赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

💠🔹【越中の小矢部川流域には「たたら製鐵」は在ったか?】越中の小矢部川水系に展開した越中の刀工【宇多派】を支えた【医王山】の砂鉄!!

2021-04-20 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■富山県と石川県に跨がる「医王山」や小矢部川の上流の「刀利村」には、大量の「砂鉄」や「金」等を産出したと云う。現在も「医王山」は北陸で有数の鉄埋蔵量を誇っている。

「地球化学図」






◆「芸州加計隅屋鉄山たたら絵巻」(参考)
[砂鉄から鉄を取り出した古い製錬方法]






■富山県と石川県の境界に広がる【医王山】は白山を開いた【泰澄大師】が開かれたとされる。この小矢部川流域には【泰澄大師】を開基とする寺院が多いが、「越中吉岡庄」の【延喜式内社赤丸浅井神社】の別当【川人山鞍馬寺】は元々、「泰澄大師」が開かれた庵を元にしていると云う。【元正天皇】が病に成られた時に「泰澄大師」は【医王山】の薬草や岩石に含まれる様々な薬石を元正天皇に贈り、感謝されたと云い、この時に「泰澄大師」は「赤丸浅井神社」の境内の庵で「元正天皇の快癒を祈って祭祀を行った」と伝わっている。
現在も「延喜式内社赤丸浅井神社」には鉱山の神で在る【金山彦】が合祀されており、この神は元々、「赤丸村鞍馬寺集落」と「赤丸村古村集落」に在った神社の祭神で在ると云う。「古村集落」には「鉄砲島」と呼ばれる地域が在り、ここに「金山彦」が祭られ、「鞍馬寺集落」にはかつて、この地域の寺院を統括した「門跡寺院聖護院派修験道 川人山鞍馬寺」が在り、「浅井神社48坊」と言われた山伏集団が居たと伝えられる。
「赤丸浅井神社」の別当【川人山鞍馬寺】は天皇家と密接な「門跡寺院 聖護院派」で在り、「元正天皇」は「赤丸浅井神社」を中興された文武天皇の第二皇子の「石川朝臣広成」の親代わりをされた女帝で在った。
「川人山鞍馬寺の本尊」の「富山県指定文化財 釈迦如来立像」は、泰澄所縁の「白山信仰」の仏像と伝わった為に、医王山近くの「井波瑞泉寺」に寄進されて、現在、「瑞泉寺」の客仏として宝蔵に祀られている。

■「浄土真宗井波別院瑞泉寺 富山県指定文化財 阿弥陀如来立像」















■「医王山」に近い小矢部川水系に広がった刀工の「宇多派」。
「医王山」の岩石には「砂鉄」等の他にも貴重な元素が含まれており、この石自体が「薬」として用いられたと云う。
「医王石」はその成分に多くの酸化鉄を含んでおり、現在でも小矢部川では、「砂鉄」が採れている。
古くは「砂鉄」を取る為に大量の土砂を河川に流して、部分的に砂鉄が滞留する場所の土砂を採取して「砂鉄」を取り出したと言う。
「宇多刀」は他の古刀と異なり、その地肌が黒ずんでおり、明らかに他の地域の鉄とは異なっている。
従って、数々の宇多刀工が作刀したこの小矢部川水系には、独自の「たたら製鐵」が行われていたと見られる。

【南北朝の頃、南朝の武将「桃井直常」が居城とした、小矢部川とも繋がる「庄川水系」の「砺波市庄川町」の「増山城」の麓周辺には、「四ヶ所」の「たたら遺構」が発掘されており、それぞれの遺跡の周辺には炭焼きをしたと見られる炭焼き遺構が散在していたと砺波市教育委員会は発掘結果を発表している。古代の「たたら」では緩やかな傾斜を利用して溶けた鉄が裾に在るたまり場に流れ出る構造になっており、その点で、増山城の麓の緩やかな傾斜地は絶好の立地で在り、その至近の庄川水系は小矢部川や伏木港にも繋がる水運にも恵まれていた。】

「日本刀」の製作には完成時の鉄の重さの倍の重さの「玉鋼」が必要であり、その鉄の生産には一町歩の松山の木が必要であり、更に、鍛刀の時には「松炭30俵」が必要であったと云うから、鍛刀の為には、周辺に広大な「松山」が必要であった。
(※「古刀」は砂鉄から採取した「玉鋼」ばかりで作刀されており、後世の様に軟鉄を併用する事がなかったと云う。)


【宇多派初代 宇多国光作の太刀】



【特別保存刀剣 古宇多】







■「松の木」は油を含んでいる為に火力が強く、古い製錬方法では必須で在ったと言う。その点でも、小矢部川水系の西山一帯や医王山周辺の山林はエネルギー源の確保でも恵まれていた。西山一帯では、嘗て、松山が広がっていたが、近年の「松食い虫」の被害でほぼ全滅している。
しかし、小杉町の太閤山等の各地では、古代の「たたら製鐵跡」が発見されているが、この小矢部川水系からは未だ、大規模な「たたら遺構」は発見されていない様だ。しかし、古代には、大規模な「たたら」では無く、刀匠が個人的に小規模な「たたら」で製鉄していたと云われ、刀剣保存協会の幹部に拠ると、「吉岡庄」の加治屋町島にも小規模な「たたら遺構」が在ったと伝えられると云う。

■【医王山】Wikipedia
719年(養老3年) 、白山を開いた「泰澄大師」が開山し、薬草が多いことから唐の育王山にちなんで育王仙と名付けたのが始めとされる。
722年 、当時の「元正天皇」が大病にかかり、「泰澄大師」がこの山の薬草を献上したところ快癒された。帝は大いに喜ばれ、泰澄に神融法師の称号を賜わり、山には医王山と命名されたという。薬草が多く、薬師如来(大医王仏)が祭られたことが山名の由来とする説もある。
藩政時代は一部が医王石(戸室石)の産地だったため、前田家により一般人の立ち入りを禁止された山であった。

▼嘗て「戸室石」にも薬功が在るとして井戸や水道管等にも使用され、金沢城の石垣や仏像、墓石等にも多く使用された。
(※加賀藩時代には、金沢市市街地の地下には戸室石の水道管が網の目の様に敷設されていた。昭和40年代に行われた金沢市街地再開発事業でも、「武蔵ヶ辻」周辺から多くの戸室石の水道管が発掘されている。)



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