■神社には古く祭神に与えられた「神階」が在り、位田や食封が付けられた。後に、神社毎に人と同様に「社格」が与えられて、菅原道真等が編纂した「六国史」(※887年完)の時代には盛んに神社に位階が与えられたが、1000年以降はこの様に位階が与えられる事は無く成ったと云う。
「六国史」の完成迄に与えられた最高位の「正一位」は皇室の祀る主要な神々で在り、以下の神々が位階を与えられた。
★【正一位】「神産日神」、「高皇産霊神」、「玉積産日神」、「足産日神」
(これ等の神々は宮中の八神殿に祀られ、後には神殿に祀られた。)
宮中に祀られたこれ等の神々の他の全国の主要な神々は「従六位」以上の社格を与えられた。
■「赤丸浅井神社」の祭神はこの中の【高皇産霊神】を祀り、この神は地上に様々な神々を送り出した神々の司令神で在り、「天照大神」と並ぶ宮中の最高神で在る。
「越中一宮」とされた「高瀬神社」はその祭神が出雲の「大国主命」を祀り、越中の最高位の神とされたが、これは宮中の神々では無い為に、その祭神、その神社に対して神階や社格が与えられている。
「赤丸浅井神社」は養老元年(717年)創建とされているが、神社自体はもっと以前の「第五代考昭天皇」の御代に小矢部川と庄川の合流地点に「大河の川の江の神」で在り、大国主の孫の妻で近江浅井に祀られた「八河江比売」を祭神として創建された神社を発祥とすると伝えられ、この神社は古代北陸道の「川人駅」が在った「川合郷」の守護神で在った様で、神社には「往古、前の街道を通過する者は下馬し、拝礼して通過した。」 と伝わり、社格の高い神社では「下馬」や「拝礼」が義務付けられていたと伝わる。
その後、元正天皇の時代に聖武天皇の義弟の「石川朝臣広成」が下向されて東日本33ケ国の統治を担当して「赤丸浅井城」に入られ、「赤丸浅井神社」を再建されたと伝わる。その時に、石川親王は宮中の主要な祭神の「高皇産霊神」を改めて「赤丸浅井神社」の祭神として祀られた様だ。その時に、東大寺大仏の勧進僧の「行基」が実際に動いたのか「僧行基が建立した」と言う伝承も残っている。(※「肯搆泉達録」、「赤丸浅井神社由緒」)
「聖武天皇」は天災を恐れて奈良に「大仏建立」を目指され、越中砺波郡を統治していた郡司の一族の「利波臣志留志」は全国の豪族に先駈けて「米五千石」をその為に寄進した。その金額は奈良文化財研究所の試算では現在価値にして約3億円にも登ったと云う。後世、「赤丸浅井城」は、「利波臣」の子孫とされる「越中石黒氏の木舟城城主石黒光弘の父石黒光景」が赤丸浅井城を再建して塁代、居城にしたと伝わる。
(※「東大寺要録」、「越中石黒系図」)
■その為か、五位庄赤丸村領内高田島に祀られている「五位庄神社」は「聖武天皇勅願社」の由緒を伝えている。この高田島地区は石黒氏家臣「高田氏」の所領だったと云う。
(※「富山県神社誌」、「吉江の昔」―福光町)
「赤丸浅井神社」を再建された「石川朝臣広成」は万葉集に三首が掲載されるものの歴史家の研究が進まずに、「元正天皇は女帝で独身で有り、その子と云う事はデタラメ」とされて、加賀藩の学者も「あり得ない」として来たが、近年の「続日本紀」等の研究で、この人物は文武天皇の次男で、聖武天皇の祖父の藤原不比等によって宮中を追われた「続日本紀」にも掲載される「文武天皇の嬪の石川刀自娘」の子供である事が明らかになってきている。宮中を追われたこの子供に対して、親代わりを勤めていた「元正天皇」は「全ての天皇の子供は親王とする」と勅令を出して、下級役人の「内舎人」に任じて恭仁京に赴任させている。
(※「内舎人」は五位以上の者の子息が任じられて、摂政、関白に随臣して、武器を帯刀して警護に当たったとされる。当初は90名で在ったが後には人数は変動している。)
■従って、「赤丸浅井神社」には、越中砺波郡に開発された「東大寺庄園石粟庄」に「位田一段」が寄進された事がその庄園図に記載されている。「赤丸浅井神社」は宮中の主要な神の「高皇産霊神」を祀る事を許された最高位の神社として、「一条天皇の時に勅使川原左京が蝗害除去祈願の為に派遣され、その時に植えられた二本の勅使桜は勅使桜と呼ばれて昭和初期迄生き続けていた」と言う。(※その写真は拝殿に飾って在る。)
「高皇産霊神」が神階を与えられた事は「文徳実録」等に見え、この「六国史」にはこの当時、全国の祭神や神社に対して盛んに「神階」や「社格」が与えられているが、その位階は何れも宮中の主要神には及んでいない。
「延喜式神名帳」はそれ迄の「貞観格式」や「六国史」時代に「官社」とされた神社を集計して主要な神社を掲載したもので在り、古くは日本書紀にもその記載が在る。
「神階」は「神々固有に与えられ」、「社格」は「神社毎に与えられた」事から、世常、歴史学者が唱えてきた「二上射水神社には社格が与えられたが赤丸浅井神社には位階が無い」と云う説明は的の外れた指摘で在り、「赤丸浅井神社は正一位の宮中の最高位神を分霊して祀る最高格式の神社」と云う説明が正しいと思われる。と云う事は「赤丸浅井神社は宮中祭祀を分担する神社」と云う事に成り、「白山を開いた最澄が始めて浅井神社境内に庵を開いて元正天皇の健康と国家安泰を祈った」と伝わる事とも、繋がって来る。「赤丸浅井神社」を郷社とした「越中吉岡庄」が歴代、藤原摂関家や天皇家直轄の庄園で有り続け、「五位庄」と成った室町時代以後にも、「五位庄」は室町幕府足利将軍家直轄の庄園で在り、「三代将軍足利義満」は室の業子と追善料として「相国寺」に寄進され、その後も足利菩提寺の「等持寺」、「等持院」の庄園として足利将軍家と密接な格式の高い庄園で在り続けている。
因に、「赤丸浅井神社」の別当寺の「川人山鞍馬寺」の本尊の「釈迦如来立像」はその後転々として、現在は「浄土真宗井波別院宝蔵」に「客仏」として祀られており、「富山県文化財」になっており、その指定文書には「この仏像は元々、白山信仰の古寺に在ったもの」と記載されている。
【この時の「川原左京」とは、一条天皇の叔父に当たる「左京職の藤原道長」が該当する。
(※「京都河原町の左京職に在った人物」と言う事か?)】