。
 「サムソンとデリラ」の元ネタは、旧約聖書の士師記に出てくる、ほんの数ページのエピソードだ。中学のとき、朝の礼拝でちらっと聞いた記憶がある。聖書って、意外と面白い話が出てくるんだなと思った。というのも、ミッションスクールの小中高でも、その間通っていた日曜の教会でも、聖書に出てくるラブシーンや猥褻な部分は、まったく取り上げられなかったからである。旧約聖書を題材にした映画を見せられるときも、「そういうシーン」は早送りだった。
 おそらく学校の先生も、解説しにくいところは飛ばしていたのだろうと思う。実際、子供には理解できない部分も多い。確か小3のクラス礼拝で、長い時間をかけてヨセフの生涯を追っていたが、彼がなぜ牢獄に入れられたのかはブラックボックスのままだった。ロトの娘たちやバト・シェバのエピソードにも、ほとんど触れられたことはない。中2のころ「雅歌がすごい」という噂がクラスに広まり、朝の礼拝の間、説教を聞かずに必死になって読んだことがあったぐらいだ。
 そこで、礼拝で取り上げられたデリラのくだりは非常に鮮烈だった。確かに、サムソンは英雄なのに女に弱すぎるとか、ペリシテ人はなぜ彼の髪の毛を切り続けなかったのかとか、いわゆる「ツッコミどころ」は満載だ。しかし、あんな壮大で美しいオペラにされたら、もう文句は言えない。メロディーメーカーのサン=サーンスが、全幕飽きない音楽をつけてしまった。
 アリア「あなたの声に私の心は花開く」は、敵方のサムソンをたらし込んで、なんとか秘密を吐かせようとするデリラの「必殺お色気大作戦」の勝負どころである。アリア後半で、管楽器が次々と半音で降りてくる背景は、肌を撫でるデリラの指のようでもあり、堕ちていくサムソンの頭の中を表しているようでもあり、ぞくぞくする。そしてデリラの歌う旋律は、この上なく色っぽい。
 カルメンがホセを誘惑する「セギディーリア」でも、途中で「たまらなくなってしまった」ホセが声を上げるが、このデリラのアリアでも、陥落したサムソンが「Je t’aime.(愛している)」と叫ぶ。私は別に誰かをたぶらかしたいわけではないが、このサムソンの叫びを聞くと、何とも言えない勝利感を覚えてしまう。これは女性に共通の感情なのだろうか。
 ところで、我が家では10年以上前から様々な「読書会」を開いている。テキストに戯曲を使う読書会がもっとも楽しい。みな初見で、棒読みで良いので、集まった仲間に役を割り振って読んでいく。ギリシャ悲劇、ラシーヌ、モリエール、シェイクスピア、ホフマンスタール、コクトー、歌舞伎など、色々と読んできたが、私が常々感じているのは「悪い役ほど、読むのが快感だ」ということだ。普段絶対言えない(言わない)ことを口に出すとは、なんと爽快なことか。意地悪くほくそ笑む台詞を読むときの、なんと愉快なことか。
 出版業界で長いことキャリアウーマンをしてこられた、クールで頭脳明晰な石田女史は、エウリピデスの「メディア」のメディア役を読んだとき、「なにかが、私の中で目覚めた。」と、それまで見たこともないような笑顔を浮かべておられた。実は、悪い役の中でも「悪女」を読むのは、この上ない快感である。カマトトぶったり、気取って意地悪を言ったり、上から目線で罵倒したり。自分にはない部分に、惹かれるのだろうか。それとも、女性には必ず「悪女」の要素があるのだろうか。
 同じように、デリラのアリアも、聴くと独特の快感がわいてくる。色気で迫るデリラの歌に、いつの間にか入り込んでしまう。思わず身を捩ってしまう。サムソンの美しい対旋律が入ってくると、思わずニヤリとしてしまう。
 女性陣のみなさん。きっとあなたの中にも、私の中にも、デリラが眠っている。もちろん、起きている人もいるだろうけれど。