さて、「対決-巨匠たちの日本美術」である。
先日「雑感ノート」のmakoさんのhttp://totemokimagure.cocolog-nifty.com/zakkan/2008/07/post_3d2e.htmlを読み、どうしても行かねばならぬと思っていたのだが、行ってみたら混み混みである。休日の午後に行くべき展覧会ではなかった。
折悪しく(?)この日、日曜美術館でやったばっかりで、混むのは予想していたのだが。
加えて、朝5時起きで朝顔市、帰宅して家事、再び朝顔市、入谷から炎天下歩いて東博である。もうヘロヘロなのだった。
だが、対決のジャッジは下さねばならぬ。
・・・・・誰に頼まれたわけでもないのだが。アホだね。
と、いうわけでかなりいい加減なジャッジは下されたので・・・、ああ、下せないものもあった(だって、よくわかんないんだもーん)ので、勝者の出た試合だけにします。勝者が太字となってます。ついでに時々「ですます」調が混在してます。だって、頭もヘロヘロですから。(笑)
運慶VS快慶・・・・快慶、流石です。プリーツ取らせたら快慶か、三宅一生か、ってなもんで。でもかなり、照明の力に助けられてるのではないだろうか。暗いお堂の中で見たら運慶のリアリズムかも、と思ったので。
雪舟VS雪村・・・・すみません、もともと雪舟、どこが良いのかわからない。(←暴言!)
永徳VS等伯・・・・会場で、他の絵画はガラスにおでこをくっつけて見ているのに、等伯の松林図だけ、みんなまず遠くから見て、改めて近づき、また離れて見るというのをやっていて面白かった。わたしも、そうした。心の中を、時雨が通った。
長次郎VS光悦・・・・断然長次郎が好きだ。宇宙を内包している。ような気がする。だが、光悦の発想と勇気には脱帽だ。そして、自信たっぷりなところも良いが、今回は饒舌すぎて、負け。
仁清VS乾山・・・・若い頃は仁清が好きだった。だって、仁清って「お姫様」っぽいから。でも年とったら物足りなくなった。そして今回は、梅の香合、これ一発で乾山の勝ち。
円空VS木喰・・・・木喰はわが新潟県に深くかかわりがあるようなのだが、作風が好かないのよう。でも、よく知らないけど、旅のお坊さんが各地に残した仏像に勝ち負けはないから、この対決自体なしってことにしたい。
若冲VS蕭白・・・・仙人掌群鶏図、これ出されたら相手はつらいです。目を奪われますから。特に疲れているとインパクトのあるもの勝ち、で、私疲れてましたし、もともと若冲好きですし。
応挙VS芦雪・・・・困りました。もともと芦雪の虎の襖、一度は見てみたいと願っていたので。でも、応挙の虎も生き生きとして魅力的だった。どっちか家に飾るといったら(どんな家なんだ)芦雪の虎のほうが飽きがこないと思ったので芦雪の勝ち。
歌麿VS写楽・・・・美人画も役者絵もあまり好きじゃないんですが、インパクトあるので写楽の勝ち。
鉄斎VS大観・・・・いきなり飛び道具がでたようなもんです。ズギュンと打ち抜かれて大観の勝ち。
ああ、いい加減ですね。すぐ結果が出たのは陶芸の2点のみ。
陶芸に関しては、若いころから見てきたので好みがはっきりしています。
絵ははっきり言ってよくわかんない。
ほんとに疲れて途中、椅子の前で「座りたい。ばあさん、私のほうがきっと疲れてる。代わってくれい」と念じたくらいだったのです。
でも、楽しかった。
今回の企画は賛否両論だと思うけど、私は十分楽しめました。
このあと、私は連絡通路を通って本館へ。
六波羅蜜寺の仏像の展示をみるためです。
途中、山口晃さんの24人の巨匠の肉筆絵が展示してあったので寄りました。
快慶には、笑った。これじゃ、ハタ坊のハタだよ。うれしい。
さて、精神的にも肉体的にも疲れ切っていたのですが・・・・・・・、
六波羅蜜寺の地蔵菩薩を見て砂漠でこんこんと湧き出る泉に出会ったような気持になった。
なんという静謐、清浄なるお姿。この仏像の前にたって、ささくれ立った心が静められない人はいないだろう。
山川草木悉皆仏性、どんなものにも仏性が宿ると信じているのだが、やはり具現化されたものの力は大きい。
仏像鑑賞にハマりそうです。
良い一日であった。
朝顔市行って写真撮って、良い展覧会みて、仏像の偉大さを知る。
このあと私は家へ帰り、夕飯を作ったのだった。私は、私を褒めてやりたい。(笑)
土曜日に梅雨が明け、今年の朝顔市最終日は晴れとなった。
例年は梅雨の最中なのだが、今年はサミットの関係で延期になっていたのだ。
朝顔は江戸時代に、身分を問わず改良が流行った時代があって、その種類は星の数ほどあるようだが、このところ、「団十郎」というほんの少し小豆色がかった品種がもてはやされているようだ。
昨年、その写真を見て、気品あるその色に魅かれた私は、絶対に買うぞと思い、出陣したのだった。
朝顔は大抵4種類の色の苗の寄せ植えとなっている
ところが、「これ、団十郎、入っていますよね?」とわざわざ確認して買ったのに、夏中待っても団十郎は咲かなかった。つまり、団十郎が入ったセットではなかったのだ。
なんだよ~!!
