見えない鳥の存在: Blog版

Blog: L'oiseau Invisible
blog目的が途中から激変してしまった

まだ入院したくない、けど

2016-05-28 | 死神との綱引き

今日で3週間目。一回目としては最短。家にいても寝てるばかりで、ほとんど何も出来ないけれど、少しでも動ける間に、整理しておきたいことが山ほどあって、ふとつでも、ふたつでもと思って、入院の予約を月曜日に伸ばした。決断に手間取った。次に退院してきた後では、もっとなにもできない状態になるだろうから。
で、PCを開いたのだが、windows 強制upgradeが襲ってきて、あわてて電源を切るという暴挙にでたら、PCが開かなくなった。2日間の延長の意味がなくなってしまう。PCを使った作業や連絡、コンタクトは何もできなくなる。私にはケータイがなく、病院には公衆電話もポストもない。孤島に一人、状態となる。医師も看護士もいて充分お世話をして貰えて、家に一人いるより状況的にははるかに安心なのだけれど。自由意志では何も出来ない。
今回は運よく立ち上がったが、次回電源を入れると、瞬間的に勝手にwindows10のインストールが始まる可能性がある。いろいろ相談したが、下手に抵抗するより、もし強制インストールが勝手に完了していたら、あきらめようと思っている。後ほんの少しの間、メイルや書き込みが出来ればいいだけのことなのだから。それにしても真っ青になった。

腹部の膨張と重みで、腰に負担がかかるようになった。歩行や呼吸や、体重が、死に近づいた重病人風になってきた。精神力ではもはや誤魔化すことはできない、誰が見ても、普通ではないのは丸分かり。これで外に用事に行くのは辛いが、少しでも口にものを入れることは重要だし、通販のお薬の支払いや、さまざまな請求書が毎日来て、コンビニや郵便局にはせっせと出向かなければならない。よろよろでも、まだ少しでも歩ける間が華だ。

2016年5月30日
いまからゆっくり入院準備をして、お昼から入院です。
ギリギリで、入院に付き添ってくれる人が現われて
(たまたまその人の時間の都合がついて)
ラッキーです。いくら気力を振り絞っても
もう一人ではタクシーに乗れません。


緊急入院 腹膜播種 腹水

2016-05-06 | 死神との綱引き

腹膜播種の腹水は1月頃からたまり始めていたのだけれど、4月になった頃から急速に悪化していった。
ようやく予約の日を迎えることが出来て、今日行ってきた。どこか引き受けてくれるところを求めて紹介状を貰うために4時に出かけた。
「あなたは確実に死にます。何をしてもこれ以上よくなることはありません。この病院とも、かかわりはこれで最後です」といわれても、もう初めからさんざん言われてきているので、がっくりくることもなかった。希望は紹介状を書いてもらうこと。そして腹水を抜いてもらうこと。後のことはそれから考えようという気持ちだった。内診エコーの結果、月曜日といわれた紹介状を今日書いてもらえることになって、そして明日の10時半の緊急入院が決まった。その間もうPCには触れない。
入院先は阿倍野区天王寺町北2-31-4の奥野病院。Bruxellesは本名でそこに入院します。身体が衰弱しているので多分1週間から10日くらいは入院するのではないかと。ここまで来たら運を天に委ねて、楽天的な未来の先取りをしようと思っています。何らかの事故がない限り、ほんの少し死の先送りが可能になりました。抗がん剤の再開やハイパーサーミヤもある程度視野に入れた、今後の対策も入院中に考えたいと思っています。

追記:2016年5月15日
まだ入院中なのですが、外出許可を貰って数時間の帰宅中です。
5月7日の土曜日、入院即、カートの治療をしていただきました。
カートの治療をしてもらえないままなくなる人も多いので、おかげさまで少しですが延命することができました。
すでに腹水は溜まり始めているので、次の入院までどれくらい日数が稼げるかは分かりません。いずれにせよ入退院の頻度が増え間隔が次第に狭まるのは避けられません。
衰弱も既に激しく、食欲も落ちていますが、とにかく後は、死に向かう速度を極力落とすにはどうするか、を考え、可能と判断できれば
実行するつもりです。
終日ベッドで寝ていると、もはやないに等しい筋肉がさらに萎え、結構高速で認知機能も鈍るようですので、衰弱しているからといって寝ているわけには行きません。
かといって入院中に情報収集が出来るわけもなく。
そんな中で、いま思案範囲に入れているのが、以下の二つの治療です。
Insulin Potecilalized Therapy
Metronomic Chemotherapy
どちらも保険が利かず、危険も伴い成功例もごく数例しかありませんが、溺れるものは藁をも掴む
の大博打を打つかどうか、慎重に考えてみたいと思っています。時間切れが先に来てもその時はあきらめるとして、ともかく慎重に。
いろんな先進療法や民間療法を検討しましたが、がん細胞を一瞬でもビビらせることが確実に出来るのは、抗がん剤以外にない、と知りました。しかしそれは同時に発ガンやがん細胞の増殖を促す。
この矛盾を解決できない限り、末期がん患者にとっては、どんながん治療も死への旅立ちへのはなむけ、にしかならないと思います。

