日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

2月11日

2024-02-15 13:08:00 | 日記
創世記4:6~16、Ⅱコリ4:3~16、マルコ9:2~9
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二日市教会主日礼拝説教 2024年2月11日(日)
主の変容日
「カインとアベル―その2」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
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 先週に引き続きカインとアベルのことを考えたいと思います。聖書は創世記の4章です。さてカインとアベルの二人で名前がよく知られているのはカインです。「カインの末裔」という小説もあったほどで、こういう題からも言えることは、カインの問題は人間全体の問題であるということです。聖書の話を読んだ人は、自分もカインの末裔かもしれない思ったりもする。末裔とは子孫のことです。
 カインと比較するとアベルはそれほど重視されてはいない感じです。従って、人はアベルの末裔とはあまり言いません。ところが、このアベルに光を当てた人がいました。それは北森嘉蔵という神学者です。北森は熊本の出身で、最初はルーテル教会の牧師になりましたが、のちに日本キリスト教団の牧師になった人です。神学者としての立場はルター神学です。この北森嘉蔵がこう言ったのでした。「我々は、カインの末裔ではあるが同時にアベルの末裔でもあるのだ」。つまり、アベルもカイン同様、人間全体の問題を示すケースだというのでした。

 ところで、聖書の「カインとアベル」は、カインが弟アベルに「さあ、野原に行こう」と誘い、野でそれを殺したという話でした。北森は、カインをそうさせたのは競争心と嫉妬心だったと書いています。さてこの時神が登場し、カインに「弟アベルはどこにいるのか」と聞くとアベルは「知りません、私は彼の番人でしょうか」と答えたのでした。このあとが物語の核心部になります。というのも神が、「お前は何をしたのだ。弟の血が土の中から私に向かって叫び声を上げている」と言ったからです。アベルの死体から流れる血が叫び声を上げていたので、その叫びが神の耳にも届いたのでした。 
ではアベルは何と叫んでいたのか。でも聖書はそれについては何も書いてないのです。しかし北森は言います。誰でも推測くらいは出来るのではないか。それは恨みと呪いの叫びだったからだ。北森によると、その手の叫びはかなり根が深いのでした。人間の本性から出るものだからです。だから激しくて強烈で、いつまでも消え去らないのだ。北森はアベルの叫びをそう見ていました。
ところで北森はここで、聖書にあるもう一つの叫びを紹介します。それは十字架上でのイエスの叫びです。さて、この叫びも激しく強烈であった。その点ではアベルとイエスはよく似ているかも知れないが、同一視することはできない。なぜならイエスのは神の子の絶望的な叫びだったのに対して、アベルのは恨みと怨念と呪いの叫びだったからである。
ここで北森はもうひとつ付け加えます。我々の人間の叫びとイエスの叫びも同一視は出来ない。けれども、アベルと私たちの叫びなら同列に並べることが出来る。それではもう一度考えるが、イエスとアベルの叫びはまったく無関係だと言い切れるのだろうか。

北森は、無関係ではないと考えています。なぜならまず、殺されたアベルの血の叫びが激しく強烈であったように、イエスの叫びも激しく強烈であったからだ。しかし、両者の違いがあるとするなら、イエスの叫びはアベルと較べようがないほど激しくて強烈であったことだ。
たしかに、アベルのはドロドロとしているのに対して、イエスのはそうではないという言い方は出来るのですが、北森が言いたいことは、このイエスの叫びは、人間のあらゆる叫びを抱きかかえるほどのものだったのです。だから、人が十字架の足もとまで引きずってきた恨みも怨念も呪いも、イエスが十字架上で引き受けて死んでくれたので、そこに救いがあるということでした。
北森は、聖書は立体的に見るとよいと言います。アベルとイエスは一見結びつきませんが、北極と南極も一見結びつかないが地球の大きな軸で一つであるようなものなのだと言うのです。
ところで北森は、カインについてもこういうことを言っています。「カインはかわいそうな被害者である」。言われてみれば思い当たることがあります。なぜならカインは、アベルと並んで捧げものをしたのに、神はアベルの捧げものは受け取り、カインのには目もくれなかったからです。創世記4章ですが、これはあきらかに神のえこひいき、多くの人がそう感じるのです。
これについては、色々な学者が、それはえこひいきではなかったと説明してきましたが、説得力に欠いていました。とにかくカインは頭にきたのでした。私たちも同情せざるを得ません。だから「カインはかわいそうな被害者」なのですが、ただ彼がそのことに固執し続けるなら次第に論点がずれてゆくのです。では憤りの中に留まり続けることがなぜダメかというと、そうしているかぎりは罪の意識は生じないからです。つまり留まり続けることは、相手を責め続けることだからです。

つまりカインは、相手を責めるのをやめて、自分自身を責める方に転換しなければならなかった。ところがそれに失敗したのでアベルを殺してしまった。しかし、このあとの聖書を読むと、カインは遅まきながら方向転換に転じています。それはカインの「私の罪は重すぎて負いきれない」と言葉がそうでした。4章13節ですが、北森は、遅まきであってもカインのそこに注目してほしいと言います。なぜならこの13節になるとカインは、弟も、親も、神をも責めてはいないからです。こののちカインは追放されますが、それを罪に対する罰とカインは受けとめていると北森は書いています。

以上みたように、カインとアベルも優れた神学者の手引きに従うと、色々なことに気づかされるのでした。なお、北森嘉蔵は世界的な神学者で、彼の書いた『神の痛みの神学』という本は世界の各国語に翻訳されています。
さて、「カインとアベル」は次回もう一度取り上げます。エデンの園から追放された人間はいかに生きるのか、考えさせられることが多いからです。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 2月18日 四旬節第1主日
説教題:カインとアベル その3
説教者:白髭義 牧師
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