これが、「団十郎」 良いですねえ、渋いですねえ。
さて、私には昨年団十郎の他にゲットしなかったものが、もうひとつあった。
団十郎にも負けぬ美しさの朝顔市の華の写真である。
「し、写真撮らせて」と頼んでいながら手ブレして失敗したのだった。
http://blog.goo.ne.jp/mado915/d/20070710
今年は絶対成功するぞ!
昨年よりひとつ齢をとって、その分ずうずうしくなっている私は、昨年撮らせてもらって失敗したことを話し、今年もお願いと頼んだのであった。
ところが・・・・
朝顔市に行ったことのある方ならご存じのことと思うが、早い時間は歩道側しか通れないので(午後?は歩行者天国になる)、上はブルーシートがかかり、道路側はよしず張で暗くなっているし、朝のラッシュアワーのような人通りで適当な距離をおいて撮るなんてことは出来やしないのである。
それに、いくら撮影の許しをもらっているとはいえ、ずっとレンズに狙われているのは気持ちの良いものではない。商売の邪魔になっては良くない。
あ、言い訳ですね、ハイ。
結局、今年も「どうかうまく撮れているように」と願いつつ、朝顔を2鉢いただいて(もちろん、団十郎入りのやつ)、おいとましたのであった。
家に帰ってみてみたら、やはり失敗だった。
「うまく撮れていたら来年持ってくるね」と約束したのに・・・。
よし!もう一回行こう。
ついでに展覧会も1本見れば一石二鳥である。
洗濯と掃除を終えて、再び出陣だ。
今度は歩行者天国となった車道側から距離をとっての撮影だ。
光量は十分。あとは、よい表情をうまく捉えることが出来るかが問題だが。
いかがでしょう。
美人でしょう。って、私が自慢しても仕方ないか。
でも、美人でしょう。朝顔市の華、ですから。
うーん、バックがよろしくない。
よし、来年も、よろしくね。(笑)
さて、このあと私は歩いて東博へ。
袴線橋を渡ると東博前の横断歩道が見える。
そこを歩く人の多さに思わず「ウゲッ」となった。
今日の日曜美術館でやったしな~。
私は、覚悟を決めた。(次回、「対決-巨匠たちの日本美術」 につづく)
今年のほおずき市は会社を退けてからの出陣となった+。
ほおずき市はアマチュアカメラマンの数がとても多く、すれ違う人みんな一眼レフのデジカメをぶら下げているようで、非常に、気恥ずかしい・・・。
何が恥かしいかって、みんな「なんか拾えるんちゃうか」という顔をしていて、すなわちそれは鏡になっているから、だ。
昨年、数十年ぶりに再会した友達の店を探す。
あっ、いた、いた、と思ったら妹さんだった。
ちゃんと見るとちっとも似ていないのだが、血が繋がっているというのは不思議なものだ。
「お姉ちゃんは今日明日で初孫が生まれるので、お休みなんですよー。」
初孫!!!
同級生に初孫!ついに、きたか!!!
