赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

●●高岡市関町【総持寺】の【国指定重要文化財木造千手観音座像】特別御開帳!!⇒11,15 11;00

2021-04-12 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








■高岡駅南の「総持寺」では、毎年、11月15日11時より【国指定重要文化財】の【千手観音座像】の「年一回の御開帳」が在る。昔は30年に一回しか御開帳されなかった「秘仏」だが、御住職のお計らいで、近年は年一回の御開帳になったとの事。
この仏像は高野山の麓の【河内金剛寺】から【南北朝時代】に伝わったとされ、「京都駅前に在った七条仏所の慶派」の【幸賀】の手によるもの。胎内には、【後鳥羽上皇】や鎌倉幕府評定衆の【藤原浄円】や多くの信徒等の胎内名がビッシリと書かれており、国でも全容が解明されていない本当の【秘仏】と云える。又、胎内には【仏舎利】が納められていた事を示す「奉納仏舎利」の記載も在り、近年、総持寺では「二基の仏舎利容器」も発見されており、高岡市内には鎌倉時代制作と鑑定されたこの千手観音像の「胎内仏」を祀っている檀家も在る。河内金剛寺は「女人高野」とも呼ばれ、【後白河上皇】が創建された皇室所縁の寺院で、南北朝時代には、南朝と北朝の天皇が「行在所」とされた希有の歴史を持つ名刹で、南朝の【後村上天皇】等の牙城となった寺院でも在る。
この仏像は、富山県では木造千手観音像としては唯一【国指定重要文化財】に指定されている仏像で、昭和12年には【国宝】に指定されたが、現在は法律改正の為に「重要文化財」とされている。奈良や京都の国宝にも勝る歴史を持つこの【千手観音像】は【後白河上皇】から【後醍醐天皇】迄、上皇領の「後院領」や「天皇家領」として続いた【越中五位庄】の前身の【越中吉岡庄】の【赤丸村】に伝わったものと【国宝概説】は記載している。この跡地は【観音寺遺跡】と呼ばれ、高岡市市営の温浴施設【こぶし荘】の隣地一帯が跡地とされ、近年は高岡市の「西山丘陵の観光化」の為に、五位庄用水沿いの現地には案内板も設置されている。
(※近年、笹が繁茂して案内看板が見えにくく成っており、西山全体の大きな「総合観光案内板」は県道沿いの[「性宗寺」の後交差点角]ファミリーマート前に立てられている。)









🔴🔹 【太閤記の太閤遺品帳】にも掲載される越中刀工【宇多】⇒本家【宇多】、分家【宇田】、【鍛冶】!!

2021-04-12 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「宇多刀工初代 宇多国光」の太刀





■越中刀工「宇多本家」の墓


■大和国宇陀郡から【越中吉岡庄】の赤丸村鍛冶屋町島に移り住んだ【宇多刀工集団】は、元々、近江国に移り住んだ【宇多源氏佐々木氏流】と言われ、【太閤遺品帳(※「太閤記」小瀬甫菴著)】にも「宇多刀」が記載されている。「太閤秀吉」は一説には「宇多源氏高島流」とも言われ、そのルーツは「重修真書太閤記」には、【木下氏は木下郷に住んで木下を名乗り、元々は宇多源氏佐々木氏流高島氏である】とし、【秀吉の母「なか」の母方で、秀吉の叔父には「鍛冶と言う人物が居た」】と書かれている。「なか」は幼少期に父を亡くして、その「鍛冶」と言う家で育ったのだと云う。この「鍛冶」と言う名前が【宇多源氏の鍛冶氏】であれば、「なか」も又、宇多源氏の流れを汲んでいたものか?
(※【秀吉】の祖父は「木下」と言う下級武士で元々は出家僧だったとか、妻の「おね」の実家(※養女)は浅野家で在り、後に浅野長政(※養子)を輩出し、この本家が「安芸広島浅野家」で在り、その分家が「赤穂浅野家」で在った。)

■【佐々氏】の家紋は【隅立四つ目結】(宇多源氏佐々木氏流)を使用している。











■昨年、【宇多一族の菩提寺】の高岡市四日市の【三光寺】を訪問した時に、御住職から、【「宇多」は高貴な姓で在り、本家筋しか「宇多」は名乗れないとされ、分家は「宇田」、「鍛冶」しか名乗れない。】と御教示頂いた。その後、墓石群を見ると、【宇多】は一軒のみで、周辺には分家筋の「宇田」、「鍛冶」の墓が取り巻いている。又、刀剣協会の方の話しでは、【刀に「宇多」と銘を入れられたのは宇多本家にのみ許されており、分家筋は「宇多」の姓を入れずに単に「●●」と名前のみを入れた。】と知らされた。

■「宇多」の刀は、鎌倉末期から南北朝時代に作刀したものは【古宇多】と呼ばれて、文化財にも指定されている。下の写真の「古宇多」は最近、「特別保存刀剣」の鑑定を受けたもので、今年の民俗資料館特別展で「初お目見えする予定」だ。









■昨年、「高岡市福岡歴史民俗資料館」がその【特別展】で、赤丸村鍛冶屋町島の歴史として、初めて、「宇多刀」を紹介して以来、その関心が深まってきている。近年迄、魚津市の【郷義弘】や富山市五福の【佐伯則重】はその地域でも研究者も多く、現地には刀工の顕彰碑も立っているが、この【宇多刀工】についてはその場所すら知られて居なかった。高岡市の「西山歴史街道事業」で案内板を各地に立てたが、「福岡町史」や「小矢部市史」にも紹介されておりながら、殆ど知られる事がなく、研究も発表も行われる事はなかった。
元赤丸小学校教諭で、後に福岡町歴史民俗資料館の館長になられた、「地崎淳一先生」の著作(※私家版)「福岡町の民俗」には、この「宇多刀工は鍛冶屋町島で作刀した」事 が記載されているが、この場所は地元の「山林図」を熟知していないと確認できない。近年、富山県西部森林組合の西山整備事業で、赤丸村舞谷の山林図を法務局で調査した所、現在、高岡市関町に動いている「総持寺」の旧地の近接地に「鍛冶屋町島」を発見した。
その周辺には、高岡市関町の「越中宮極楽寺」が在ったと言う「極楽谷」や、「下加茂神社跡地」、「中山島」、「池田島」、「前田島」、「山崎島」や「熊野神社跡地」等も法務局の古絵図に残っている。
赤丸村には数々の史蹟が有りながら、最近迄、これ等の場所は「老人の伝承」だけで伝わって来たが、高岡市の法務局を調べると歴然とした「絵図」も残されている。







【●但し、この地域は全て私有地で在り、高岡市主催の「ウオーキング行事」等以外に、山林中に入る事ができない。】


■【越中刀工「宇多一族」の本家「宇多家」・分家「鍛冶家」の分布を見ると、この姓は富山県、高岡市に多い!!】









■南朝の牙城【赤丸村】に因んでだろうか? 富山県に多い【赤丸姓】!!



■南北朝時代は、「赤丸浅井神社」を中心とする「後醍醐天皇」の庄園は「越中吉岡庄」(※富山県高岡市赤丸周辺)と呼んだ。
明治維新では、【南朝の牙城】で在った赤丸村の歴史調査が宮内省や歴史学者等によって再調査された。【赤丸村】は【後醍醐天皇】の軍旗の【赤丸の御旗】に由来すると見られる。






■元「越中吉岡庄」の郷社「延喜式内社赤丸浅井神社」
(※「吉岡庄」は南北朝時代末期から「五位庄」に改名された。)









■「後醍醐天皇」が使用された「白地に赤丸」の「赤丸の御旗」と後醍醐天皇軍の皇子が使用された「金地に赤丸」の軍配!!





🎌🔴 後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」赤丸村---南朝の後醍醐天皇の旗標「赤丸の御旗」! !