2016年5月18日
昨日退院してきました。胃の辺りが特にはれていて
不快感が強く、直接腸で吸収できる栄養ドリンクをたくさん
いただいて帰りました。腹水が胃を押し上げて圧迫しているせいで
胃の機能が落ちている、と看護婦さんに説明されました。
次の入院までできるだけ自宅で暮らせる時間を確保したいと思っています。死ぬのも自由気ままに死ねるわけではないと、思い知らされています。死に至る道は手術や抗がん剤の100倍以上のストレスに見舞われるということを実感しています。
ハイパーサーミアも、いままで続けていたホルミシス治療も、行く見通しが立たなくなってきました。末期癌でもなんでも動けるうち、食べれるうち、眠れるうちが華。死ぬ生きるに生命力は関係なく、血管がつまったり、消化器系が機能しなくなったり(つまったり)、排泄系が動かなくなったり、そして呼吸のつまり酸素などの出し入れが困難になったり、何か物理的な破綻が原因で命が消えるのだと考えるようになりました。しかし精神力は重要で、祈る心も重要で、何か奇跡の出現を願いたい、実はそんな気持ちで一杯です。

2016年5月25日
先ほどまで5時間半ほど、動けなくなっていました。
頭や神経のためではなく、完全にエネルギー切れ、力が入らないという感じでした。お薬を飲むために水を飲みに行こうとするのですが、動けません。あー、とか、うーとか、声を出すと少し動けるのですが、立ち上がることは出来ない。原因は胃とおなかがパンパンに腫れ上がっているのに、食事をしジュースを飲んだからでしょう。
4月の初め頃までは、食事も大変おいしく食べられていたのですが、5月に入ってからは、後の苦しみのほうがはるかに強くなってきて、一杯のお茶さへ、味わって楽しむことは不可能になりました。
腸の癒着が進行していると言うことだったので、腹水のみならず、ガスや尿も行き場をなくしているのでしょう。
おなかは1月頃までは、ふわふわだったのですが、今はカチカチです。がん細胞がびっしりとつまっているような感じに、固いです。
あと1年とは申しませんが、せめてあと1ヵ月、のろのろとでもいいから、動ける身体でいさせてください。


合掌

2016-05-06 | 死神との綱引き

4月の時点で限界がきていたのだが、医者の休日や連休が原因とかで、明後日まで、診察は不可能だと。診察の必要は無いのだが、診察をしないと、紹介状は書けない、といわれたら、その先に患者が勝手に進むわけにもいかない。腹膜播種から溜まり始めた腹水が、ここに来て急激に膨らみ始めて、もう胃までせり出してきた。こうなるとブラジャーのホックを止めると苦しくなる。一週間前までは、まだ少しウエストラインもくびれていたのだけれど、いまは完全にずん胴になった。お腹が圧迫されて痛いので、伏して寝ることも、不可能になった。お腹はついに妊婦のように膨らんできた。上半身はあばら骨が浮き出るくらいにガリガリになってきているのに、胃と腹部だけが膨らんで飛び出る、異形に陥っている。膀胱が圧迫されているためか、一回の尿の排泄が、日本酒のお猪口半分も出ない、排尿困難に陥っている。腹膜の中の臓器は全部酷い圧迫を受けて、じわじわと内蔵機能不全に陥っていく。風船に水や空気をポンプで送り込んでいくと、いつかは破裂する、同じ原理だ。腹膜播種ー腹水、となると典型的な末期癌の末期症状だ。呼吸困難や咳も少し始まり、心臓のヒヨヒヨも時々起こるようになった。こういう状態になると、自宅や外出先で、意識をなくして突然倒れる可能性が出てくるらしい。
毎日飲んでいるたくさんのお薬の入手先、振込先、毎回の量、補充の必要などを確認せねばならない。あまりに種類が多いので、できたら表にしておこうと思っているが、いつまで身体が動くか。動作がすでにのろくなってきている。身体を休めて眠り込んでいる時間が増え始めている。少なくとも明日中に、入院のしたくだけは、なんとか済ませておきたい。ようやく診察の日に辿り着いたとしても、すぐに紹介状を書いてくれるとは限らない、から、この腹水がすぐ抜けるかどうかも分からない。抗がん剤の副作用は抜けているし、まだモルヒネも打っていないので、意識は今のところ保てている。朦朧ともしていない。ただ筋肉はもうしわしわになってきている。
あと何日、一人で動けるだろうか。