彼女は高校を卒業してすぐ嫁にいったので、孫が出来るのも早いのだが、それにしても孫かあぁぁぁぁ・・・・。
気付いてみれば、そんな齢なのだ。
あっという間に年とっちゃったなー。何にもしないうちにここまで来ちゃったよ。
感慨に、私の眼も潤む・・・・・。
アセチレンランプの光が滲む・・・・。
って、そうじゃなくって瞬間、風が吹いたので、ブレたわけです。
写真としては王道じゃないけど、結構こういうのは好きなので出しました。
赤いほおずきにアセチレンランプの光はとてもよく合う。
昨年は昼に来たので見られなかった美しさだった。
朝顔市は早朝、ほおずき市は、夕闇迫ってからがよろしいようで。
但し、カメラぶら下げてゆくと、気恥かしいわよお~。
先日、終了してしまったが、「立原道造記念館」で
「立原道造の世界 絵画・建築設計図を中心として(前期)」が展示されていた。
立原が東京帝国大学で建築を学んでいたのは昭和のはじめ。
その頃の大学(しかも帝大)ではどんな授業をしていたのか、ほんの一部ではあるが知ることが出来て面白い。
このポスターの絵(上手くてびっくり!遠くから見たときは写真かと思った)は様式の勉強のため写真を模写したものだが、当時はこんな課題が出されていたのだなあ。
今ならスライド見せて、この様式の特徴は・・、とサラッと述べておしまいじゃないだろうか。
天下の帝大もまだまだ西洋の建築の模倣を学ぶ時代で、のんびりしていて楽しいなあ、と思いながら展示を辿ってゆく。
立原が尋常小学校5年のときの歴史のテストが展示されている。
歴史 第五学年 男組(男組って!) 立原道造
問五 あなたは源氏と平氏とどっちが好きですか。 (それは、)なぜ。
(1)好きな方・・・{ 平氏 } なぜですか・・・{戦争にも強いし、しづかにやさしいから。}
(2)嫌ひな方・・・{ 源氏 } なぜですか・・・{戦争には強いけれど、らんぼうだから}
私も平氏が好きだよ~!立原少年!
それにしても、どっちが好きでも、何故でも、点数が貰える設問だね。
わら半紙にガリ版刷りの、手作りの問題はとてもあたたかい。
今日びの業者テストではお目にかかれないぞ。
でも、争いごとは嫌いだろうと思っていた立原少年の「戦争に強い」ことが美徳であるという認識にはびっくりだ。
さすが、軍人さんが存在する時代の男の子だなあと思った。
教育はのんびりしているが、日清・日露戦争があり、さらに中国へ進駐するという時代・・・・、これはこれで厳しい。
~ちょっと~
私、日中戦争のことを書くのに(上記、さらに中国へ進駐・・のくだり)、シナ事変と打ってみたのですよ、そしたら「支那」って変換しないのね!
私は祖父母がこの戦争のことを語るとき、「シナ事変」と言っていたので「日中戦争」はいまいちピンときません。
そういえば、この言葉は差別的に使われたことがあるということで、通常使わなくなったと聞いたことがあります。
わたしにとっては「支那」はなんかステキな感じがする言葉なのですが・・・、ちょっと残念です。
いつのまにもう6月が終わってしまった。
私が止まっている間にも、世の中はなにやら良からぬ出来事が起き続けている。
以前、テレビでマイケル・ジョーダン(なっつかし~!)のインタビューを見ていて、「若者にとって一番大切なものは何だと思われますか?」との問いに
「Education!」
と間髪を入れず答えていたのを、とても印象深く覚えている。
当時、若くて(今よりは)経験の積み重ねの足りない私には新鮮な言葉だったのだ。
そうか、人を育てようという気持ちのある正しい教育を施されれば、まず先達とのつながりを得、思索し、研鑽し、自分で糧を得る術を得て、それが生きがいにも繋がってゆくわけだ・・・、と。
秋葉原の彼だって、どこかで道を誤ったのだ。
誰か、彼を正しく導いてくれる人がいればあの日の彼にはならなかったかもしれない。
数学に限っての話なのだが、問題をやり倒していくと、ある日突然いままで全然判らなかったものが、すべて判る瞬間が来るのだそうだ。
私は引き算も嫌いというクチなので、うちのジイサンに聞いたら、「確かにやり倒していたらそういう時が来た」と言ったので本当らしい。
だけど、それって所詮、受験数学でしょう?
あっ、すいません。引き算見ると血圧下がる私にはそんなこと言う資格ないか。
うーん、でも、例えば生物学やりたい人も、数学は必須なので、それをやるわけだ。
膨大な時間を使って、受験のためにひねくれている問題をやる、なんか変じゃないのか?
学校の授業もただひたすら受験のテクニックを教えてくれているようだ。
・・・・・・・って、みんな思っているのだ。思っているけど、私の孫の世代までも、日本はこのやり方を変えないでしょう。
変えないでしょうなんて、誰かが悪いような口調の私だが、私自身もこのやり方に乗っかり、、子ども達にもこのやり方は間違っていると知りつつ、乗せて来たのだ。
受験のための教育。
何のために知識を得るか、問題を提起し、それを解くかというところがスッポ抜けている。
そこを補うものはなんだろう。
もう、親がなんのために勉強するか(考える力を養うか)を説くだけでは太刀打ち出来ないところまできているようだ。
うーん、暗くなってきたぞ!
