冷え込んだせいか、日光がおそろしくまぶしい。太陽が低くなって家の中を串刺しするかと思うほど奥まで
届くようになったせいもあるかもしれない。今日のアメリカは感謝祭。ニューヨークでは恒例のメーシーズの
パレードがブロードウェイを練り歩く日。いろんなフロートや音楽隊が出るけれど、圧巻は何と言ってもあの
巨大な風船。去年かおととしに登場したピカチューはいかにも楽しそうな顔。今年はハローキティが初登場
したそうで、「スーパーキュート」と大評判。キティちゃんは北米では幼い女の子の人気者で、2歳半の姪孫
アナベルもキティちゃんが大好きだ。フロートに乗った乾電池の広告キャラクターは最近壊滅したどこぞの
企業と同じピンクのウサギ。でも、こっちのはどこまでも止まらず、going, going, goingが売り物だ。
不承不承のプロジェクトの半分に相当する最後の大ファイルをやっと納品してシャンシャン。ひと息ついた
ところで、しばらくごぶさたしていた読売の「非高ビーで庶民的なものが嫌い」のトピックをのぞいてみたら、
いつのまにかレスポンスが370件以上。ふ~ん、日ごろ何となく関心を抱いているテーマなのかな。でも、
最初は「へぇ」、「えっ」という感じでおもしろかったのに、こっそり予感したように「貧乏くさいからやらない/
できない」から、他人がやっていることについて「あれが、これが貧乏くさくて嫌」に風向きが変わっていた。
自分が貧乏くさく感じるのがいやならば、高級ホテルしか泊まらなくてもいいし、某国産の某ブランドのもの
しか食べられなくたっていい。節約なんかしなくてもいいし、ユニクロとやらが嫌いでもいいし、軽自動車は
自分にはふさわしくないと思ってもいいのだ。これでもかとカラフルでキュートなプラスチックの小物が鼻に
ついてもいいし、自分は一点豪華じゃなくて二点豪華、いや総身豪華のレベルだと思ってもいいじゃないか。
とどのつまりは、自分の価値にふさわしいと思う行動をすればいいわけで、「すごいなあ」と感心してくれる
人もいるだろうし、「貧乏人が無理をして」と横目で見る人だっているだろうし、「貧乏たらしい」と失笑する
人だっているだろう。それでいいじゃない。それこそ、人それぞれってもので・・・
だけど、どこか違うんだなあ。どうも、他人のしていることが「貧乏くさくて嫌」と趣旨の書き込みの方が多い。
~する人が、他人が~しているのが、見苦しい、見るのも嫌、理解できない、恥ずかしい、痛々しい、私に
はムリ・・・。「都心の田舎ナンバーの高級車」にも目が点になったけど、最後のほうに、「共働きはどう言い
訳してもしみったれた響きがする」というのがあって絶句した。「20代のうちは初々しいけど、30代以上の
共働き夫婦はちょっと切ない・・・」 ふ~ん、「しみったれ」って「ケチンボ」のことだと思っていたんだけど、
ケチくさいのと貧乏くさいのは同意語だったのかしらん。「共働き家庭」を英語でいうなら、「ダブルインカム
(二所得)」家庭で、給料袋が二つあるんだから、しみったれることもないだろうに。(生まれつきケチな人は
お金があってもケチかもしれないけど・・・。)
まあ、私が子供の頃にも大人が「共稼ぎ」というときは何となく憐れむような響きがあったような気がする。
「稼ぐ」とか「働く」という字があるせいかもしれない。あの頃は社会のサラリーマン化が進んで「男は仕事、
女は家庭」の最盛期。それがやがて一億総中流になる「フツーの家庭」だったから、妻が外で働くことは
「生活苦=働かざるを得ない」という悲壮感さえ漂う観念を誰もが持っていたのだろうけど、実際のところ、
日本はまだ経済大国でも何でもなく、給食のスキムミルクをアメリカの援助物資でまかなう貧乏国だった。
ふむ、今どきの歴史や社会の教科書にはこんな「貧乏くさくて恥ずかしい」話は書いてないんだろうなあ。
自分の下を見て、「庶民(貧民?)」の頭数を数えて「いっぱいいるなあ」と喜んでいても、逆に、上の方に
無数に見えるプラダを履いた足を「うっとおしい」と引きずり下ろしてみても、ものさしの上の自分の位置は
ぜんぜん変わらないんだけどなあ・・・
