「後醍醐天皇肖像」
●南朝の「後醍醐天皇」の第八皇子「宗良親王」は興国三年に越中国に入られて、「福光城」、「木舟城」、「赤丸浅井城」を巡行され、南朝軍を鼓舞されたと云う。
⇒昭和十三年、南北朝時代の後醍醐天皇の第八皇子「宗良親王」研究についての第一人者「川田順氏」は「宗良親王」を著された。川田氏は「宗良親王」が著された「李花集」について「吉野朝の哀歌」を発刊されて、その詳細を解説された。
■「赤丸城ケ平山」は「宗良親王」が名付けられたと伝わり、この山には「親王屋敷跡」と伝わる場所も残っている。
「赤丸浅井城」は「越中石黒氏の居城」で在ったと云われ、「後醍醐天皇」の庄園「越中吉岡庄」を守る城で在り、「延喜式内社赤丸浅井神社」はその鎮守社で在ったと云う。「木曽義仲」が守山から吉岡庄を迂回して「般若野庄」を通過して「倶利伽羅山」(※「利波山】)で戦った「治承・寿永の源平合戦」の頃には、木舟城の「石黒光弘」の父の「石黒光景」の居城で在ったと云われ、南北朝の時には「石黒重行」が「宗良親王」を御迎えし、「本間」・「柴田」・「荒木」等の越中の諸将が従っていたと云う。
「後醍醐天皇」が使用された「赤丸の御旗」
▼南北朝時代末期には「下鴨神社」の庄園と成った「越中吉岡庄」
▼室町時代には足利義満直轄地として「相国寺」(※金閣寺)の庄園と成った。