極楽とんぼは風まかせ

東は東、西は西。交わることなき二つとはいえ、
広い太平洋、東の風が吹き、西の風が吹き・・・

高ビー庶民のその後

2007年11月23日 | 今日の風の吹きまわし
冷え込んだせいか、日光がおそろしくまぶしい。太陽が低くなって家の中を串刺しするかと思うほど奥まで
届くようになったせいもあるかもしれない。今日のアメリカは感謝祭。ニューヨークでは恒例のメーシーズの
パレードがブロードウェイを練り歩く日。いろんなフロートや音楽隊が出るけれど、圧巻は何と言ってもあの
巨大な風船。去年かおととしに登場したピカチューはいかにも楽しそうな顔。今年はハローキティが初登場
したそうで、「スーパーキュート」と大評判。キティちゃんは北米では幼い女の子の人気者で、2歳半の姪孫
アナベルもキティちゃんが大好きだ。フロートに乗った乾電池の広告キャラクターは最近壊滅したどこぞの
企業と同じピンクのウサギ。でも、こっちのはどこまでも止まらず、going, going, goingが売り物だ。

不承不承のプロジェクトの半分に相当する最後の大ファイルをやっと納品してシャンシャン。ひと息ついた
ところで、しばらくごぶさたしていた読売の「非高ビーで庶民的なものが嫌い」のトピックをのぞいてみたら、
いつのまにかレスポンスが370件以上。ふ~ん、日ごろ何となく関心を抱いているテーマなのかな。でも、
最初は「へぇ」、「えっ」という感じでおもしろかったのに、こっそり予感したように「貧乏くさいからやらない/
できない」から、他人がやっていることについて「あれが、これが貧乏くさくて嫌」に風向きが変わっていた。

自分が貧乏くさく感じるのがいやならば、高級ホテルしか泊まらなくてもいいし、某国産の某ブランドのもの
しか食べられなくたっていい。節約なんかしなくてもいいし、ユニクロとやらが嫌いでもいいし、軽自動車は
自分にはふさわしくないと思ってもいいのだ。これでもかとカラフルでキュートなプラスチックの小物が鼻に
ついてもいいし、自分は一点豪華じゃなくて二点豪華、いや総身豪華のレベルだと思ってもいいじゃないか。
とどのつまりは、自分の価値にふさわしいと思う行動をすればいいわけで、「すごいなあ」と感心してくれる
人もいるだろうし、「貧乏人が無理をして」と横目で見る人だっているだろうし、「貧乏たらしい」と失笑する
人だっているだろう。それでいいじゃない。それこそ、人それぞれってもので・・・

だけど、どこか違うんだなあ。どうも、他人のしていることが「貧乏くさくて嫌」と趣旨の書き込みの方が多い。
~する人が、他人が~しているのが、見苦しい、見るのも嫌、理解できない、恥ずかしい、痛々しい、私に
はムリ・・・。「都心の田舎ナンバーの高級車」にも目が点になったけど、最後のほうに、「共働きはどう言い
訳してもしみったれた響きがする」というのがあって絶句した。「20代のうちは初々しいけど、30代以上の
共働き夫婦はちょっと切ない・・・」 ふ~ん、「しみったれ」って「ケチンボ」のことだと思っていたんだけど、
ケチくさいのと貧乏くさいのは同意語だったのかしらん。「共働き家庭」を英語でいうなら、「ダブルインカム
(二所得)」家庭で、給料袋が二つあるんだから、しみったれることもないだろうに。(生まれつきケチな人は
お金があってもケチかもしれないけど・・・。)

まあ、私が子供の頃にも大人が「共稼ぎ」というときは何となく憐れむような響きがあったような気がする。
「稼ぐ」とか「働く」という字があるせいかもしれない。あの頃は社会のサラリーマン化が進んで「男は仕事、
女は家庭」の最盛期。それがやがて一億総中流になる「フツーの家庭」だったから、妻が外で働くことは
「生活苦=働かざるを得ない」という悲壮感さえ漂う観念を誰もが持っていたのだろうけど、実際のところ、
日本はまだ経済大国でも何でもなく、給食のスキムミルクをアメリカの援助物資でまかなう貧乏国だった。
ふむ、今どきの歴史や社会の教科書にはこんな「貧乏くさくて恥ずかしい」話は書いてないんだろうなあ。

自分の下を見て、「庶民(貧民?)」の頭数を数えて「いっぱいいるなあ」と喜んでいても、逆に、上の方に
無数に見えるプラダを履いた足を「うっとおしい」と引きずり下ろしてみても、ものさしの上の自分の位置は
ぜんぜん変わらないんだけどなあ・・・