日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

2月18日

2024-02-21 15:50:10 | 日記
創世記4:13~16、Ⅰペトロ3:18~22、マルコ1:9~15
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二日市教会主日礼拝説教 2024年2月18日(日)
四旬節第1主日
「カインとアベル―その3」
「カインのしるし」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
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 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一同にありますように。
 さて私たちは、先週と先々週、カインとアベルについて考えました。そして本日も引き続きそれを考えたいと思います。ところで、本日のテーマは「カインのしるし」にします。そのカインのしるしのことは創世記4章15節に書かれていますが、そこでは、神がカインにしるしを付けたと書かれています。それではどんなしるしだったのか、私たちとは何か関係があるのかを考えてみたいと思うのです。

 ところで、カインとアベルの話は、人類史上最初の殺人、あるいは初の兄弟殺しとして人々によく知られています。創世記4章がその話なのですが、それによると、カインとアベルはアダムとエバの間に出来た子どもたちでした。2人は成長すると自分の仕事を持ちますが、各自が献げものを神の前に持参しました。ところが神は、アベルのは気に入りましたが、カインのには目もくれませんでした。
 ここで聖書は書いています。「カインは激しく怒って顔を伏せた」。そのカインに神は言います。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいなら、顔をあげられるはずではないか」。この時カインが己を律して怒りを抑制していれば、殺人は起きなかったはずでした。しかし、彼は弟を誘い、野原に連れて行ったあげく、襲って殺したのでした。このこと自体重大な犯罪でしたが、彼はそれに輪をかけるようなことをさらにしてしまいます。
 というのも、神が「弟のアベルはどこか」と聞いた時、「知りません。私は弟の番人でしょうか」と口答えをしたからです。聞かれてすぐ自分の非を認めたのではないカインに神は言いました。「何ということをしたのか。弟の血が私に向かって叫んでいる。今お前は呪われる者となった。今後は地上をさまよい、さすらう者となるであろう」。

 カインは、神のその言葉で初めて、罪に対する罰がどんなに怖いものかを悟って、「私の罪は重すぎて負いきれない。地上をさまよい、さすらえば、見ず知らずの者がたちまち襲ってくる」という意味のことを言ったのでした。あたかも野獣がうろうろしている密林に丸裸のまま投げ込まれた感じなのでした。
 なお兄弟殺しは、今の時代でも厳しく糾弾されますが、それだけにカインへの罰がどんなに大きくても、私たちは驚かないかもしれません。けれども、カインへの罰は、彼の想像をはるかに超えていたので、「その罰は重すぎて負いきれない」と言ったのでした。ただ、ただ恐怖しかない罰のすごさ、そういうのには絶対耐えられないという自分を赤裸々にさらけだしたのでした。

ところでこれは、決して赦されない兄弟殺しの話なのですが、これを読む人は心理的に揺れてしまうかも知れません。なぜなら、殺人事件の事の発端は、神がカインの捧げものを拒否したことに始まっているからです。だから読む人は、カインの罪を憎むというよりも、同情のほうが強くなってしまうわけで、「神はえこひいきをした。それはよくない」という思いをひきずりながらカインを見てしまうからです。
つまり、ほかの殺人事件ならひとごとのように思えるのに、カインの場合はそうは出来ない。それどころか、カインはこのあとどうなるのか。いかなる人生を送るのかまで心配してしまう。考えようによっては、カインとアベルはおかしな話なのであります。

ところで、13節と14節に繰り返し出てきた「さまよい、さすらう」の言葉は、今の社会を生きる現代人が抱えている何かと共通性があるのかもしれません。それはともかく、アベル殺しの重大さが分かったカインの心には得体の知れない不気味な不安と恐怖が生まれ、弟に対して抱いていた殺意を、今度は他者に投影・転嫁し、転嫁された殺意の前で自身がおののくという、精神分析の対象になるかもしれない複雑な心理状態が聖書で言われていたのでした。

以上は、14節までの内容ですが、15節に入ると雰囲気がガラリと変わります。なぜなら、不安を訴えるカインに神が耳を貸したからです。その時神が言ったことは、今後はカインを保護する、それも徹底的に保護するということでした。彼を脅かす者は7の7倍仕返しを受けるであろう・・・。
ただし注意すべきは、カインの殺人の罪を赦されたわけではないということです。それでも神は「誰も攻撃出来ないしるしをお前に付ける」と言ったのでした。これが「カインのしるし」なのです。このため昔から学者たちは、それはどんなしるしだったかで議論してきました。しかし、結論は得られていません。ただ一つだけはっきりしているのは、そのしるしがあるため誰も彼を攻撃出来ないということでした。それだけのことかも知れませんが、カイン本人は、得体の知れない攻撃の恐怖から解放されたのでした。

ところで、神がカインの殺人罪を赦してないことは、16節でわかります。なぜなら、カインは、「主の前を去り、エデンの東、ノドの地に住んだ」からです。これは追放です。彼は罰として追放されたのでした。それは犯した罪の結果でした。しかし、それにもかかわらず、彼には神のしるしがあったのでした。たとえ追放であっても、それで神が見棄てたということではない。カインはそのことが理解できたのでした。
さて、この物語を読む人の中には、「自分にもカインのしるしが?」と思う人がいるかもしれません。その人は、いつかこの世をさまよい、さすらうことがあるとしても、それは決して神に見捨てられたことではない・・・。この小さくてもゆるがない確信が人生を支えることは大いにありうるのです。
以上のことは、創世記をさらに読み進めることでますます明らかになってゆくと思われます。次回はその意味でノアの話を考えたいと思います。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次回2月25日 四旬節第2主日
説教題:ノアの洪水
説教者:白髭義 牧師
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