●「越中射水臣」の一族の「三善為康」は 都に出て算博士三善家の養子に成り、本人も算博士を継いでいる。「射水臣」は孝元天皇の子孫の「武内宿弥」を祖とするとも云われ、「利波郡」の名前の元に成っている「利波臣」の一族とされる。「利波郡」の郡司の「利波臣志留志」は東大寺大仏造営の時に「米五千石」を寄進して「越中国司」に成っているが、「射水臣」の詳細については分からない。「射水臣」については富山市辺りの「祇園社領」の記録等にも記録が残っており、「利波臣」の先祖で在る「射水臣」は越中で広範囲の地域を統治していたと見られる。



■「三善為康」が編纂した「朝野群載」には天皇願文、朝廷の文書、各所の行政記録等の古文書が記録されている。
その中の「諸司訓詞」には当時の鎌倉時代の独特の読み方が記録されている。そこには「斎宮 サイグウ」を「イツキノミヤノツカサ」と読み、「治部省」を「オサムルー」、「太宰府 ダザイフ」を「ミコトモチノー」、「兵部省 ヒョウブショウ」を「ツワモノノツカイ」と呼ぶ等、独特の名称が記載される。



■「三善為康」が編纂した「朝野群載」には天皇願文、朝廷の文書、各所の行政記録等の古文書が記録されている。
その中の「諸司訓詞」には当時の鎌倉時代の独特の読み方が記録されている。そこには「斎宮 サイグウ」を「イツキノミヤノツカサ」と読み、「治部省」を「オサムルー」、「太宰府 ダザイフ」を「ミコトモチノー」、「兵部省 ヒョウブショウ」を「ツワモノノツカイ」と呼ぶ等、独特の名称が記載される。