・・・・・追記:2016年5月5日・・・・・

昨日書いた予定を何一つこなせなかった。
日光浴のため公園に行き、ベンチで身体を横たえて目を閉じていた。
「もしもし、失礼します。大丈夫ですか?脱水症かなにかでは無いかと」
目を開けて声の方をみると、親切そうな初老の男性の心配顔が。
ついに、行き倒れ者に見えたのかと、吃驚した。
トイレに行き、顔を確認。両目がドスンとへこみ、頬の厚みが
全く無くなって三角形になっていた。

午前中に連休中、最初で最後の唯一の電話が、同市に住むSMさんからかかってきた。
この文章で近況を知って、気になってお見舞いの電話を下さった。
彼女は仕事をしながら、両親の介護をしている。
私は死にたいとは思わないが、彼女は死んで楽になりたいと思う時があるようだ。
私も死にそうになるような親の介護の経験があるので、彼女の苦悩が良く分かる。

私は膨大なシャンソンの研究資料を持っているのだが、そのごく一部を、最近入会した信州大学シャンソン研究会(代表吉田正明教授)に寄贈することが出来た。後世の研究に何らかの形で役立てていただくことが出来れば、こんな嬉しいことはない。どなたとも面識はないが、情熱は受け止めていただけるのではないかと思っている。まだレコードの他に、紙媒体の資料が山ほどあるが、それらに手をつける時間はもうない。この研究会に滑り込みセーフで出会えて本当によかったと思っている。
私が一番恐れているのは、遺体だけでなく、私の人生そのものが、ほとんどゴミのように扱われるのではないかということだ。それが一番の苦悩、苦痛だった。
しかし最後の最後に、私が定期刊行物やリトルマガジンなどに昔々長年書き散らしてきたものを、なんとか年譜にまとめてあげよう、という方が現われた。遠く北海道の金石稔氏だ。
年譜といえば、以前支路遺耕治が亡くなった時に志摩欣也が仕上げた「年譜」に感動したことがある。それ以前には吉田城が仕上げたマルセル・プルーストの年譜に、「年譜」の持つ魅力に目を開かれた思いがしたことがある。私ごときが年譜云々というのは、おこがましいが、せっかくの阿吽塾の金石稔
氏のお申し出にすっかり甘えて、私の人生の過去録をなけなしの資料共々、委ねることにした。こまごまとしたものだが、完全異分野未発表のものも含めると、量は相当多い。多くのお時間を奪い取ることになるのではと思うと、心苦しいが、そのお気持ちに感謝と共に飛びついてしまった。このことを外部に公表しても良いと言って下さったので、敢えて書いてみた。私の人生がゴミのように一瞬の内に破棄・焼却されることから、危機一髪免れることができた。
私がこの十数年一番力を入れてきたTel Quel Japon関連の記事に関しては、論壇の大御所、西尾幹二先生のBlogに特別リンクを貼っていただいたし、ごく最近もご自身のBlogで、数回にわたり再度の掲載・ご紹介をしていただいた。媒体を通して私の魂までもが生き残れるのかどうか、そこまではわからない。なんらかのかたちで思いがけない人たちにバトンを渡せるかどうかも、全く分からない。しかし遺体はともかくとして、私の人生は、少なくとも一瞬の内にゴミのように破棄・焼却されることからは免れた、と思っている。
死は手探りの闇の果てに辿り着くものではなく、未来に繋がる微かな光に導かれていくものではないかと考えられるようになった。有り難いことだ。
合掌。