届くようになったせいもあるかもしれない。今日のアメリカは感謝祭。ニューヨークでは恒例のメーシーズの
パレードがブロードウェイを練り歩く日。いろんなフロートや音楽隊が出るけれど、圧巻は何と言ってもあの
巨大な風船。去年かおととしに登場したピカチューはいかにも楽しそうな顔。今年はハローキティが初登場
したそうで、「スーパーキュート」と大評判。キティちゃんは北米では幼い女の子の人気者で、2歳半の姪孫
アナベルもキティちゃんが大好きだ。フロートに乗った乾電池の広告キャラクターは最近壊滅したどこぞの
企業と同じピンクのウサギ。でも、こっちのはどこまでも止まらず、going, going, goingが売り物だ。
不承不承のプロジェクトの半分に相当する最後の大ファイルをやっと納品してシャンシャン。ひと息ついた
ところで、しばらくごぶさたしていた読売の「非高ビーで庶民的なものが嫌い」のトピックをのぞいてみたら、
いつのまにかレスポンスが370件以上。ふ~ん、日ごろ何となく関心を抱いているテーマなのかな。でも、
最初は「へぇ」、「えっ」という感じでおもしろかったのに、こっそり予感したように「貧乏くさいからやらない/
できない」から、他人がやっていることについて「あれが、これが貧乏くさくて嫌」に風向きが変わっていた。
自分が貧乏くさく感じるのがいやならば、高級ホテルしか泊まらなくてもいいし、某国産の某ブランドのもの
しか食べられなくたっていい。節約なんかしなくてもいいし、ユニクロとやらが嫌いでもいいし、軽自動車は
自分にはふさわしくないと思ってもいいのだ。これでもかとカラフルでキュートなプラスチックの小物が鼻に
ついてもいいし、自分は一点豪華じゃなくて二点豪華、いや総身豪華のレベルだと思ってもいいじゃないか。
とどのつまりは、自分の価値にふさわしいと思う行動をすればいいわけで、「すごいなあ」と感心してくれる
人もいるだろうし、「貧乏人が無理をして」と横目で見る人だっているだろうし、「貧乏たらしい」と失笑する
人だっているだろう。それでいいじゃない。それこそ、人それぞれってもので・・・
だけど、どこか違うんだなあ。どうも、他人のしていることが「貧乏くさくて嫌」と趣旨の書き込みの方が多い。
~する人が、他人が~しているのが、見苦しい、見るのも嫌、理解できない、恥ずかしい、痛々しい、私に
はムリ・・・。「都心の田舎ナンバーの高級車」にも目が点になったけど、最後のほうに、「共働きはどう言い
訳してもしみったれた響きがする」というのがあって絶句した。「20代のうちは初々しいけど、30代以上の
共働き夫婦はちょっと切ない・・・」 ふ~ん、「しみったれ」って「ケチンボ」のことだと思っていたんだけど、
ケチくさいのと貧乏くさいのは同意語だったのかしらん。「共働き家庭」を英語でいうなら、「ダブルインカム
(二所得)」家庭で、給料袋が二つあるんだから、しみったれることもないだろうに。(生まれつきケチな人は
お金があってもケチかもしれないけど・・・。)
まあ、私が子供の頃にも大人が「共稼ぎ」というときは何となく憐れむような響きがあったような気がする。
「稼ぐ」とか「働く」という字があるせいかもしれない。あの頃は社会のサラリーマン化が進んで「男は仕事、
女は家庭」の最盛期。それがやがて一億総中流になる「フツーの家庭」だったから、妻が外で働くことは
「生活苦=働かざるを得ない」という悲壮感さえ漂う観念を誰もが持っていたのだろうけど、実際のところ、
日本はまだ経済大国でも何でもなく、給食のスキムミルクをアメリカの援助物資でまかなう貧乏国だった。
ふむ、今どきの歴史や社会の教科書にはこんな「貧乏くさくて恥ずかしい」話は書いてないんだろうなあ。
自分の下を見て、「庶民(貧民?)」の頭数を数えて「いっぱいいるなあ」と喜んでいても、逆に、上の方に
無数に見えるプラダを履いた足を「うっとおしい」と引きずり下ろしてみても、ものさしの上の自分の位置は
ぜんぜん変わらないんだけどなあ・・・
それにしても、他人のすることが気になる人が多いのですね。私は普段は化粧をしないので(無色のサンスクリーンのみ)、「すっぴん」関係のトピが立つと覗いてみるのですが、女性投稿者のすっぴん叩きは凄まじく、すっぴん好きの男性の投稿にも噛み付き、挙句の果てにすっぴん好き男性に対する人格攻撃にまで進展することもあり、なかなか恐ろしいです。