2021-04-12 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

「赤丸の御旗」のルーツ






■越中の「赤丸村」の起源として言い伝えられてきた伝承では、
[1] 「元正天皇養老二年に越の大徳泰澄大師が赤丸浅井神社の南に草庵を結び、そこを毘沙門天の両部習合の霊場の場とし、そこで浅井神社の地主の神として天津日嗣を表す日の丸を祀り、天皇の宝祚の無窮たらん事を祈って大般若経を誦した。その時、全ての器物に赤い丸の印をつけたのでその事から赤丸と名付けられたと云う。

[2] 赤丸の「あか」は「亜伽」であり、昔、ここは小矢部、庄川が流れ込んで水郷を作っていた。丸は水の流れが丸かったから赤丸になった。」という二つの伝承がある。この場合は、仏に捧げる水の事を「閼伽の水」と云うから仏教用語から来ているのかも知れない。しかし、古文書には「赤丸」という地名は無く、「利波」「礪波評」「御いしょう」等の記載しか見当たらない。

■元々、「赤丸の旗」は古代に住んでいた蝦夷が大和朝廷と戦う際に使用した旗標を起源とし、大和朝廷に対する反逆の標とされていた。赤丸浅井神社周辺には「谷内」ヤチ「寺谷内」テラヤチと呼ばれる場所が有り、ヤチという言葉は元々アイヌが使っていた言葉と云われる。東海地方には赤ちゃんの虫封じの行事として神社で赤ちゃんの額に赤い丸印を書く「赤丸の神事」が今も盛んに行われており、「赤丸印」は何かを懲伏する際に用いられた印で在ったかも知れない。赤丸浅井神社には大正年間迄、「勅使桜」という巨木が左右に2本有ったが、これは一条天皇(986~1010年)が蝗害(イナゴの害)除去祈願として勅使川原左京を参向させられ、勅使御手植えの桜として近年まで有ったが、今は枯れて無くなった。天皇が勅使を遣わした程の「霊力の有る神」として当時は認識されていたものと見える。

■後鳥羽上皇は官軍の印として初めて「承久の乱」の時に「官軍の旗」を与えたと云う。後鳥羽上皇は菊をこよなく愛し、全ての持ち物に菊紋を入れられた。現在、皇室の印とされている「十六菊紋」はこの時から使い始められたとされる。「赤地に金の菊花紋」の天皇旗はここがルーツの様で、現在も皇室の紋、パスポートの紋は「金色の十六菊紋」が使用されている。
(※「赤丸浅井神社」の社殿にも皇室の紋の「十六菊紋」が各所に彫り込まれている。)

■後醍醐天皇は追われて吉野に逃れた時、初めて「白地の布に赤丸」を書いた日の丸の旗を賀名生の地元の土豪に与えたと云う。以来、南朝の旗標は従来の「赤地に金の丸」では無く、「金地に赤丸」「白地に赤丸」が用いられたようだ。日本各地に転戦された後醍醐天皇の皇子達も、この「金地に赤丸」の軍扇を遺されている。
後醍醐天皇は「異形の王」と云われ、空海が唐から帰った時に着ていたと云う重宝の「法衣」を身に着け、冠には赤い玉を載せて、自らは、真言宗立川流の師の文観から授かったと云う秘法を駆使して幕府の調伏の修法を行ったと云う。この時に天皇が手に持たれていたのは「五鈷杵」と言われる最も霊力が強いとされる法具で、割って中に「仏舎利」を納める様になったものだ。
吉岡庄赤丸村は、南朝の支援者の石黒氏の居城「浅井城」が有り、天皇家縁の「浅井神社」が鎮座しており、赤丸の城が平には、後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王が在城されたと伝わりその親王屋敷跡と云われる場所も残る。宗良親王は各地を転戦されたが、従軍武将の柴田、柴、本間等の諸将は南朝の支援の為にこの地に残ったと云う。此の時、後白河以来の庄園の「吉岡庄」を、宗良親王が「五位庄」に改められたと「宝永誌」に伝えられている。「五位庄」の中でも、特に「赤丸地区」は南朝の牙城とも云われる場所で、石川県境の石動と伏木港の間に位置し、山越えで能登の七尾や羽咋にも間道が通じている戦闘上の要衝でも有る。又、近くには能登と氷見の間の「石動山」が有り、ここも後白河上皇以来の天皇直轄領で有り、数千人の山伏が住んでいた様だ。後醍醐天皇は足利幕府と戦う時に、楠正成等の当時、悪党と云われた武将や、山伏、神人、等のアウトローを味方に戦ったと云われる。当地の「赤丸浅井神社」は山伏の「聖護院派」で有り、この点からも守備、攻撃の要衝だったと思われる。これ等の時代背景から、現在の赤丸村は「南朝の後醍醐天皇に従う村」として赤丸村と名付けられたとする方が筋が通る。








赤丸浅井神社の社殿には皇室の「十六菊紋」がついている。






宮中祭祀に使用され、現在は伊勢神宮内宮、外宮の装束、御神宝として20年毎に新調される「菅の翳サシハ」⇒平成25年の式年遷宮では、富山県福岡町の「無形重要文化財 菅笠」生産関係者がその材料の「菅」を生産・奉納して、大阪市東成区深江の菅笠生産組合が縫製して、伊勢神宮の「御神宝」として奉納された。


🔴🔹【宇多源氏佐々木氏系図】 「宇多源氏佐々木氏系宇多刀工」が作刀したと言われる「越中吉岡庄(赤丸村)」⇒南朝の刀工【越中 宇多刀工】の祖の「宇多国光 作」の太刀!!

2021-04-12 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●【宇多源氏佐々木氏系図】















■「宇多刀工」は大和国宇陀郡発祥と言われる。「宇多国光」(※古入道と号す)を祖として加賀を経由して「越中吉岡庄」の「赤丸浅井城」近くの「鍛冶屋町島」(※高岡市赤丸村)に移り住んだと伝わる。
「赤丸村」には、古くから鍛冶屋の氏神の「槌の宮」が在ったが、現在は高岡市関町の「総持寺」(※元々、赤丸村に在った)の門前に移っている。





■「大和国宇陀郡図」(※「宇陀郡史」)


■「宇多氏」は滋賀県甲賀郡を発祥とする「宇多源氏佐々木氏流」と言われる。「姓氏家系大辞典」(※太田亮著)には、甲賀53家の一ツに「宇田氏」(※宇多?)が在るとされる。宇多刀工の本家は「宇多」を名乗り、分家筋は「宇田」、「鍛冶」を名乗ったと云う。刀の銘も、本家筋のみに「宇多●●」と姓を打つ事が許されたとも云う。



⇒大和国宇陀郡から「越中吉岡庄」の鍛冶屋町島に移住したと云う「宇多派刀工」の祖の「宇多国光 作」の太刀!!









■「宇多刀工」の祖の「宇多国光」は、滋賀県甲賀市付近(旧:甲賀郡)で平安時代の天皇である「宇多天皇」の後裔の「佐々木氏」の後裔と伝える。「佐々木氏」は宇多天皇の子孫の「成頼」がその祖と言われ、その子には「佐々木義経」が居る。
甲賀衆には「宇多」と名乗った一族がおり、この一族が奈良県の宇陀郡に移り住んで作刀したと見られる。
大和国宇陀郡は伊勢市とも隣接しており、この国の国侍達は伊勢国司北畠親房の配下で在り、「後醍醐天皇」が宇陀郡の「八咫烏神社 ヤタカラスジンジャ」を崇敬された事から、南北朝の頃は「南朝」の強固な地盤で在った。「北畠親房」は「後醍醐天皇」の皇子の「後村上天皇」の為に「神皇正統記」や朝廷の制度や法律を集約して「職原鈔」を著して、関東でも南朝軍に参戦している。
「越中吉岡庄」は「後醍醐天皇」の庄園で在り、赤丸村は南朝の牙城で在った事から、大和国宇陀郡から作刀の為に「宇多刀工」を呼び寄せ、大量に刀剣を作刀していたものと見られる。「後醍醐天皇」は吉野への途中に五条市の「賀名生里アノウノサト」に宿を借り、そこに天皇の標の「金の丸」を赤く塗った「赤丸の御旗」を遺されて、天皇の皇子達は「赤丸」を旗標として軍配にも書かれている。「赤丸村」は「南朝の牙城」 として後にこの「赤丸の御旗」から「赤丸村」と呼び慣わされたものと見られる。興国三年、越中に入られた「後醍醐天皇」の「第八皇子宗良親王」は「赤丸城ケ平山」に「親王屋敷」を構え、石黒氏の居城の「赤丸浅井城」や各地の南朝支援の軍を鼓舞されて巡航されたと云う。その時に、隣接した「極楽谷」には「越中宮極楽寺」(※高岡市)を創建されたと言う。
(※「越中宮極楽寺由緒」参照)

▼「姓氏家系大辞典」(※太田亮著)には「宇多氏は佐々木高則の後、宇多高之より出ず」 と在る。




















■「五位庄(旧吉岡庄)郷社 延喜式内社赤丸浅井神社」の建物には皇室の菊紋が入っている。



🔴【承久の乱】と越中国『宮崎氏』⇒越中国(朝日町)を本拠にして天皇家の為に戦った藤原氏一族「宮崎氏」!!

