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●この庄園は砺波市では、井波町の「高瀬遺跡」であるとしていたが、東京大学資料編纂所は「これは室町時代の庄園である」として否定しており、砺波市散居村研究所の池田所長は砺波郡の郡界近くの高岡市佐野辺りを比定されていた。しかし、実際に現地調査をすると、明らかにこの庄園は高岡市福田地区の【荊波神社】の隣接地区の「立野地区」が該当する事が分かった。
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■「和名類聚抄」(※平安時代中期の辞書)には、【荊】は「ナミエノキ」と記され、もう1つの【蔓荊】には「ミハヒ」と記されている。
同じ文字を使用しているが、「ミハヒ」はツルの形の「野バラ」等を指し、「ナミエノキ」とはトゲのある別物の木で在った。
砺波山や河川敷には古くから「野生のグミの木」が繁茂していた事が古書に記されている。近年では大山町の河川敷に野生グミの群生が見られるが、この木はグミの実を食用にできる他、昔は囲炉裏の燃料としても使用された様だ。
(中国では「荊」の杖で打つ刑を「徒刑 ズケイ」と云い、その為に「徒刑」を「荊刑」と呼んだものか? 「徒」は元々、「ト」と呼ぶ所から「荊刑」を「トケイ」と呼んだか?)
■富山県内では「延喜式内社荊波神社」についての論争が在る。特に、高岡市福田と砺波市池原の二ヵ所はその主張が対立しているが、高岡市福田の神社は「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」を祭神とし、砺波市池原は越中石黒氏の祖先神「彦刺肩別命 ヒコサシカタワケノミコト」を祭神としている。延喜式内社とは国家の神であり、国から「幣帛」を贈られた神社で在り、地方では国司が拝礼した神社の事で、「ニニギノミコト」は天皇の祖先神だが、「ヒコサシカタワケノミコト」は地方豪族「利波臣」の祖先神で在り、延喜式内社としては祭神から見ると高岡市福田の神社が該当する。
▼「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」は「天照大神」の子である天忍穂耳尊と、「高皇産霊尊」の娘である栲幡千千姫命(萬幡豊秋津師比売命)の子で、『日本書紀』では「高皇産霊神」の子の天火明命の子とする。
(→「延喜式内社赤丸浅井神社」の祭神は「正一位 高皇産霊神」と言う皇室の最高神。「延喜式内社二上射水神社」の祭神は「瓊瓊杵尊 ニニギノミコト」。)
■「高岡市史」は高岡市福田の祭神が「ヒコサシカタワケノミコト」と指摘して砺波市池原説を採り、福田説を否定しており、「高岡市万葉歴史館」も砺波市池原説を採って、悉く福田説を否定している。
何れも「荊波神社」を「ウバラ神社」と呼んでいるが、これは「やぶなみ」、「となみ」と読める。「荊」を「ウ」と読めば「ウナミ」と読める。一方、「延喜式神名帳」には「ウバラノヤブナミ」と振りかながして在り、振りかなからすると「ウバラに在るヤブナミ神社」と書かれている。
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■「東大寺庄園杵名蛭庄図」には、「速川」(※ソウ川→祖父川)や「杵名蛭川」(※千保川)等が記載されており、位置関係を確認すると間違いなく高岡市立野、池田地区に在ったと見られ、この「杵名蛭庄」に隣接して「荊原里 ウバラノサト」と記載されている。正にこの位置は現在の高岡市福田地区に該当し、「福田荊波神社」が延喜式内社で在る事が立証できる。
恐らく「荊波神社」をウバラと読ませたのは、この「神名帳」の部分を採ったもので、実際は「ヤブナミ」と読むのが正しい様だ。
和名では「荊」をナミエノキと読ませている事から起こった混乱と見られるが、この字を「ト」と読めば、この字は「トナミ」と読め、これが「利波臣 トナミノオミ」の祖先神とされたものだろうか?
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■「高岡市史」の様に、「神社由緒」を調べるのにその祭神も調べずに勝手に別物の祭神を挙げる等は全く論外だが、「延喜式神名帳」に記載される神社がそこらの適当な神社と考える「歴史家」の無知加減にも驚きを隠せない。
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庄川町に在ったとされ、「赤丸浅井神社」の神田が在った事を記している「東大寺庄園石粟庄図」の欄外に「荊波往還道」の記載が在る道路名が記されている事から砺波市池原説を高岡市は採っているが、「荊波」と言う名前が県内一円に繁茂していたナミエノキやミハヒから由来していたならば、県内の何処にでも「荊波」が在っても不思議では無く、神社の格式は「その神社の祭神」によってこそ決められている事こそ重視すべきだ。「神社」を論じるのに「祭神」を抜きに考える事こそ在ってはならない事だ。
「延喜式内社」とは「延喜式」と云う国法に記載された『神名帳』に記載された神社の事で在り、何れも「神代の神々」を祭神としている。何れも朝廷から勅使が派遣されて、越中の式内社の「国弊小社」は朝廷の使いとして国司が派遣されていた。従って、越中国司と成った「利波臣志留志」の祖先神とされる「彦刺方別命」が天皇家の祖先神として「神名帳」に記載される事等はあり得ない事だ。
■「高岡市」に新しく設置された「あいのかぜ鉄道」の「やぶなみ駅」は、この地域が万葉集に出てくる「やぶなみの里」だとして命名されたが、これは明らかに誤りで有り、この里は「ウバラの里」で有り、「やぶなみ」は神社の名前を指している。
▼「元万葉歴史館副館長」の「高野氏」は、万葉集に登場する「やぶなみの里」は、「蝮部」の名前が記される「砺波市」の「東大寺庄園井山庄」の隣接地域で在ったと「万葉歴史博物館」の機関誌に記載されている。