まど

細く開いた窓を覗いてみると、そこにはNikonD70Sを前に困惑している女がひとり・・・

旅が始まります。

2007-10-27 23:09:17 | Weblog

平塚市美術館の「絵で読む『宮沢賢治展』~賢治と絵本原画世界」展、
「雨ニモマケズ」手帳が展示されるというので、行ってきました。

 宮沢賢治に対しては全くただのミーハーで、展覧会があればこうして出かけてゆくし、講演会があれば聞きに行ったりもするのですが、なにせ、今回の展示の第1部~「宮沢賢治」という現象~にもタイトルとして取り上げられているように、宮沢賢治という存在自体が稀有なる現象であるので、わたしなどにその現象の意味など判ろうはずもありません。
 ただ、自分に厳しく、生涯悲しみを湛えながらも弛まず歩き続けたその人生には、子どもの頃から尊敬の念を抱いていました。

父親が本好きで、時々児童書をお土産に買ってきてくれたのですが、そのうちの一冊が「銀河鉄道の夜」でした。
「銀河鉄道の夜」の他、何篇かの童話が入って一冊になっているものでしたが、わたしが熱心に繰り返し読んだのは、あとがきにあたる宮沢賢治の生涯を述べた部分、そして「雨ニモマケズ」でした。
まだ子どもで人生の経験の少ない私でも「雨ニモマケズ」の文章の語る崇高な精神だけは感じることが出来たのだと思います。
小さく載った見開きの手帳の写真、それに何度見入ったでしょう。 
その手帳を、本物を、目の前で見ることが出来るのです。

手帳はケースに入れられ、見やすいようにふたつの照明に照らされていました。
この事務的な展示がかえって良かったように思います。
これがビロードの布か何かに包まれるようにされて、暗くした部屋でスポット照明でも当てられていたら、興ざめだったかもしれません。

やっと、お会いしました。そして、あっという間にさようなら、です。
現物を見た喜びは確かにありました。
ただの手帳ではなく、賢治の精神のよりしろとなっているものなのだ、という実感もありました。
でも、どこかで再び展示があっても、私はもう一番の鑑賞の目的にしなくても良いと思います。
これが、この世のどこかにあってくれればそれで良い。
もっと言えば、失われてしまっても、かつてこの世にあったという事実だけでも良いのです。
賢治自身の存在も、それと同じだ。
私の、賢治本体に対する執着は昇華していったように思います。

思えば、宮沢賢治の存在という現象に囚われすぎていたかもしれません。
なにせ、ただのミーハーですから。
そして、賢治の残した詩や文章の難解なことがその世界に深く踏み入ることを阻んできたかもしれません。
でも、彼には「わらし子こさえるかわり書いたのだもや」との思いで産み出した童話があります。
遠い昔、賢治と同じく法華経の信者であった祖母に「お経って、何が書いてあるのかさっぱりわからないし、それを読んでどうなるの」と聞いたことがありました。
祖母は「自分がわからなくても、自分の魂がちゃんとわかっている」と言っていました。
賢治の童話はそれと同じだろう、と思います。
子供の心を以て読めば、いつしか賢治の言うような、わたしにとっての「すきとほった、ほんたうのたべもの」になるかもしれません。