2021-04-12 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■「安宅川合戦」(※「歌川国芳作」)に見られる『宮崎太郎』







●越中の『宮崎氏』は『加賀の林氏』・『越中の石黒氏』と共に「越中吉岡庄」の庄園領主の『後白河上皇』の皇子『以仁王』の令旨を受けて平家討伐の先頭に立ち、この時に源氏の大将『木曽義仲』は「宮崎氏」の本拠地の朝日町に「以仁王」の皇子「北陸宮」を迎えている。その後も、『後鳥羽上皇』が起こされた「承久の乱」では越中諸将の中心に在り、上皇側で戦った。
(※「孝霊天皇」の末裔とも云われ、越中の「古代豪族利波臣」の末裔ともされる越中の「石黒氏」は後白河上皇、後鳥羽上皇、後醍醐天皇の庄園で在った「越中吉岡庄」の「赤丸浅井城」を拠点にして天皇家、南朝の為に戦った。)

■「越中倶利伽羅谷の戦い」や「加賀安宅川の戦い」では、『宮崎太郎』が見られ、「承久の乱」では北陸道の守将として『宮崎左衛門定範』が見られる。

■【吾妻鏡 巻25】「承久の乱」
『承久三年(1221年)六月小三日丙辰。關東大將軍著于遠江國府之由。飛脚昨日入洛之間。有公卿僉儀。爲防戰。被遣官軍於方々。仍今曉各進發。所謂。北陸道。宮崎左衛門尉定範。糟谷左衛門尉有久。仁科次郎盛朝。東山道。大井戸渡。大夫判官惟信。筑後左衛門尉有長。糟谷四郎左衛門尉久季。鵜沼渡。美濃目代帶刀左衛門尉。神地藏人入道。池瀬。朝日判官代。關左衛門尉。土岐判官代。關田太郎。摩免戸。能登守秀康。山城守廣綱。下総前司盛綱。平判官胤義。佐々木判官高重。鏡右衛門尉久綱。安藝宗内左衛門尉。食渡。山田左衛門尉。臼井太郎入道。洲俣。河内判官秀澄。山田次郎重忠。市脇伊勢守光員等也。』


【北陸道】宮崎左衛門尉定範・糟谷左衛門尉有久・仁科次郎盛朝
【東山道の大井戸渡し】大夫判官大内惟信・筑後左衛門尉有長・糟谷四郎左衛門尉久季
【鵜沼渡し】美濃目代帯刀左衛門尉・神地蔵人入道頼経
【池瀬】朝日判官代・関左衛門尉政綱・土岐判官代・関田太郎
【摩免戸】能登守藤性足利秀康・山城守佐々木広綱・下総前司小野盛綱・平判官三浦胤義・佐々木判官高重・鏡右衛門尉久綱・安芸宗内左衛門尉
【食渡し】山田左衛門尉・臼井太郎入道常忠
【洲俣】河内判官藤原秀澄・山田次郎重忠
【市脇】伊勢守加藤太光員



■富山県の「宮崎町史」に拠れば、この宮崎氏は信州を本拠とした「藤原氏」で在ったが、義仲が木曽から越中へ侵攻した時に、越中の宮崎の「宮崎城」に拠ったと言う。「宮崎町」には「後白河上皇」の皇子の「以仁王」の皇子「北陸宮」を迎えて、宮崎城で政務を執られたらしいと云う。木曽義仲が近江で敗れて亡くなると、「北陸宮」も嵯峨野に戻って余生を過ごされ、宮崎氏の末裔はその後も子孫は残っていたが、直系は断絶したと言う。「治承、寿永の乱」や「承久の乱」では皇室の支援者だったが、後の「南北朝の争乱」では、越中国人の石黒氏や加賀の林氏は後醍醐天皇の御味方をしたが、宮崎氏は北朝の花園天皇に御味方したと言う。結果、敗れて終には信濃の国に一族は引き揚げ、富山県宮崎町にはその後の墓地等は確認できないと云う。

🔴【応仁の乱】の渦中に在った【越中国】⇒室町時代の「畠山家の相続問題」と「越中国」!!

2021-04-11 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■【越中守護 赤丸浅井城 畠山持国】













▼「三代将軍足利義満」の母は「越中蜷川氏」と「宇多天皇」の血を継ぐ事。
「越中蜷川氏」は「足利一門」とされ、富山県の「新川郡」と「利波郡」を統治したとされる。この様な背景からも、越中国は室町幕府にとって重要な拠点で在った。後に「足利義材」が越中国放生津に逃れて臨時政権を建てた事も、この様な背景からだと見られる。





「足利義満」は「宇多天皇の末裔」で「母親」は「越中蜷川氏」(蜷川新右衛門親当)



▼「足利義満」が室の業子の追善料として「五位庄」を京都の「相国寺」の庄園として寄進した時に、その底地は「畠山満家」に預け置かれた(※「富山県史 中世」)とされる。
この「畠山満家」の「三回忌」は、現在、高岡市関町に在り、「国指定重要文化財木造千手観音像」を祀る「総持寺」が「五位庄赤丸村」から海沿いに移転していた時期に、雅楽の演奏を交えて盛大に執り行われたと言う。(※「大須観音文書」愛知県名古屋市)
⇒この「畠山満家」の家系の相続問題が「応仁の乱」の大きな原因と成っていた。





「五位庄53ヶ村惣社延喜式内社赤丸浅井神社」




■「越中統治絵図」(※「畠山文書」羽曳野市資料叢書)


後白河上皇以来、後醍醐天皇迄天皇家庄園として続いた「越中吉岡庄」は、「足利義満」が南北朝を統一して「五位庄」に改名され、「五位庄」は義満の妻「業子」の追善供養の為に、義満が創建した「臨済宗相国寺」(※塔頭寺院「鹿苑寺舎利殿金閣」)に寄進された。奈良時代の創建とも伝わる吉岡庄の中核施設で在った「赤丸浅井城」には、「室町幕府守護畠山持国」の名前が見られる。(※「越中絵図」畠山文書)

🔽「源氏系図」には「足利義勝」の加冠を行い、「将軍足利義勝」の側近で在った「畠山持国」の記載が在る。












■「畠山満家」の三回忌法要を営んだとされる「衆徳山総持寺」と「国指定重要文化財木造千手観音座像」
この法要は「越中守護畠山持国」が亡き父の「室町幕府管領畠山満家」の三回忌法要で、厳かに雅楽の演奏を交えて執り行われたと云う。





🔻名古屋真福寺大須観音記録(舞楽曼陀羅供養記録)
【射水市新湊博物館主任学芸員松山充宏氏論文 参照】
①富山市日本海文化研究所紀要 第22号 2009年
②砺波市立砺波散村地域研究所研究紀要 第26号 2009年










🔴🔴《「清盛」と「常盤午前」の娘【廊の御方】》と【河内金剛寺結縁過去帳】・・・高岡市「衆徳山総持寺」の【国指定重要文化財千手観音像】が伝来した「河内天谷山金剛寺」!!

