赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🔴殺戮と圧政の加賀藩主【前田利常】⇒【越中国高岡山瑞龍閣記】(※富田景周著)に記載される「高岡市の歴史」!!

2021-04-18 | 富山県高岡市
🔴【歴史創造(想像)都市 高岡】
■「高岡市」の「日本遺産」
🔻前田家ゆかりの地
🔽「前田利常」が築いた町「高岡」
・【「封建領主前田利常」が人民からの徹底した搾取で築いた「高岡」】という事実を伏せた上辺だけの「歴史」による「日本遺産」の捏造??
⇒農民達を牛馬の如くに使役して搾り取った財産を一部の加賀藩ゆかりの商人達に分け与え、その協力で領民達から財貨を集めて利益を蓄えた【加賀藩恩顧の特定商人】が贅沢を尽くした「高岡市の文化」。
➡これらの商人達には「加賀藩からの免許状」が出されており、「高岡商人」が加賀藩に大枚をはたいて免許状を取得していた事は疑う必要も無い。
🔽「歴史創造(想像)都市高岡」のテーマの実態。
・「寺社」の由緒や文化の由緒を偽造した「吉田神道高岡関野神社」の作文を踏襲した【高岡市の歴史】
🔽「高岡市鋳物資料館」に在る「仁安の御綸旨」の真偽については、「どこかで購入した古文書」との疑惑が在る。能登の鋳物師に伝わる「古文書」との違い? 元々、「越中吉岡庄の領主の後白河院政」の元で発行された「仁安の御綸旨」が何故、高岡鋳物師に伝わったのか?
🔽南北朝時代には「吉岡庄」(※赤丸村鍛治屋町島)に宇多源氏の流れを汲む宇多刀工「宇多国光」の流派が栄えた。
⇒「皇室庄園越中吉岡庄・室町幕府御料所越中五位庄」の利波郡赤丸村に在った寺社の由緒を上書きして「前田家ゆかりの寺社の歴史」として偽造した「吉田神道高岡関野神社」の策謀?
➡加賀藩が高岡市へ強制的に移転させた赤丸村に在った「寺社」等の歴史を前田利家の居城「高岡守山城」の城下から動いたと偽造した「高岡市の歴史」・・「高岡総持寺」が室町時代に「足利家菩提寺相国寺」の庄園「越中五位庄赤丸村」から守山城近くの六渡寺村へ動き、続いて高岡へ動いた事。「高岡」とは「総持寺の山号高岡山総持寺」に由来する事。・・「越中宮極楽寺」等、高岡市内の古刹はその殆どが「越中五位庄」から高岡市内へ強制的に移転させられた事実。「延喜式内社高岡射水神社」は元々、高岡市守山に在ったものを「吉田神道高岡関野神社」が強制的に高岡城跡地へ移転させたもの。(その後、守山の氏子達の抗議でその縁起を現在の「延喜式内社射水神社」へ戻したと云う。)

≫≫≫等等、「寺社由緒の改竄」等は枚挙にいとまがない。正に「高岡市の歴史」は「創造(想像=改竄)」の成果?
従って、「高岡市史」には、その根拠となる「資料編」が無い!

■高岡市では、【[高岡]は「鳳凰鳴けり高き岡に」と言う「詩経」の一節から命名された】と喧伝される。云う迄も無く【鳳凰】は「天皇の象徴」であり鳳凰紋は何処にでも使用してはならない。しかし、高岡市では、「前田利長」を天皇に比して「鳳凰」は「加賀藩前田家」を指すとする「物語」が喧伝され、各所に鳳凰像が飾られ、皇室軽視、前田家偏重のとんでもない風潮が根づいている。「高岡市の命名」については加賀藩に【三壷記】という古書が伝来しており、「高岡開町」以前の歴史も詳しく伝えている。

■高岡市内では、「令和」の新天皇が即位された日にも「国旗」を掲げる家も殆ど見られず、相変わらず「高岡市」は高岡市を開町した「前田利長」を喧伝する事に終始している。
高岡市福岡町赤丸周辺には、かつて「後白河上皇~後醍醐天皇」迄続いた「上皇」の庄園【越中吉岡庄】が在り、高岡市内には四ヶ所の「聖武天皇」ゆかりの東大寺庄園が在り、各所には公家の庄園が広がっていた。前田家が越中を侵略する前は、正に皇室と密接な地域で在った。

■【高岡】は元々、「越中総持寺」の山号「高岡山コーコーサン」で在ったが「瑞龍寺」建設の時に加賀藩から接収されて「高岡山瑞龍寺」と成った。(※「富山県大百科事典」富山新聞社発行)
(※[越中総持寺]は西暦1000年頃に【越中吉岡庄】(赤丸村)に創建されたという。室町時代に「越中吉岡庄」から「五位庄」に改名されて「臨済宗相国寺」へ寄進された時に、小矢部川河口の六渡寺村へ動いたと伝わる。その後、現在の高岡市関町へ動いた。足利義満はこの時に臨済宗以外の寺院は室町幕府越中守護の居城「赤丸浅井城」の周辺から追放したと臨済宗寺院に伝えられている。)

🔻【越中吉岡庄】(富山県高岡市福岡町赤丸周辺)
(※南北朝時代迄吉岡庄。南北朝時代末期には五位庄。)
🔽「吉岡庄」の記録




🔽「越中吉岡庄」」の記録「人車記」(※近衛家陽明文庫)




🔽「兵範記」([越中吉岡庄]の記録)




🔻【室町時代】の「総持寺」の記録
「室町幕府」から所領安堵状が出ていた古刹の「越中総持寺」。




「越中総持寺」へは室町幕府からの安堵状が出されていた。


🔽「室町幕府第三代将軍足利義満」は、「室の業子」の追善供養の為に「越中五位庄」を「臨済宗相国寺」へ寄進した。










🔴「総持寺」の山号「高岡山」を接収した「加賀藩前田家」を象徴する「高岡山瑞龍寺」の記録【瑞龍閣記】(※富山県高岡市)




