見えない鳥の存在: Blog版

Blog: L'oiseau Invisible
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よみじの過酷は自衛なき道

2016-06-10 | 死神との綱引き

以前野良の犬猫のように死ぬのが理想だと書いたが、「それは一番迷惑な死に方だ」と言う人がいた。人が死ぬと周りのものが迷惑する、という発想をするひとが、多くなっているような気がする。「終活しておきましょう」「死んで迷惑をかけないように心がけましょう」の類の雑誌のタイトルもチラホラと見かける。ニボルマブという高価なお薬を話題に出し、保険が破綻するから年寄りには使うな、と言う主張も堂々と公に述べられ、多くの共感さえ受けている。世の中は生きて活動している人の意見で動いている、とつくづく思う。世の中を動かしている人の意見なのだから、尊重される。それにしても、死に行くのは作法としては難しい。重病人や死に行くものにとっては「迷惑」という言葉だけが、あちこちから集中的に浴びせられるのは、とても辛い。好んで倒れるわけでも、好んで死に行くわけでも無いのだから、まだ生きている人間としての基本的「立場」がない。出来るだけ家族?に財産を残して、出来るだけ「迷惑」をかけないで、せっせと死に急ぐのが実際老人の「義務」だと感じている(感じさせられている)人たちも、物凄く多いような気がする。これは「オレオレ詐欺」や「後妻業」などの犯罪が頻発するのも、根っこは同じだと思う。自分の親兄弟の介護を言葉も分からない移民労働者(単なる他人も含めて)に委ねましょう、という発想(そしてそれで良しとすること自体)もまた、家族や肉親や友人や地域や国家から、「人間の情」そのものを希薄にさせている。又実際世の中の流れとして「自分が生きてゆくのが精一杯」という状況に既に多くのひとたちが陥っている、それもまた、見えないかもしれないが日本社会の現実なのだ。家族がいてもこの有様だ。末期の独居病人の悲惨は筆舌に尽くしがたい。もちろん例外もあり、全部が全部そういうわけではないことは言うまでもない。しかし例外は極めて稀だ。

(これは5月の2度目の入院前にすでに書置きしてあったものです)



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