2021-04-11 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「後白河天皇」創建の『河内金剛寺』




■「天谷山金剛寺」は南北朝時代に南朝の天皇が行在所にされた。一時期には南朝と北朝の天皇が同時に住まいにされた特殊な経歴を持つ古刹で、後白河上皇が創建され、仁和寺系の寺院で在りながら、藤原氏の寺の興福寺から歴代の住職が就任して、歴代の天皇や女院等が結縁過去帳に記載されており、高野山が女人禁制だった為にこの寺は女人が参詣できる寺として「女人高野」と呼ばれた。この寺の敷地は、この地域の領主の源氏の源(三善)貞弘が寄進している。この武将は領地争いから同族の源氏の武将を殺害して、その首を手土産に平清盛に馳せ参じて、源平の倶利伽羅合戦では平家側で戦って越中倶利伽羅谷で死亡している。
この寺の「結縁過去帳」には目を見張る位に数多くの著名人の名前が記載される。

▼『総持寺国指定重要文化財木造千手観音座像』は「河内金剛寺」から後醍醐天皇の庄園「吉岡庄(赤丸村)」に移された仏像として昭和12年には「国宝」に指定され、その後「国指定重要文化財」に成った。(※近年は11月15日に年一回の特別御開帳が行われている。)




■【※「河内国 金剛寺 過去帳」記載の法名 抄】
*鳥羽太上法王、 *美福門院得子(鳥羽中宮)、 *近衛院(上皇)、 *後白河院(上皇)、 *二條院(上皇)、
*八条尼御前;子内親王、鳥羽天皇の皇女で、母は美福門院(皇后・藤原得子)、近衛天皇は同母弟、崇徳・後白河両天皇は異母兄、甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育した。以仁王は八条院の猶子、甥の二条天皇准母、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)等を養育、以仁王(後白河皇子)は八条院の猶子、天皇勅願所として栄えた富山県と石川県の県境に位置する「石動山石動寺」は後白河上皇の荘園であり、上皇はこの荘園を邸内に有った「長構堂」という寺の費用を賄う為に寄進しているが、「石動山石動寺」(※復興後は勧修寺派「天平寺」となる。)は興国二年に足利氏により復興される前には河内金剛寺と同じ宗派の「御室仁和寺派」であったと云う。後白河法皇と皇女八条院は、承安元年(1171年)に河内金剛寺の金堂・宝塔・御影堂・鐘楼・食堂・中門等を建立した。越中 高瀬庄は八条女院領となる。 後白河上皇は石動山を長講堂領として所有していたが、その後この地は寵妃の丹後局の子の宣陽門院に譲られ、源通親がその別当に任じられた。(源通親は仁安3年1168年加賀介を兼任。安元3年1177年加賀権介を兼任。正治元年1199年内大臣。--と加賀に関する役職を歴任している。
*三條宮(高倉宮以仁親王)、 *仁和寺宮(守覚法親王)、*藤原氏北政所(藤原兼子)、 *前関白殿(九条兼実)、 *宣秋門院(任子、後鳥羽天皇の中宮)、 *右大将家征夷将軍源二位殿(源頼朝、卒53才)、 *尼能登殿(能登守平教経の妻→能登殿は平家物語の有名な義経八艘飛びの場面で義経を追った平家の武将) 、 *女廊御方(平相国女生母常葉女*常盤)、等】

■この中には「廊の御方」と言う人物が記載されている。源氏の棟梁の源義朝は平清盛に討たれ、その妻子は都へ送られて、義朝の愛妾の「常盤御前」はその子の 『今若』(後の阿野全成)、『乙若』(後の義円)、『牛若』(後の源義経) の助命の為に清盛の妾に成ったが、その時に一人の女の子を産んでいる。その子は長じて藤原氏に嫁いで「廊の方」と呼ばれ、その系統は後の後醍醐天皇の血統に繋がっている。
(※参照;「河内金剛寺の中世的世界」堀内和明著)






🔴💊富山県西礪波郡赤丸村と高峰譲吉博士⇒南朝の遺臣赤丸村の「南家」!!

2021-04-11 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■越中国礪波郡五位庄赤丸村は、「義経記」の舟乗り場で弁慶が義経を扇子で打謫したシーンとして「歌舞伎」に採用されて代表的な場面として知れ渡っている。その「赤丸村」の「二位の渡し」から小矢部川の「如意渡し」と呼ばれた「舟下りルート」で小矢部川河口迄舟で下り、河口の村「六渡寺村(六動寺村)」に在る渡し場で下りると、富山県の絶景として有名な「有磯海」(※大伴家持の歌にも登場する)の「雨晴し海岸」に向かう。







◆高岡市を代表する景観として高岡市雨晴し海岸の日本海に浮かぶ【女岩】と、背景に見える富山湾越しの【立山連峰】の景色は幻想的だ。
富山県西部の小矢部川、庄川流域の「(旧名)礪波郡」には、【東大寺の大仏造営の時に米五千石を寄進した】古代豪族【利波臣】の《越中国司利波臣志留志》の一族が繁栄し、その後継氏族とされる「越中石黒氏」は、この水運を利用して今日迄、繁栄してきた。小矢部川河口から氷見市に向かう雨晴し海岸には源義経の奥州下りの伝説を伝える「義経岩」や「女岩」が在り、早朝の景色は幻想的だ。





■高岡市出身の著名な医師の高峰博士の母方の実家「南家」は富山県高岡市赤丸村の出身と言われる。高岡市御馬出町の高峰譲吉の住居跡に在る高峰公園には「高峰博士顕彰碑」が立てられている。










■「津田家と高峰譲吉」(www1.tcnet.ne.jp/x-file/)のブログに興味深い事が記されているので引用して御紹介したい。
それに拠ると、高岡市の旧家の塩屋家三代目の塩屋弥右エ門氏(津田半村)の長男(塩屋)津田為次郎の妹の幸子さんは「高峰譲吉博士の母」で在ると言う。この津田半村氏は元々、南朝の遺臣で、『砺波郡赤丸村』から氷見市に動き、その後、高岡市に移動したとされる『南家』の子孫に当たるのだと云う。



■南家について以下の詳細が記されている。
【南家は南朝の遺臣で、国泰寺創立の事に与り、大檀越となり礪波郡赤丸村(福岡町)より今の氷見市加納町に住んだ。六世兵左衛門の時 山廻り役から二上 組十村に補せられ、居を今の高岡市中川に移し、爾来累世十村となった。 九世助松(初め善左衛門)は格勤励精を以て聞え、嘉永四年七月御扶持人十村 に補せられ、前後穀禄の加増があった文久元年より三年の間に、三州諸郡打銀 主付、射水郡無組【御扶持人十村】並三州諸郡御用達等の要職を歴任し、明治 十五年十一月十九日歿した。】

▼【南家】初代南与兵衛 二代南兵左衛門 三代南与兵衛 四代南兵左衛門 五代南善左衛門 六世南兵左衛門 七世南善左衛門 ・八世南兵左衛門(次男 津田半村) 九世南善左衛門(助松)・十世南兵吉(南武右衛門 ※妻は譲吉博士の実妹)               
この『南家』の八世の「南兵左衛門(兵太郎)」の次男が『津田弥右衛門(半村)』で、その長男の津田為次郎氏の妹『津田幸子』が高峰博士の母に当たると云う。更に、高峰博士の実妹が十世兵吉氏に嫁いで居ると云う。

▼【越中は、衆議院議長をされた富山県南砺市井波町井波八幡宮の第十五代宮司の綿貫民輔氏の出身地である。綿貫家は父の佐民(スケタミ)氏が淡路島を故郷とする南家から養子に入り二回の衆議院議員に当選して54才の若さでガンで亡くなり、その後、民輔氏が国会議員になり、遂には衆議院議長も務められた。この父の実家の淡路島の南家は南朝の忠臣楠木正成の末裔と云う。(※「八十一才は人生こにれから」綿貫民輔著】

■赤丸村(五位庄)の旧家は高岡市の臨済宗国泰寺の大壇那と為った者がおり、加賀藩士で氷見市の阿尾城主の子孫「菊池大学」が、赤丸村の富裕層に寄進の依頼文書を出している。(※「越中古文抄」氷見丈繁編 高岡市立図書館蔵)
赤丸村は、南北朝時代に室町三代将軍足利義満が「相国寺」(※塔頭寺院金閣寺)に庄園として寄進して以来、臨済宗大徳寺派の高僧「一休禅師」と懇意だった富山市蜷川城城主蜷川氏(※一族に「蜷川新右エ門」)が砺波郡を治めたとされる。
「万年山相国寺」は臨済宗相国寺派の大本山で、京都五山第二位の名刹であった。高岡市の雨晴し海岸から少し山地を入った所に、「虚無僧」の本山とされる「臨済宗国泰寺コクタイジ」が在る。「国泰寺」は、南北朝時代に越中西部の「越中吉岡庄」の庄園領主で在った【後醍醐天皇】から勅書を与えられたとされる名刹で在った。室町時代になると、富山県西部の「越中五位庄」は、室町幕府御粮所となり、【第三代将軍足利義満】が「越中五位庄」を室の業子ナリコの菩提を弔う為に【臨済宗相国寺】へ寄進した事から、越中は臨済宗の影響が大きく、特に、小矢部川沿いの「利波郡赤丸村」に在った「赤丸浅井城」に【越中守護畠山持国】が入った事から、周辺から「臨済宗」以外の宗派は立ち退きを命ぜられたとされる。一時期には、五位庄赤丸村は氷見の阿尾城主菊池氏が領有した(※「越中志微」森田柿園)とも伝えられ、加賀藩時代にも元、阿尾城主で在った「加賀藩士菊池大学」が「赤丸村」の豪士に「国泰寺」への寄進を求めた古文書も遺ちされていた。
(※「越中古文抄」高岡市立中央図書館)

