日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

バベルの塔を考える

2024-03-15 16:49:59 | 日記
 創世記11:1~9、エフェソ2:1~10、ヨハネ3:14~21
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二日市教会主日礼拝説教 2024年3月10日(日)

「バベルの塔」を考える
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 旧約聖書の創世記の学びを続けてきました。前回はノアの洪水の6章から9章までを見ました。それに続いて11章のバベルの塔の話を考えたいと思います。
 さて、この話は大変有名です。かつていくつかあった古代文明は巨大な都市によって支えられ、都市の中心には必ず高い塔が建てられましたが、その中でも有名なのがバビロンの塔です。しかしこの塔は東京スカイツリーや福岡タワーとは意味合いが違っていました。なぜなら、それは神を祀る神殿でもあって、いまの創世記9章4節でも、バベルの塔の目的は「天まで届く」ことだと言われているからです。バベルの塔は宗教的な建築物だった。しかし、神はそれに対して拒否反応を示した、そういう話だったのです。
 ところで、絵が好きな人でなくても、ブリューゲルという画家の『バベルの塔』はテレビなどで見ていると思います。その絵の塔はまさに建設中の塔で、その工事現場で働く労働者たちがきめ細かく描かれています。もちろん今のような重機はありませんから、肉体労働に全面的に依存していたバベルの塔でした。
 さて、この絵を通して考えたいことは、これらの労働者についてです。なおそれを考えるヒントが絵の下の左側に出ています。そこには、王冠をかぶる馬上の王と、それにつき従う感じの者たちがいるからです。つまり、王侯貴族たちが現場と距離を置いて視察しているのです。工事が進行中の塔ですが、いちばん上はもう崩れかけてただ今崩壊中。いくら造ってもダメになっていくのがバベルの塔であるとブリューゲルは言うのでした。
 さて、その最上部を雲がかかっています、いかに塔が高いかを誇示するみたいですが、その雲の上には神がいて、人間がしていることを見下ろしていました。たしかに、バベルの塔は権力者にとって力が誇示できる最大のチャンスでした。彼等のせりふも記されています。「さあ、天まで届く塔のある町を建てて有名になろう」。数千年も前の話なのですが、今とそれほど変わりないかも知れません。高さを誇る建築物なら、世界中の都会で建てられているからです。考えてみれば「有名になろう」という言葉自体は、そこにすむ住民たちのささやかな願望であるかもしれません。しかし本日の物語は、そのレベルの問題ではないのでした。
 さて、本日の物語でいちばん問題になっていたのは言葉でした。言葉つまり言語が違うともう意思疎通ができない。それは今も、日本語と英語のように、現実的な悩みになります。もし、日本人とアメリカ人の言葉が同じであれば、トラブルももめごとも起きないであろう。だから人々は英会話をせっせと勉強するのかもしれませんが、では言葉がまったく同じな日本人同士の間では、トラブルももめごとも一切ないのかというと、そうではないはずです。
つまり、自分が日本人で相手が言葉が異なる外国人だとすぐトラブルが発生するという考えは間違いだからです。今の物語では、最後に神が人間を世界中に散らし、そのため外国語だらけになりましたが、人間が同じ言葉で意思疎通ができるというのは、ほんとうは神も喜ぶことなのです。
つまり、トラブルやもめごとの原因は、日本語対外国語みたいのことにあるのではないから、本日の話で神が問題視していたのは、もっと別のことだったと思うべきなのであります。
さて、それを考える上で、ブリューゲルの『バベルの塔』は役に立つかも知れません。なお、この絵で描かれている人間たちは、大きく言って二種類あります。一つは、工事現場で労働している人間と、もうひとつはそれを遠くから眺めている人間です。もちろん、あとのほうは全員上流階級の人間です。なお、バビロンの塔は今から三千年も四千年も前の話です。古代バビロニア帝国の巨大な工事現場で働いていた労働者たちは、実は奴隷でした。権力者たちの政策によれば、奴隷は絶対死なせてはならない、最低限のぎりぎりの食事は与え続けて生かしておくべきだというものでした。「生かさず殺さず」が奴隷でした。
 ところで、11章3節には人々が口にした言葉が記されていました。すなわち、「れんがを作り、よく焼こう。」とか「天まで届く塔を建て、有名になろう。そしてここから散らされないようにしよう」。この言葉は工事現場の奴隷たちの台詞ではありませんでした。工事現場か距離を置いて眺めている上流階級と権力者たちの言葉だったからです。れんがを作るのも、塔を建てるのも、きれいな服を着た彼等ではありませんでした。
 つまり、6節に書かれている神の言葉、つまり「彼らは皆一つの言葉を話している」の「彼ら」に奴隷たちは入っていないのでした。神が観察していたのは、高貴な身分の者たち、富や権力を独占している者たちだったからです。つまり、「一つの言葉を話して」いたのは、この上流階級の人間で、「一つの言葉を話して」いた、すなわち彼らの間でしか通用しない会話をしていたのでした。
 ところで、「バベルの塔」は創世記1章から続く長い話の最終回の話です。「天地創造」、「カインとアベル」、「ノアの洪水」などがありましたが、全体に共通しているテーマは人間の罪でした。聖書はこのあと残りが、旧約・新約でまだまだいっぱいある感じですが。それも含めて聖書のテーマはやはり人間の罪なのです。従って、バベルの塔を最終回と呼ぶのは、それなりの理由があるとかんがえなければなりません。
 なぜなら、「バベルの塔」で神が問題にしたのは、上流階級と権力者たちの罪だったからです。そして、彼らの本当の罪は、奴隷の人間たちを生かさず殺さずにしておき、底的に搾り上げつくしたということで、その体制を維持してゆくために彼らは同じ言葉で話していた、強固な団結をしていたことでした。この物語は、神が彼らの鉄の団結を打ち砕いたという、奴隷たちにとっては福音となるような話だったのでした。
 なお、聖書で覚えておきたいのは、この奴隷たちの目線が大切にされてゆくということです。従って、その目線をイエスも受け継いだことは、福音書を読めば伝わってくるのです。彼が、権力集団と対立しながら、人々に神の国を教えたこと、にもかかわらず逮捕され十字架にかけられたことも、奴隷の目線を最後まで貫いた結果だったと理解してみたいのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週3月17日 四旬節第5主日
説教題:アブラハム的な人生 その1
説教者:白髭義牧師
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