見えない鳥の存在: Blog版

Blog: L'oiseau Invisible
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別室の上映会(26) 異邦人 カミュ(2)

2015-05-20 | Bruxellesの原稿

まだまとめて書く準備は整っていないのだが、メモをひとつ残しておく。
私は小説でも、評論でも、参考書でも、雑誌は特に、読んだあとは処分することにしている。本に埋もれるのでなく、スッキリと暮らしたいからである。
なのに、どういうわけか、今日「生きたフランス語会話」というとても古い本を見つけた。1961年2月 雪の日に、長塚隆二、と「はしがき」にあるから、50年以上前の本だ。
その4頁で「街娼婦的英語と大差のないすさまじいフランス語や、アルジェリアの土人的フランス語で甘んじているのは、とんでもない心得違いである」という文章に出会って、仰天した。アルジェリアの土人という言葉が、フランス語の先生の口から、すんなり出てくるような時代だったのだろう。

「異邦人」という物語で、私が一番違和感を感じるのは、作者が被害者の立場を完全に物語から除外していることだ。ムルソーには被害者を悼む気持ちが完全に欠如していて、カミュには被害者に名前を与える神経すらない。行方不明になったサラマノの犬に筆を与える程にも、無残に殺害された被害者に筆を与えていない。
勿論人間生命の尊重もくそも無い。

小説発表は1942年、ノーベル文学賞受賞は1956年、カミュ43歳、戦後最年少受賞で、史上最年少受賞はキプリングだそうだ。時代背景、ノーベル文学賞の性質などが、もくもくと立ち上がってくる気がする。
かつて日本は時代の最先端を、言ってみれば創設期の国連的理念をリードする国だった、その視点を忘れずに思い出し、(順番待ちの本が10冊ほどあるので)今すぐ取りかかるというわけにはいかないが)ゆっくりと原書精読(解釈の助けにもなるので、目の調子の悪い日にはlivre audioを利用する)を開始するつもりだ。
時代を遡っておよそ100年前のその時代の日本人の視点を持って読むつもりだ。
Je suis Charlie」のまやかしの井戸の水も全部汲み出せるかもしれない。



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