「室町時代」の「畠山文書」に見られる【越中絵図】には、「赤丸浅井城」に「室町幕府越中守護畠山持国」の記載が在る。(※「羽曳野市資料叢書」)


■赤丸村は加賀藩政の下で60~75%もの高率の課税に苦しみ、古老の話では小矢部川に多くの水死体が上がり、村人達は葬儀費用を負担させられるのを嫌って長い竹棹で密かに下流に押し流していたと今も伝わり、赤丸村の困窮具合が知られる伝承となっている。従って、藩政期に於いては「頭振り」と呼ばれた水呑み百姓は「高持ち百姓」の小作しか出来ず、不作の時には身売り、心中も在ったらしく、昔は用水の畔に多くの「地蔵尊」が祀られていた。
今も小矢部川沿岸の加賀藩の鷹狩り場を開発した(※お鷹場新開と云う。)向野新村には多くの石地蔵尊が祀られている。現在も県内各地に、「石地蔵尊」を祀る祠が残るが、現在の人達は単に道祖神位にしか見ていないだろうが、実は、これは加賀藩の圧政を伝える墓標でもある。
赤丸村には南家の他にも多くの旧家が他地区に動いたと伝わり、「延喜式内社五位庄53ケ村総社赤丸浅井神社」の浅井神社内の神域に神官川人家以外に唯一墓地を持ち、神社の前に住居を持つ石川家の「総本家石川家」(※高持ち百姓、七軒百姓と呼ばれた。)や、高岡市、小矢部市、氷見市等に広範囲な所領を持っていたと言う「池田家」、舞谷村の八幡宮の神官の末裔とされる「越後総本家」も県外に脱出している。又、浅井神社前の「城尾家」も大沢野に動いている。富山市八尾に斉藤氏の居城「城尾城」が在った。菊池大学の母は元々、城尾城主斉藤氏の妻で在ったが、妊娠した状態で阿尾城菊池氏の妻と成り、産んだ子供が加賀藩士菊池大学である。赤丸村の古い戸籍を確認した所、この「城尾家」は「赤丸村鞍馬寺」から動いた事が確認されている。
加賀藩になってからは「赤丸村西円の住民は高岡市の和田新村開発の為に移住させられ」(※「城端別院善徳寺文書」富山県立公文書館)、又、明治・大正・昭和にかけても、加賀藩政時代の後遺症に苦しんだ赤丸村からは多くの住民が去って行った。長い「藤原摂関家庄園」・「後白河上皇以来の皇室領」・「足利室町幕府の直轄地」(※「御粮所」)等の華々しい歴史を遺す古文書は、度重なる戦火で焼かれたが、平安~中世の古文書や、県外資料に赤丸村の記録が遺されている。又、藩政期にも「森田柿園文庫」(「石川県立図書館」)や、金沢市中央図書館の古文書、「肯搆泉達録」等にも記載が見られる。
しかし、県内では依然として福岡歴史民俗資料館の「十村役杉野家文書」等に僅かな記録を遺すのみで、今回の「南家」(※末裔の方は高岡市街に在住と聞く)の資料は大変貴重だ。





🔴「越中吉岡庄」(※後に五位庄)赤丸村に伝わった「西国三十三ケ所霊場」の信仰⇒「京都清水寺」・「播磨清水寺」・「丹後成相寺」・「石山寺」・「三井寺」等 !!

2021-04-11 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸




「越中吉岡庄」は「三井寺」で出家され、「妙法院」・「蓮華王院」・「三十三間堂」を開設された『後白河上皇の後院領』で在り、三井寺には熊野三山検校の資格を与えられ、自らも33回の「熊野」への参詣を重ねられた。本山派山伏聖護院(天台宗)はこの三井寺と熊野に密接な寺院で、もう一派の当山派と併せて、全国で二万社近くを数える強大な「両部神道」の山伏修験道と成ったが、吉岡庄の別当寺「川人山鞍馬寺」とその持宮の「延喜式内社赤丸浅井神社」はその流れを汲む寺社で有り、後白河上皇の皇子が聖護院の初代門跡となられた事から聖護院派に属したものと見られる。赤丸浅井神社には「聖護院宮御用」の看板が遺されており、浅井神社の背後には「熊野社跡」も遺されている。
又、浅井神社背後の「清水山」には「京都清水寺」の観音像を祀る「観音寺」が在り、清水寺に祀られる「将軍地蔵(坂上田村麿)」を祀る「愛宕社」も明治の廃仏毀釈迄在ったが、この愛宕社の本尊の将軍地蔵は現在、高岡駅南の総持寺近くの「天景寺」に祀られている様だ。この天景寺には更に、三十三ケ所霊場の「はりまの清水寺」の観音像を祀っており、近くの総持寺には「京都丹後の成相寺聖観音像」を祀っている。
又、東大寺の別院格とされる近江の「石山寺」には越中郡司、国司を勤めた「利波臣」の「官倉納交替記」が遺されており、高岡市から砺波市、庄川町にかけて広がっていた往古の東大寺庄園の管理をした記録が遺されている。又、西国二十二番総持寺には、珍しい「亀に乗った千手観音像」が祀られており、同じ真言宗の高岡市総持寺にも「千手観音座像」が祀られている事から、なにやら同じ流れの信仰とも見られる。この二つの総持寺の関連は不明だが、赤丸浅井神社には「総院と言う僧がやって来て通称「観音寺」⇒「総持寺」を開いた。」 と伝承されるが、この「総院」が何処から来たかは不明である。

この様に、「白河天皇」の時に京都上賀茂神社の庄園と成った「越中吉岡庄」は後白河上皇(蓮華王院庄園) から後鳥羽上皇、後醍醐天皇迄「天皇家の庄園」として続き、その後も室町幕府直轄地として京都下鴨神社、相国寺(金閣寺)~足利家菩提寺等持寺、等持院の庄園となっており、長く続いた権力者の庄園で在った事から京都や西国の信仰が赤丸村に在ったこれ等の寺々に伝わったものと見られる。










































🌸🔸【義経記の二位の渡し】 越中国の古代駅「川人駅」と「和名類聚抄」に記載される「川合郷」 ⇒「延喜式内社赤丸浅井神社」の神官「川人氏」のルーツ?

2021-04-11 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「古代駅 川合(川人)駅」が在ったとされる「五位庄赤丸村」の歴史!!




■【川人部の意味】
「世界大百科辞典」に「供御人」に就いて【山城(京都府)の賀茂神社(上賀茂・下鴨両社)が各地に領有した御厨(みくりや)の住民で,漁猟に従事し,供祭物(神前への供物)としての魚類の貢進を任とした人々。1090年(寛治4)白河上皇が賀茂両社にそれぞれ不輸田600余町を寄進するとともに,御厨を諸国に分置したが,それ以前からのものも含め,両社は琵琶湖岸や瀬戸内海周辺に多くの御厨を領有した。】と記載される。
「越中吉岡庄」は白河上皇の時に「上賀茂神社」の御厨となったとされる。
【※「山野川湊の中世史」(※久保尚文 著)】

■赤丸村の古代名は「川合郷」と云われ、「和名類聚抄」には「越中国 川合郷」と記され、元正天皇の時代に成立した「延喜式」では、「都」から「伏木の越中古国府」迄を繋いだ「古代北陸道」に設けられたこの駅には、都からの伝令を繋ぐ「馬」や「武具」が常備されたとされる。古くから「川合郷」と呼ばれたり「川人の駅」と呼ばれて来たが、一説には「合」を草書にした時に誤って「人」と書いたと説明されて来た。しかし、古代氏族の中に「川人部」と言う一族が「但馬国」に住み、川魚の採集を業としたとされている。
「延喜式内社赤丸浅井神社」には、この北陸道街道沿いの「赤丸浅井城」周辺は物流や交通の要衝で在った【川人郷】と呼ばれた事が記載されている。この事は、「延喜式内社赤丸浅井神社」がある地域「川人郷」と呼び、朝廷から見て「大河が合流する古代北陸道沿いの郷」という事から、【川合郷】と呼ばれたと見られる。
延喜式巻九、十の「延喜式神名帳」には、「赤丸浅井神社」が記載されている。