■殺戮と圧政を続けた尾張国から来た侵略者、第三代加賀藩主「前田利常」が「前田利長」の為に、贅を尽くして建てた越中農民達の墓標「瑞龍寺」。

■「高岡市」が信奉し英雄視する封建領主「加賀藩三代前田利常」の統治思想と実態。
🔽【殺戮と搾取を続けた加賀藩政】
加賀藩は主に越中からその財を搾り取った。(※「加賀藩史稿」)
その越中農民達の血と汗、涙の結晶の莫大な財は藩主一族の華美な生活に惜しみなく投ぜられ、その為に、幾多の農民は家族を売り、又は近くの河川等に身を投げたと伝えられ、遺骸の処理負担を恐れた集落では当番を河川に立てて、上流から流れて来る遺骸を長い竹竿で下流へそっと押し流していたと古老は語り伝えている。

◆【加賀藩史縞】(※前田家が金沢市に編纂を依頼して作成された)





◆【百姓というものは鷹の様なものである。鷹は食べ物を与えすぎて肉付きがよくなると鳥をとらえなくなる。百姓も同様で、肥えすぎると農業を疎むようにななる。しかし、鷹の肉付きが弱く成りすぎると鳥を取り逃がす。と同様に百姓も疲れすぎると田畑の耕作ができなくなる。】
⇒「百姓とゴマの油はしぼればしぼる程出る。」、「百姓は死なぬ様に、生きぬ様に」との農業政策を「前田利常」が採っていたのは有名でこの言葉は前田利常の統治思想としてよく引用される。
(※「加賀藩・富山藩の社会経済史研究」水島茂著→富山県史・福岡町史の編集委員)


「加賀藩史話 微妙公夜話(前田利常が伝えた家訓)」(※若林喜三郎著)

■昭和、平成の大修理が終わった時に刊行された「瑞龍閣記」には、「高岡開町」、「高岡の命名」、「曳き山祭りの由緒」、「熊野社の由緒」、「聚楽第拝領の誤り」、「繁久寺」の変遷等について記載されている。







■【瑞龍寺の梵鐘由来】


前田利常が養父の利長の為に建立した「瑞龍寺」の梵鐘は、福野町高屋金屋村の鋳物師が鋳造したもので「福野町安居寺アンゴウジ」の梵鐘で在ったが、瑞龍寺造営の時に徴用されたと伝わる。
(※「吉江の昔と今」福野町吉江村)

■加賀藩の歴史家「富田景周」は、武門の歴史家として加賀藩に伝わる「三壷聞書」には「高岡命名の人物」を「三久」とする事は違うと言っている。「三壺聞書」では、【高岡城の地鎮祭の時に越前一乗谷の波着寺の僧空照が呼び寄せられて、その時に「高岡」と提案した】事が記載されている。



🔽金沢市に在る「波着寺」は「加賀藩ゆかりの天徳院」近くに在る。


又、【「高岡」は高岡城築城以前の古書にも既に記載されており、「高岡城築城の時に命名されたとするのは誤りである」】とし、「高岡は関野を改めて命名された」としている。
ここには、現在の「高岡市の歴史」が脚色され、改竄された経過が事細かに記されており、武門の歴史家で在った「富田景周」の独特の歴史感を反映している。

(注記)【■高岡市関町に在る「総持寺」は、元々「高岡山総持寺コーコーサン」と言ったが、「瑞龍寺」の建立の時にその山号を前田家に取られて「瑞龍寺」は「高岡山瑞龍寺」に成った】と「富山県大百科事典」(富山新聞社刊)に記載されている。
「総持寺の住職が高岡と名付けた」と伝わるのは、元々「赤丸村の高い岡」に在った「高岡山総持寺」の由緒を伝え、この寺が古くから「関野」に移っており、地域のシンボルでも在った事からこの地域全体を著名な寺院の山号から「高岡」と呼び慣らしていたものと見られる。
「総持寺」に祭られている「国指定重要文化財木造千手観音像」の胎内には、「金剛位理卿 本願聖人」と記載されており、この仏像が「後鳥羽上皇の祈願仏」で在った事を示している。又、この仏像はその多くの胎内名から鎌倉時代に造られ、「後白河上皇」が創建され、「後鳥羽上皇」や歴代の天皇、皇族が帰依された「河内金剛寺」から伝来したと伝えられる。この「総持寺」の山号が「鳳凰鳴けり高き岡に」の詩経の一節から取られたものとすれば、[この千手観音像を造像した「後鳥羽上皇」は「承久の乱」を引き起こして「隠岐島」に生涯流されて終に都の土を生きて踏む事が叶わなかったが、この千手観音像が皇室庄園「越中吉岡庄」(赤丸村舞谷、後白河上皇~後醍醐天皇)の小高い山の上に建てられた「総持寺」に伝来し、その「後鳥羽上皇」の無念を比喩して、「鳳凰(法皇)鳴けり高き岡に」の一節に込めて「高岡山」と名付けていたもの]と見られる。因みに、「総持寺」はその後「衆徳山総持寺」と号しているが、この読みは「ストクサン」と呼び、これは「後鳥羽上皇」が生涯、「保元の乱」で敗れ、讃岐国に生涯流されて「悪鬼・怨霊」として歴代天皇に恐れられた「崇徳上皇」の鎮撫の意を込めて名付けられたものと見られる。「崇徳上皇の怨霊」を恐れた明治天皇も、「崇徳院」が祭られる「讃岐国金比羅宮」に勅使を派遣されている。】




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