さすがに脳天気な私もこのところ若者が起こす理解不能な事件の数々に、思わず教育とは・・・なんて考えてしまった。
はじまりは、大体同じ。
最終ゴ~ル!でも、ほんとのゴールじゃありません。
(この時計、遠くからでも何時か判って便利ですね~)←それくらいしかここに縁がないのよ。
今日の私はなかなかひねてる!
明日は教育つながりですがちょっと嬉しくなったことがあったので、それで行きます。
今年は私にとって怒濤の年のようで、祖母が他界し、ここ数年の懸案であった部屋の改修、舅の入退院、夏には妹の手術(これは外科的ものなので、済めば本人はスッキリ、なのだが)とメジロ押しです。
今まだ部屋のことにかかわずらっていて、ちっとも撮影なんて行けないし、そうしているうちに梅雨、それが明けたら灼熱の太陽に苛められる夏がくるわけで、秋までカメラ持ってお出かけなんて出来っこないじゃん!と思い、しばらくブログはお休みしよう、今日こそブログを開いてそう書こう、とズルズルしておりました。
本日、決心して編集画面を開いたら・・・・・、ああ、わたしがサボっている間の訪問数が出ている。
ここ数ヶ月毎日殆ど変わらないその数は、とっても少ないけどとってもありがたい固定の閲覧者の数だろうと思います。なんか、涙でそうになった。
クリックひとつ、とはいえ、自分のことを考えてみれば、少しでも積極的な気持ちがないとしないことなので、かたじけなさに涙こぼるる私なのでした。
やっぱ、細々と続けていこう、改めてそう思いました。
今これを読んで下さっているあなたに感謝、です。
さて、部屋をいじりまして、人生何回目かの、荷物をダンボールにしまいまた出すという作業をやっております。
これをやるときはいらないものを見つけて処分する絶好のチャンスなのですが、私の場合、その処分の筆頭に揚げられるものは、本であります。
今の時代、特別な本以外は再び手に入れることが出来ますから。
世の中には手に入れた本は並べておきたいと言う方あり、本なんか図書館に行けばいいので蔵書がないという方あり、それぞれのポリシーを伺うのも、これまた楽しいものです。
私も出来ることなら全ての本を手元に残しておきたいクチですが、スペースの関係でそうもいかず、制限オーバーになると古本屋に持ち込みます。
そうして数を減らすため売りに行って、そこでつい買って帰って来るというアホなことをやったりしているのですが。
美しい本棚はそれだけでインテリアの目玉になりますね。
ほら、また私を誘うつもりだね~?
今わたしが読んでいるのは、電車の中では大岡昇平の「ながい旅」(本年3月「明日への遺言」というタイトルで映画化されました)、寝るときには上坂冬子の「巣鴨プリズン 13号鉄扉」です。
昨日もちょっと触れた「国宝・薬師寺」展ですが、感じたことをいくつか。
先日NHKBS(だったかな?)にて、特集 「薬師寺」を放送していたのを、用をしながら横目で見ていましたが、はるばる奈良から無事日光・月光菩薩像が到着され、その厳重な養生が解かれたとき、学芸員の方でしょうか、若い女性が思わず合掌されていました。
地球上には偶像崇拝を禁じる宗教もあるようですが、何かにうたれ、自然と手を合わせる、その素直な心こそが信仰だと思うのです。
偶像っていっても、ここまで有難ければ!
そりゃー、言ってしまえばただの金属の塊なんですが、すでに千年以上善き祈りを吸い込んで、科学では割り切れないなにかを醸し出しているのだなあ、形が美しいというだけで人々の心を動かしているのではないのだということを、会場で両菩薩を取り巻く人々の顔を見て感じました。
それにしても、展示方法も良かったです。
東博、昔はほんとうに「はくぶつかーん」という感じで、感情を揺り動かすことを狙うなんて下世話だとでもいうような展示だったのが、近年エンターテイメント精神が芽生えたのでしょうか、展示方法自体を見るのも楽しくなってきました。
今回は特に良かった。赤を多用したのは、奈良という時代の建物を再現したというのもあるでしょうが、こちらの気持ちを知らず知らずのうちに昂ぶらせるという効果も狙っているのでしょう。
聖観音菩薩立像でまず感動、日光・月光菩薩像へすすむスロープを登っているうち心拍数も上昇、そしていきなり両菩薩の全身が現れる、これじゃ血管と心臓の弱い人は危ないぞ~。
そしてまた、像の黒く鈍い輝きに赤が合う~。
皆さん、微熱のあるようなお顔で拝観されていました。
こういう演出には乗らなきゃ損というものです。みなさん純で素直だからこその感動をいただき、両菩薩はさらにパワーアップというわけで、薬師寺展、大成功。
人工の美を満喫して庭園に出ると、ここにも仏性の宿りしものたちが。