■「利波(礪波)郡」の郡司氏族の「利波臣志留志」は、「聖武天皇の東大寺大仏造営の時に米五千石を寄進して越中国司」に任じられている。この子孫の「越中石黒氏」は【吉岡庄】(赤丸村)の【赤丸浅井城】を代々、世襲して、東大寺庄園からは「浅井神に一段」が寄進された。



東大寺造営の寄進者筆頭には、聖武天皇、光明天皇等の後に「利波臣志留志米五千石寄進」と記載され、毎年の「東大寺お水取り行事」で読み上げられている。(※【東大寺修院過去帳】東大寺文書)


■「室町時代」の「越中絵図」には、越中の福野町辺りに「川上五郎」という人物が記載されており、加賀藩時代の歴史家の「五十嵐篤好」は、この人物が住んでいた福野町辺りを「川合郷と呼んだのではないか?」とその著書「郷庄考」に記載している。しかし、「川合郷」のルーツは、奈良時代では「古代北陸道」に在った赤丸村辺りを「川合郷」と呼んだ事が「和名類聚抄」 (※古代の国郡郷を調査する基本の文献
)から明らかである。この川合郷は、「朝廷から越中国府に使者が向かう時の、北陸道で馬の交替をする場所であり、街道を守備する武具も備えた軍事拠点で在った。」と言う。従って、当然、宿所や、市場等の集落があり、学者の中には、小矢部川の水上交通の渡船場所等も在ったであろうとされており、語源は「川渡駅」ではなかったかとされる。加賀藩の参勤交代道中絵図には小矢部川で唯一、「渡船」が在った事が記されている。江戸時代には専属の渡し役に銀で給金が支払われ、「西村の彦兵衛」、「赤丸村の五兵衛」が担当した事が記録に残る。(※「福岡町史」)
これが平安、鎌倉時代の物語の「義経記」等に登場する「二位の渡し」であり、加賀藩時代の「五位の渡し」で在ったと見られる。

「義経記」では「二位の渡し」で、弁慶が義経を扇子で打擲した場面は、「勧進帳」にも採用されている。







室町幕府の管領「畠山満家」が定めたとされる「越中八郡絵図」(※「畠山文書」大阪府羽曳野市資料叢書)





■「延喜式内社赤丸浅井神社」の別当寺の「鞍馬寺」は「山号」を「川人山鞍馬寺」と名乗り、後にこの社僧は「川人他治馬」と名乗っている。又、「五位庄」の「下簑村」の神官家は古代豪族の「大伴氏」の一族の「佐伯」と号し、同じく、五位庄宮嶋郷の「延喜式内社比売神社」の神官の一族で、この家系は「但馬」を名乗り、「但馬殿」と呼ばれて来たと云う。又、「川人家」と「佐伯家」は古くからの縁者で、古い時代に「川人家」が神官を勤めて来た小矢部市の神社は江戸時代には「佐伯家」が神官として奉仕している。元々、「五位庄」が「吉岡庄」と呼ばれていた南北朝時代以前は、「赤丸浅井神社縁起」(※富山県立公文書館)では小矢部市の宮嶋郷迄が「赤丸浅井神社」の神域で在ったとされている。小矢部市の「宮嶋郷」は、鎌倉時代には「鎌倉幕府摂家将軍藤原頼経」の父の「藤原道家」の庄園で在ったとされる。(※「鎌倉遺文」)








■「越中吉岡庄」は「保元の乱」で「後白河上皇」の庄園として没収される前は、「藤原摂関家藤原頼長」の庄園で在り、「頼長」の父の「藤原忠実」の時に「京都上賀茂神社」の「御厨」に成っていたとされる。従って、この地域は、元々、藤原氏が庄園としていた地域で在り、「栄華物語」に登場する「藤原頼長」の先祖の「藤原道長」の時代に「一条天皇は川原左京を蝗害の防止祈願の為に勅使として浅井神社に派遣され、その時に植えられた二本の桜を勅使桜と呼び、その桜は昭和期迄残っていた」と浅井神社記録に遺されている。
その巨大な桜の写真は、今も浅井神社の拝殿に掲げられている。「一条天皇」の時の「左京大夫」は一条天皇の伯父の「藤原道長」で在り、この記載は恐らく「京都河原町の左京大夫藤原道長」を表していると思われる。「藤原頼長」は先祖の「藤原道長」と「藤原頼通」の一字から名付けられたと云う。








■この「供御人」の説明から推測すると、元々、小矢部川と庄川が合流していた赤丸村の「赤丸浅井神社」前の地域を「川合」と呼び、そこに住んで「浅井神社」に川魚を献じていた「川人部」から「川人駅」と呼んだ事が考えられる。「赤丸浅井神社縁起」には、「元正天皇二宮」が再建される遥か以前から、この地域に「八河江比売」を祭神とする古社が在り、この神社の御神体は小矢部川と庄川の合流地点の「阿光ケ淵」から上がった「貴石」であると伝えられている。古老の説では、元々、浅井神社の後ろの「浅井谷」の入口に二本の木を立てたのが神社の「鳥居」の原点と云われ、「八河江比売」は大河の畔に祭られた出雲系の神だと云われる。
後に「元正天皇二宮」が再興された時に、皇室八神の最高神の「正一位 高皇産霊神」を祀ったと云われる。
(※「赤丸浅井神社」は、当初は、川の江に出雲の神「八河江比売神」(小矢部川へ流れ込む八本の大河の辺に祭られた神)を祀り、御神体は浅井谷や自然の恵みをもたらす小矢部川や庄川で在ったと見られ、後に朝廷との繋がりが強くなった時に、「皇室八神」の一柱で「大伴家持」の祖先神の「高皇産霊神」を祀った時に御神体は「石」に成ったと見られる。「高皇産霊神」は「底つ磐根に宿る」とされ、岩石に降臨すると云われる事から「石」が御神体に成ったと見られる。小矢部川上流には神事で用いられた「勾玉」の材料に成る「玉石 ギョクセキ」を産し、福光町では現在も「玉盃」やアクセサリーが造られており、小矢部川は水産物や水利だけで無く、貴重な「玉石」を産する川として崇敬されたものと見られる。赤丸城ケ平古墳群からの出土品の中にも「赤の玉石」から造られた勾玉が在り、中国では一国と交換される位に貴重な「玉 ギョク」を産した事も「赤丸浅井神社」を氏神とした「吉岡庄」が藤原氏や皇室の庄園に成った動機の一つだったかも知れない。)













▼(参考)小矢部市出身の加賀藩士「宮永正運」の著作「越の下草」には、【福岡町下簑村の神官「佐伯但馬」は石動(小矢部市)の神社に奉仕した帰り道に「金の仏像」を拾った】と記載される。
「宮永正運」;『享保17年1月(1732年)~ 享和3年(1803年)6月』は、越中国砺波郡下川崎村(現在の富山県小矢部市下川崎)出身の農学者・篤農家で宮永正長の長男。宮永家は加賀国守護職富樫家の一族で宮永氏(加賀松任の宮永村が本拠)を祖とする。家系図によると藤原利仁の子孫とされる。幕末の勤皇の志士宮永良蔵は曾孫。49歳で加賀藩の「砺波・射水両郡」の蔭聞横目役(カゲキキヨメヤク)・山廻役(ヤママワリヤク)を命じられて、併せて「新川郡」を加えた越中三郡の産物裁許役も兼ねた。著書に、「春の山路」、「越の下草」等がある。(※Wikipedia)

🔴🏯【南朝の牙城】の【赤丸村 ⇒「後醍醐天皇」が吉野に逃れる時に奈良県五条市賀名生アノウの民家に宿泊され、そこで、南朝の旗幟の「金地に赤丸の御旗」を描かれたと言う。

2021-04-11 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
●「南朝の牙城」の富山県高岡市【赤丸村】の由来?
⇒「明治維新政府」の【南朝を正統とする議決】の経緯。