理由は、1)面倒くさいから、2)顔がかゆくなるから、3)化粧をしたからといってそれほど元の顔と違いがあるとは思えないから、です。
でも、他人が化粧していようが居まいが、どうでもいいことだと思いますけど・・・。それをどーのこーの言っている人の神経が、私には理解不可能ですね。(そんなこと言っている時間がもったいないと思いますけど・・・もっと有効なことに使えばいいのに)。
私もそう思うのですが、日本人は妙に精神主義なので、「装う心が人を美しくする」みたいなことを言う人が多いです。
その他、すっぴんは
①素顔でもいけていると思っている痛い女
②純情ぶっている
③諦めと居直りの権化
④無添加せっけんを売りつけられそうで怖い
などなどと非難されます。
すっぴん好きの男性は、度量が狭く、自分に自信がなく、恋人がきれいにメイクすると他の男に取られるからイヤだと思っている負け組男なのだそうです(笑)
私は顔がかゆくなるだけでなく、目が疲れるので化粧しません。
時間と化粧品代の無駄だし・・・。
度量が狭くても、「負け組」でも、どーでもいいですね・・。あはは・・・
ここにもすっぴん組で~す。20代半ばからずっとすっぴんでした。55過ぎて思うところがあってメークを始めたけど、在宅なものでめんどうになって、今は「夜のおでかけ」のときだけです。この年だと少しばかり違いは出るんですどね(向上か低下かは未だに不明・・・)。
連れ合いも初めて会った頃に「ボクは、メークした女の子は作り物みたいで嫌い」なんていってましたから、すっぴん好きだったんでしょうね。私がメークを始めたらちょっと慌てましたよ。急に「きれいだよ~」とかなんとか歯の浮くようなことを言い出したりして(笑)。
日本人の「精神主義」は物質主義を隠すためとか、自我のなさ隠すための「標語」のような感じがするんですけど、うがちすぎかなあ。武士は食わねど高楊枝とか。なんでスナオに腹減ったといえないのって思ってしまうんですけど。標語に踊ってしまうと、その目的に向かわない人とはステップが合わなくなって、だけども踊っているうちは標語のビートでしか踊れないって感じですが。
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2004/0616/003636.htm?o=0&p=1
何年か前に同じ小町で荒れに荒れた「国際結婚している日本女性の容姿」とかいったトピを思い出しました。(国際結婚している女はなぜブスばっかりなのかといったトピでした。)
まさに、女の敵は女、日本人女性の敵は日本人女性。それにしても、他人のこと、よくあれだけ微に入り細に入り観察してますね。歩く監視カメラなみ・・・
「日本のその手の女は青い目に弱いから、美しい碧眼が目立たないようにメガネをかけさせとけば大丈夫」とか、変なレスがたくさんついていたようです。
「国際結婚女はブス」というのは、こういう奇怪な自意識過剰国際結婚妻に対する反感からきているのかもしれませんね。
現実ではもう夫は日本に連れて行って心配という年令ではないので、どうでもいいんですが(笑)
この手の「悩み」って実は「自慢」なんですよね。私がいるところには「その手の女」と「自意識過剰国際結婚妻」が持ち込んだ「日本」がどろどろに濃縮されています。幸い年代的にも接点がないので泥を引っかけられずに済んでいますが、彼らの掲示板の荒れようは小町の非ではないですよ。
想像するだに恐ろしいですね~
彼女たちと駐在員夫人の間にもドロドロはあるのでしょうか?
私も夫の留学でSF郊外に住んでいたことがありますが、日本人コミュニティとほぼ無縁の生活でしたので、そういう世界を垣間見ることはありませんでした。もしそういう人と接点があったら、ディスカウントショップで買った10ドル前後の子供服を着て(アメリカの洗濯機は服が傷むので、日本から持ってきた服を洗う気がしなかった)、一切れ2ドルのピザを道端で食べていた私は「日本女性の面汚し」と蔑まれたかも(笑)