日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

2月4日

2024-02-07 14:25:50 | 日記
創世記4:1~9、Ⅰコリ9:16~23、マルコ1:29~39
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二日市教会主日礼拝説教 2024年2月4日(日)
顕現後第5主日
「カインとアベル―その1」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
私たちはいま、旧約聖書の創世記を読んでいるところです。前回までは、エデンの園の中での出来事を見ましたが、今回は創世記4章の「カインとアベル」を取り上げます。カインとアベルは、人類史上最初の殺人事件として有名ですが、この話の解釈は一つにとどまらず、人によって全然 正反対の意見を言う人もいて、だからそれだけ関心を抱く人が多いということなのです。

そこで私たちも、複数の人の解釈に目を通したいと思うのですが、今週は三浦綾子がどう解釈していたかを見ます。さて、『氷点』や『塩狩峠』で知られる作家三浦綾子は大正11年(1922年)に北海道の旭川で生まれました。道内の小学校で教員をしていた時に肺をやられ、24歳の時から13年にわたる闘病生活に入りました。この入院中の30歳の時、札幌北一条教会の洗礼を受けています。
さて、病床にあった彼女のもとをたずねていた人たちの中に、西村久蔵というキリスト教徒がいました。その時彼は50代でしたが、二百人の従業員が働く製パン工場の経営者であり、札幌市内でたくさんの洋菓子店や喫茶店も手がけていました。そのように多忙だった西村久蔵が親しく通ってきてくれたのでした。
その彼が彼女にこう言いました。「出会った人は、誰もが自分の責任範囲にある人たちです。神さまがそう託されたからです」。この言葉は彼女の胸に深くしまい込まれました。ところがその彼は間もなく帰らぬ人となったのでした。葬儀には800人以上もの人が詰めかけ、中に入りきれない人が多く出ました。

ところでこの西村久蔵は若い頃、キリスト教のある集会で、説教者がキリストの十字架の話をするのを聞いて、十字架のイエスの痛々しい様子が心に焼き付けられ、「この神の子を十字架につけたのは私にほかならない」と思うようになり、今後自分はイエスが流した血に清められるような生き方をすると決心しました。
この西村は綾子の目にはなよなよしたクリスチャンではありませんでした。むしろ語気あらく彼女を𠮟りとばしたほど、炎のように激しい人でした。しかしその人物が彼女のその後の人生に大きな影響を与えたのでした。「久蔵の生涯は、キリストの十字架を見上げながら歩んだ生涯であった」と彼女は書いています。
ところでその後日、彼女が病床で旧約聖書を読んでいた時、あの西村の言葉がよみがえってきました。「出会った人は、誰もが自分の責任範囲にある人たちです。神さまがそう託されたからです」。それはカインとアベルの話を読んでいた時のことでした。なぜなら、兄のカインが弟のアベルを殺した直後、神がカインに「お前の弟アベルはどこにいるのか」と質問したからです。今さっき殺して土に埋めてきたばかりのカインはしかし、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と言い返したのでした。ここを読んだ時、久蔵の言葉を思い出したからです。
さて彼女は考えました。「あなたの弟はどこにいるのかとたずねられた時、わたしだったら何と答えるのだろうか」。なぜなら、弟という言葉は、もっとも近くてもっとも親しい存在を指しているからです。それほどの存在である人なのに、その人はいまどこにいるのかと問われた時、わたしは本当に責任をもって答えることができるというのだろうか。
彼女はさらに考えました。自分は殺人者ではないのだが、それでも自分はアベルの側ではなく、カインの側に立つ人間なのだ。また興味深いことも言っていました。「わたしは、加害者タイプ、殺害者タイプの人間かと思う。わたしはものの言い方の強さによって、どれほど人を傷つけてきたかはわからない。つまり自分はカインの末裔なのだ。少なくともアベルの末裔ではない」。

だから彼女は殺人者カインのその後の人生に関心を抱いたのでした。というのも(4章12節で)神はカインに「お前は地上をさまよい、さすらう者となる」と言ったからでした。これが殺人者がたどるべき運命なのだなと思いつつ読んでいると、神はいきなりその殺人者カインを徹底的に保護すると言い始めます。弟を殺した人間を神が赦すはずがないのにこれは変だ、いや腹立たしい。何が正義の味方の神だ。こんなに悪人に甘くて示しがつくのだろうか。
こう思った一方で、考え込んでしまうことも書かれていました。というのも、さっきまで「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」とふてぶてしかったカインが一転して(13節で)「わたしの罪は重すぎて負いきれません」と急転直下坂を転げ落ちたからです。ここには、弱り切っておろおろするカインしか見えませんでした。今や誰からも責められる孤独なカイン。このカインこそが自分の姿ではないか。そう綾子は考えたからです。

ところで、ここで彼女は切り札を出しています。すなわち、人間は自分の罪を一人で背負うことは出来ないという意味の切り札でした。だから、その罪を自分の代わりに背負ってくれるキリストという切り札を出してしまったのでした。たしかに、十字架のキリストによる罪のあがないは、カインの重すぎて負いきれない罪の解決となるのでしょうが、それは新約聖書を考える時に出番となるのであって、今取り組んでいるのは旧約聖書だからです。これは三浦綾子の勇み足でした。
ところで、よく誤解されがちなことは、キリストの十字架を持ち出さないと救いが語れないと考えてしまうことです。しかし、その十字架はイエスの父なる神のみ心であり、父なる神は、天地創造で人間を造った神にほかならないからです。イエスもその天地創造の神の性質を受けていますから、天地創造のことをしっかり学べば、神のみ心もイエスの心もよくわかるのが聖書だからです。
それではイエスも受けている神の性質とは何かですが、それは親しさという性質のことです。そして人間も同じ性質を受けているというのが聖書の考えなのです、ところがある日カインとアベルの兄弟殺しの事件が起きた。聖書はこのあと、神の親しさが失われてゆく人間の悲惨な歴史を描いてゆきますが、しかしそれはまた、創造の時 神が与えた性質を復活させようとする人たちの歴ともなっているのです。あの西村久蔵が、まだノンクリスチャンだった三浦綾子に「出会った人は、誰もが自分の責任範囲にある」と言ったことも、そのような意味だったと考えればよいと思うのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 2月11日 主の変容
説教題:カインとアベル その2
説教者:白髭義牧師
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