■南朝の「後醍醐天皇」は吉野に落ちる時に旅の途中の賀名生の「堀家」に「南朝の旗標」の「赤丸の御旗」を残された。南朝軍を指揮した「後醍醐天皇」の皇子達は「金地に赤丸」の軍配を使用して指揮されている。又、「後醍醐天皇」は自らも「真言宗」の「大日如来」を示す「日の丸」を冠に着け、空海が唐から持ち帰ったと云われる「東寺の重宝の袈裟」を掛けて、東寺長者「文観」より授けられた「真言宗立川流の秘技」を以て幕府の懲伏を祈られたと云う。
(※「堀家」は越中石黒氏の一族に見られ、「後鳥羽上皇」が起こされた「承久の乱」の時に都へ攻め昇った「越中吉岡庄」の地頭の石黒氏と見られる。石黒氏は「承久の乱」に敗れた為に、全員が越中に帰参できずに各地に散り、途中の越前では帰れなくなった一族が後に越前朝倉氏の家臣等に成っている。)



■南北朝時代には、越中の「石黒重行」が、「後醍醐天皇」の皇子の「宗良親王」を興国三年に越中に御迎えしたと伝わり、「後醍醐天皇」の庄園の「吉岡庄」に在った石黒氏の居城の「赤丸浅井城」、「親王屋敷」に入城されて、「木舟城」・「福満城」等の南朝軍を鼓舞されたと云う。)
「承久の乱」で敗れた「石黒重行」は、東北に逃れて、その後、「長谷川」と名を変え尾張国如意郷(※名古屋市西区。近くには佐々成政の生家の「比良城跡」が在る。)に「如意城」を造り、代々、織田家、豊臣家、徳川家、前田家、池田家等の各地の武将に仕官して、或は「石黒氏」として、或は「長谷川氏」として全国に名を遺している。





■後醍醐天皇は空海が唐から持ち帰られた「東寺の重宝」の「袈裟」を身に付け、冠には「赤丸=太陽」(※真言宗では大日如来)をつけた異様な姿で、真言宗立川流の秘法を以て、足利氏の懲伏を自ら行われた「異形の天皇」と言われる。「越中吉岡庄」は後白河上皇以来、後鳥羽上皇、後醍醐天皇等の天皇家庄園で在ったが、これ等の歴代天皇は「天皇親政」を目指されたものの、その時の幕府により島流しの憂き目に会って涙を流された。明治政府は教科書制定の必要性から「南朝を正統とする議決」を行い、「天皇親政」を実現する事を目指した。










■1911年(明治44年)1月19日付の読売新聞社説は「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、天下の失態之より大なる莫かるべし。何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」「日本帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は知識徳行の優劣より先づ国民的情操、即ち大義名分の明否如何に在り。今日の多く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては特に緊要重大にして欠くべからず」と主張して天皇の位置づけを主張して「南北朝正閏問題」に火が付けられた。

【南北朝正閏問題】
政府と対立する姿勢を鮮明にした犬養毅率いる野党の立憲国民党がこの問題を利用して第2次桂内閣の糾弾・打倒を図った為、南北朝のどちらの皇統が正統であるかを巡る帝国議会での政治論争にまで発展した。1911年(明治44年)2月には衆議院議員の藤澤元造がこの問題を追求する質問主意書を提出。藤澤は議員辞職に追い込まれ、政府は野党の懐柔工作に失敗して窮地に追い込まれる。桂の後見役である元老・山縣有朋が南朝正統論の立場で動いた為、政府は野党や世論に押される形で教科書改訂を約束し、教科書執筆責任者である喜田貞吉を休職処分とし、最終的には水戸光國の『大日本史』の「南朝正統論」の記述を根拠に、明治天皇の裁断で三種の神器を所有していた南朝が正統であるとして、南北朝時代は南朝が吉野にあった事に因んで「吉野朝時代」と呼ばれる事に成った。帝国議会では後醍醐天皇所縁の「賀名生行在所」の保存も議決され、教科書表示も「南朝正統論」で記述されたが、その後も一部の学者は「吉野朝」の表記に対して抗議して南北朝正閏問題は帝国議会で議論されている。(※「帝国議会議事録」,「Wikipedia」)






🔴🌸 【日の丸 】と【菊花紋章 】 の始まり ⇒天皇家庄園「越中吉岡庄」に残る「日本文化のルーツ」!!

2021-04-11 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸
■富山県高岡市福岡町赤丸周辺は平安時代の後白河上皇・後鳥羽上皇から南北朝時代の後醍醐天皇の時代迄続いた皇室庄園「越中吉岡庄」と呼ばれ、その中心には「赤丸浅井城」、「川人山鞍馬」、「延喜式内社赤丸浅井神社」が在った。(※室町時代からは「五位庄」になっている。)




■「両部神道 延喜式内社赤丸浅井神社」の「古い社殿」と「両部鳥居」











■神仏を併せて信仰した「両部神道」の「赤丸浅井神社」には、別当寺「川人山鞍馬寺」が併設され、この寺は門跡寺院「聖護院派」の寺院で在った。

■「両部鳥居」は本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)が在り、その笠木の上にも屋根がある鳥居。「両部」とは密教の金胎両部(金剛界・胎蔵界)を云い、神仏習合で在った。「四脚鳥居」、「稚児柱鳥居」、「権現鳥居」、「枠指鳥居」等とも呼ばれた。明治に入り両部神道が廃止された為、「赤丸浅井神社」に奉仕していた山伏「西宝院」は還俗して「川人他治馬」と名乗った。鳥居もこの時に神道の鳥居に建て変えられ、敷地内に在った「西宝院」の建物の拝殿が現在の神社拝殿として移設されて一部は新築され、旧の社殿は高岡市羽広の「諏訪社」の社殿として移設され現在も使用されている。この建物にも赤丸浅井神社と同じく天皇家の「十六菊菊花紋」が刻まれており、この紋は「越中吉岡庄」を所領とされた「後鳥羽院」が衣装他の全てに付けられた紋で在る。この紋は現在、天皇家の紋として、又、パスポート等にも使用されて「国章」として使用されている。
山伏には「本山派聖護院派」と「当山派」の二流が在り、山伏の衣装も異なっており、歌舞伎等に見られる山伏は本山派の衣装で在る。「本山派」は「三井寺」が検校ケンギョウを勤めていたが、「後白河上皇」は比叡山山伏を牽制する為に三井寺で出家され、本山派の支援者で在った為、比叡山山伏は度々、神輿を担いで朝廷に「強訴」をして強迫した。平清盛はこれに対して比叡山で出家して比叡山山伏を引き入れて安芸の宮島を建立した。宮島の鳥居もこの「両部鳥居」で在る。



■南北朝時代の南朝の天皇「後醍醐天皇」は、冠に「大日如来」の「赤丸」を付けた異様な姿が遺されており、足利尊氏との戦いでは「赤丸の御旗」を旗標として使用されたと伝わる。
越中吉岡庄領主の「後醍醐天皇」は冠に日輪を付けて、錦の御旗の金の丸を「赤丸」の血の色に染めて、倒幕の旗標とされた。「赤丸村」には、あちこちに天皇家庄園「越中吉岡庄」の時代の面影が遺されている。









■現在高岡市関町に在る「総持寺」は「越中吉岡庄」の赤丸村から動いた。


「総持寺」の「千手観音像」の胎内に記載される文字の中に「金剛位理卿 本願聖人」として「後鳥羽上皇」の法名が記載されており、この千手観音像は「承久の乱」で隠岐島に流された「後鳥羽上皇」の祈願仏である事が分かる。




■【延喜式内社赤丸浅井神社】は歴代の天皇の皇子が門跡として入られた「門跡寺院聖護院派修験道」




🔴●富山県の『後白河上皇』の庄園「越中吉岡庄」▶▶南北朝時代の『後醍醐天皇』の治世迄続いた皇室庄園の記録。

2021-04-11 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸








■『延喜式内社赤丸浅井神社』を郷社として栄えた『越中吉岡庄』は『藤原摂関家長者藤原頼長』の庄園で在ったが、「保元の乱」で平清盛、源義朝の連合軍に敗れて、『崇徳上皇』は讃岐に流され、『藤原頼長』は首に矢を受けて死亡した。その後、『越中吉岡庄』は『後白河上皇』の「後院領」と呼ばれた庄園に成り、その後、後鳥羽上皇以降も後醍醐天皇迄、皇室庄園として伝領した。

