赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!

「勧進帳」の真実、富山県高岡市福岡町赤丸村の消された歴史⇒「越中吉岡庄」から「五位庄」へ

🎌🔴 後醍醐天皇の庄園「越中吉岡庄」赤丸村---南朝の後醍醐天皇の旗標「赤丸の御旗」! !

2021-04-12 | 旧町名 富山県西礪波郡福岡町赤丸

「赤丸の御旗」のルーツ






■越中の「赤丸村」の起源として言い伝えられてきた伝承では、
[1] 「元正天皇養老二年に越の大徳泰澄大師が赤丸浅井神社の南に草庵を結び、そこを毘沙門天の両部習合の霊場の場とし、そこで浅井神社の地主の神として天津日嗣を表す日の丸を祀り、天皇の宝祚の無窮たらん事を祈って大般若経を誦した。その時、全ての器物に赤い丸の印をつけたのでその事から赤丸と名付けられたと云う。

[2] 赤丸の「あか」は「亜伽」であり、昔、ここは小矢部、庄川が流れ込んで水郷を作っていた。丸は水の流れが丸かったから赤丸になった。」という二つの伝承がある。この場合は、仏に捧げる水の事を「閼伽の水」と云うから仏教用語から来ているのかも知れない。しかし、古文書には「赤丸」という地名は無く、「利波」「礪波評」「御いしょう」等の記載しか見当たらない。

■元々、「赤丸の旗」は古代に住んでいた蝦夷が大和朝廷と戦う際に使用した旗標を起源とし、大和朝廷に対する反逆の標とされていた。赤丸浅井神社周辺には「谷内」ヤチ「寺谷内」テラヤチと呼ばれる場所が有り、ヤチという言葉は元々アイヌが使っていた言葉と云われる。東海地方には赤ちゃんの虫封じの行事として神社で赤ちゃんの額に赤い丸印を書く「赤丸の神事」が今も盛んに行われており、「赤丸印」は何かを懲伏する際に用いられた印で在ったかも知れない。赤丸浅井神社には大正年間迄、「勅使桜」という巨木が左右に2本有ったが、これは一条天皇(986~1010年)が蝗害(イナゴの害)除去祈願として勅使川原左京を参向させられ、勅使御手植えの桜として近年まで有ったが、今は枯れて無くなった。天皇が勅使を遣わした程の「霊力の有る神」として当時は認識されていたものと見える。

■後鳥羽上皇は官軍の印として初めて「承久の乱」の時に「官軍の旗」を与えたと云う。後鳥羽上皇は菊をこよなく愛し、全ての持ち物に菊紋を入れられた。現在、皇室の印とされている「十六菊紋」はこの時から使い始められたとされる。「赤地に金の菊花紋」の天皇旗はここがルーツの様で、現在も皇室の紋、パスポートの紋は「金色の十六菊紋」が使用されている。
(※「赤丸浅井神社」の社殿にも皇室の紋の「十六菊紋」が各所に彫り込まれている。)

■後醍醐天皇は追われて吉野に逃れた時、初めて「白地の布に赤丸」を書いた日の丸の旗を賀名生の地元の土豪に与えたと云う。以来、南朝の旗標は従来の「赤地に金の丸」では無く、「金地に赤丸」「白地に赤丸」が用いられたようだ。日本各地に転戦された後醍醐天皇の皇子達も、この「金地に赤丸」の軍扇を遺されている。
後醍醐天皇は「異形の王」と云われ、空海が唐から帰った時に着ていたと云う重宝の「法衣」を身に着け、冠には赤い玉を載せて、自らは、真言宗立川流の師の文観から授かったと云う秘法を駆使して幕府の調伏の修法を行ったと云う。この時に天皇が手に持たれていたのは「五鈷杵」と言われる最も霊力が強いとされる法具で、割って中に「仏舎利」を納める様になったものだ。
吉岡庄赤丸村は、南朝の支援者の石黒氏の居城「浅井城」が有り、天皇家縁の「浅井神社」が鎮座しており、赤丸の城が平には、後醍醐天皇の第八皇子の宗良親王が在城されたと伝わりその親王屋敷跡と云われる場所も残る。宗良親王は各地を転戦されたが、従軍武将の柴田、柴、本間等の諸将は南朝の支援の為にこの地に残ったと云う。此の時、後白河以来の庄園の「吉岡庄」を、宗良親王が「五位庄」に改められたと「宝永誌」に伝えられている。「五位庄」の中でも、特に「赤丸地区」は南朝の牙城とも云われる場所で、石川県境の石動と伏木港の間に位置し、山越えで能登の七尾や羽咋にも間道が通じている戦闘上の要衝でも有る。又、近くには能登と氷見の間の「石動山」が有り、ここも後白河上皇以来の天皇直轄領で有り、数千人の山伏が住んでいた様だ。後醍醐天皇は足利幕府と戦う時に、楠正成等の当時、悪党と云われた武将や、山伏、神人、等のアウトローを味方に戦ったと云われる。当地の「赤丸浅井神社」は山伏の「聖護院派」で有り、この点からも守備、攻撃の要衝だったと思われる。これ等の時代背景から、現在の赤丸村は「南朝の後醍醐天皇に従う村」として赤丸村と名付けられたとする方が筋が通る。








赤丸浅井神社の社殿には皇室の「十六菊紋」がついている。






宮中祭祀に使用され、現在は伊勢神宮内宮、外宮の装束、御神宝として20年毎に新調される「菅の翳サシハ」⇒平成25年の式年遷宮では、富山県福岡町の「無形重要文化財 菅笠」生産関係者がその材料の「菅」を生産・奉納して、大阪市東成区深江の菅笠生産組合が縫製して、伊勢神宮の「御神宝」として奉納された。



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