・「藤原摂関家長者藤原頼長」・「後白河上皇」~大覚寺統後醍醐天皇迄伝来した「越中吉岡庄」


◆【保元の乱】で「崇徳上皇」と「藤原頼長」は「後白河上皇」軍の平清盛、源義家等に討伐されて、「崇徳院」は讃岐に流され、「藤原頼長」は首に矢を受けて死亡した。





🔻「人車記」(※別名「兵範記」)(※「陽明文庫陰影版」)、「東京文理科大学所蔵版 兵範記」、「東京大学所蔵版 保元記」には「保元の乱」の詳細記録が遺されており、その中には「越中一処(所) 吉岡庄」と記載されている。

■「兵範記」(※東京文理科大学所蔵 活字本)






■『人車記』(※別名)
『陽明文庫』は、京都市右京区宇多野上ノ谷町にある歴史資料保存施設。
公家の名門で「五摂家」の筆頭である近衛家伝来の古文書。以下はその撮影されたもの。










■『保元記』(※「保元の乱」を記したもの。「東京帝国大学蔵版」)







■「人車記」
≪※近衛家本の陰影本、兵武卿「平信範」(1112年~1 187年)の日記、別名「兵範記」≫には、「保元の乱」で敗れた「藤原摂関家長者 藤原頼長」の個人庄園が後白河上皇の「後院領」に編入された事が記載されている。その中には「越中一処」として「吉岡庄(富山県高岡市福岡町赤丸周辺)」や「一青庄ヒトトショウ(石川県能登町)」が記載されている。保元二年三月廿五日の官報告示には、この時に没官された頼長の庄園29庄が掲載され、この告示には「左大史 小槻宿弥」の署名が在る。
「藤原頼長」は藤原氏でも主流を為した「藤原道長」の子孫に当たり、代々、摂政や関白を輩出した藤原一族の「長者」を継いだ一族で、辣腕を奮った「左大臣」として「悪左府頼長」と記載される。「藤原頼長」は兄で在り、養父でもある「藤原忠通」との相続問題や「後白河院」と「崇徳院」の皇位継承を巡る争いから後白河院側から先制攻撃を受けて、首に矢を受けて死亡し、崇徳院は讃岐(四国)に流されて死亡して長く怨霊として朝廷を苦しめたと言う。その為、累代の天皇は崇徳院が祀られた四国の「金比羅宮」に度々、勅使を遣わして都にはその慰霊施設も造っている。
「越中吉岡庄」は「白河天皇」が上賀茂神社の庄園として寄進されて以来、著名な神社や皇室の庄園として続き、室町時代には三代将軍足利義満が相国寺(※「鹿苑寺金閣」)に寄進し、その後も歴代足利将軍が足利家菩提寺の「等持院」、「等持院」の庄園として寄進している。『越中吉岡庄』は長く、時の最高権力者や京都の『上賀茂社』、『下鴨社』等の有名な寺社の庄園として続き、その為、『越中吉岡庄』と、南北朝末期から『五位庄』となったこの庄園には時の権力者により「都の雅を写され」と伝わる様に『清水寺』、『鞍馬寺』、『上賀茂社』、『下鴨社』、『愛宕山』、『熊野社』、『貴船社』等の著名な寺社が多く勘請され、特に後醍醐天皇の皇子宗良親王が比叡山座主、妙法院院主を勤められた関係から『極楽寺』や『七の社』をこの庄園に勘請されたと云う。『赤丸村』は後醍醐天皇の軍旗の『赤丸の御旗』に因み、『南朝の牙城』として長く続き、高岡市に在る「総持寺」(※元赤丸村)には南朝の天皇行在所(※皇居)と成った『河内金剛寺』から『後鳥羽上皇所縁の黄金の千手観音像』が贈られている。その遺跡も上杉謙信、前田利家に占領された時にうち壊され、焼かれて、今は『赤丸浅井神社』が残るのみに成っている。

🌸🏯 「後醍醐天皇」の庄園「越中吉岡庄」の「赤丸浅井城」と「宗良親王」⇒南朝の牙城「越中吉岡庄」(※南北朝末期から五位庄)の「赤丸村」!!

2021-04-11 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸



「後醍醐天皇肖像」






●南朝の「後醍醐天皇」の第八皇子「宗良親王」は興国三年に越中国に入られて、「福光城」、「木舟城」、「赤丸浅井城」を巡行され、南朝軍を鼓舞されたと云う。
⇒昭和十三年、南北朝時代の後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」研究についての第一人者「川田順氏」は「宗良親王」を著された。川田氏は「宗良親王」が著された「李花集」について「吉野朝の哀歌」を発刊されて、その詳細を解説された。





■「赤丸城ケ平山」は「宗良親王」が名付けられたと伝わり、この山には「親王屋敷跡」と伝わる場所も残っている。
「赤丸浅井城」は「越中石黒氏の居城」で在ったと云われ、「後醍醐天皇」の庄園「越中吉岡庄」を守る城で在り、「延喜式内社赤丸浅井神社」はその鎮守社で在ったと云う。「木曽義仲」が守山から吉岡庄を迂回して「般若野庄」を通過して「倶利伽羅山」(※「利波山】)で戦った「治承・寿永の源平合戦」の頃には、木舟城の「石黒光弘」の父の「石黒光景」の居城で在ったと云われ、南北朝の時には「石黒重行」が「宗良親王」を御迎えし、「本間」・「柴田」・「荒木」等の越中の諸将が従っていたと云う。


「後醍醐天皇」が使用された「赤丸の御旗」









▼南北朝時代末期には「下鴨神社」の庄園と成った「越中吉岡庄」


▼室町時代には足利義満直轄地として「相国寺」(※金閣寺)の庄園と成った。


💠🔹『甲越軍記』に見る「上杉謙信の越中侵攻」!! ⇒上杉謙信も恐れた越中の諸将「守山城 神保氏張」、「松倉城 椎名泰種(胤)」。

2021-04-11 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸













■上杉謙信は天文十七年八月二十一日 越後の春日山城を出発して越中攻略に向かった。天文十一年に越中を攻めた時に長尾信濃守が討ち死にした為に今回はその弔い合戦で在った。越中には能登国守護畠山義則の配下の神保安藝守氏張、神保左京進良衡、椎名肥前守泰種、椎名甚左衛門尉、土肥大膳亮、唐人兵庫、松岡長門守、江浪五郎、遊佐土屋等の越中諸将が四方から取り囲んで全滅させてやると示し合わせて籠城して待ち構えている。一方、越後長尾勢は、直江大和守實綱を先頭に千坂対馬守憲清、大崎筑前守高清、大川駿河守、鮎川摂津守は既に越中国境迄 出張り 陣揃えを待っている。その時、長尾側の間者が情勢を伝えて来たので軍議が開かれた。軍議で直江大和守等が申す所は、敵の越中諸将でも「神保」、「椎名」こそ大敵であり、この両城に全軍で波状攻撃を繰り返せば敵は恐れをなして戦わずして降伏するだろうと云う。この時に長尾景虎は頭を振って、「それはダメだ。仮に少人数でも四方から取り囲んで攻められれば当方も兵を分けて戦わねばならず、この時に本隊はわずか四~五千の兵しか残らない。これでは必死に立ち向かって来る敵を撃つことは無策に近い。これは兵法に云う『大手の小手』と云い、最も忌み嫌う禁じ手だ。ここは恐れを為して逃げ帰ったと見せ掛けて敵が安心して増長するのを見計らって一挙に攻めれば簡単に敵を攻略できる」と断じて、九月三日、一戦も戦わずに陣払いをして、家臣五人だけを越中に残して越中の諸将が驕り昂るのを密かに探らせられた。

■天文十八年四月、武田信玄は、越後に予てから放っていた間者から、長尾景虎が越中に向かって近々出陣すると云う情報を聞いて、この間に伊那、木曽を攻略せんとして四月十一日には甲州を発って信州の諏訪に着陣した。この時に信州の村上等は長尾景虎が越中に在って武田信玄を追い払えないと思い、人質を出して武田信玄に屈したと云う。

(※越中松倉城を居城とした椎名氏の祖の「椎名胤明」は、鎌倉時代の執権北条貞時の子で在ったと伝わり、代々魚津市の「越中松倉城」を居城にしたと言う。越中守山城の神保氏張は能登守護畠山家から高岡市の守山城を居城とした桓武平氏の神保氏の養子になった人物で、その実の弟は後に上杉謙信の養子になっている。)