日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

3月5日の説教

2023-03-08 15:22:21 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年3月5日(日)
四旬節第2主日
「神の愛とは」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
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「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。このメッセージを人に伝えることが自分の使命であると感じている若者がオランダにいました。その名はヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。のちには画家の道を歩む彼は、今はキリスト教の伝道で身を立ててゆくことを真剣に考えていました。
ゴッホは、その父親が牧師であり、またその家系にも牧師だった人が何人もおり、彼も子供時代から、聖書を読むこと、お祈りをすることは身についており、自分の招来を牧師として考えるのはごく自然のなりゆきでした。
ゴッホは、1853年、オランダのズンデルトという町の牧師館で生まれました。彼は長男で、下に弟と妹が5人いましたが、その中の一人、テオという名前の弟も兄同様あとで有名になります。16歳になると、親戚の半強制的な世話でハーグという町の画廊に就職しました。最初は働き者の評判でしたが、一人の少女に恋をしてふられてからは急に無口になり、そのためか聖書にのめりこむようになり、仕事に身が入らなくなり、パリ支店に左遷となりますが、そこでも勤務態度が好ましくなく、ついに解雇となりました。
画廊とは美術品を売買する仕事でしたが、彼はその仕事をあまり好まず、今後の人生を考え始め、自分はキリスト教の世界でやってゆこうと思いました。しかしそれは、その仕事を介して人々に救いの手を差しのべるという意味で、宗教に逃避する姿勢ではありませんでした。さて、そのため彼は、神学校に行く決意をしました。ところが神学校に入るためには、ラテン語とギリシア語の試験をパスしなければなりませんでした。夢中で勉強しましたが、ラテン語はかろうじてなんとかなったものの、ギリシャ語で落とされてしまいました。
そこで今度は、さほど難しくはない伝道者養成学校に入学し、そこを出たのちベルギー南部の炭鉱地帯に行き、おそらくかつて筑豊にもあった炭住と同じ感じの住宅を間借りし、教会にある伝道委員会に許可してもらって、半年限定の臨時の説教伝道者として働き始めました。そしてその土地でバイブルクラスを開き、子どもたちの勉強を見るようになり、病人たちを見舞うという内容の仕事が始まりますが、これこそ彼がいちばん望んでいた仕事だったのでした。
ただ、そういうことをしているうちに、もっと困難な仕事をしなければという思いに駆られるようになり、お金もベッドも服も貧しい人たちにあげてしまい、ガランとした部屋での寝泊りを始め、自分は炭鉱夫たちと共に生きるのだからという思いから、地下700メートルの坑内にまで入ってゆき、そこで爆発事故が起きると重傷を負った炭鉱夫に寄り添いわが身のように介護するなどの行為に及んだために、伝道委員会は、そういうのは伝道師の仕事から逸脱しているから止めるようにと勧告してきました。けれども彼が言うことを聞こうとしなかったので、教会は彼の伝道師の身分をはく奪した。要するにクビにしたのでした。
しかしゴッホはなおも留まり続け、ずっと以前から始めていた絵を描き続けます。それは、炭鉱夫やその家族、その生活用品や、石炭掘りの道具などのデッサンでしたが、それを描きつつ心は、本格的に画家になることに傾いてゆきました。この時期が、のちに世間が認める本格的な画家になった出発点だったのでした。
ところで、ゴッホの生涯はきわめて短く、37歳で亡くなっています。そして本格的な画家になるためパリに出て行ってから死ぬまではわずか5年でした。しかし、その5年でのちの人々が目を見張るようになる名画を次々と生み出したのでした。けれども、美術史という専門的な観点からすれば、フランスに行く前にも書き続けていた5年間も絵画制作活動をしていたのであり、従ってゴッホの画家としての活動期間は10年と見なさなければならないのでした。しかしその前半つまり炭鉱町で描いた5年間はそれほど注目されないままに今日に至っているのであります。
しかし、考えてみれば、若い頃あれほど牧師の仕事がしたいと思っていた彼でしたが、後半その考えを大きく変えていたのでした。それはズバリ言えば教会への不信でした。それに対して、教会は彼を無能で社会への適応力のない人間と見なしていました。従って彼が炭鉱町で本格的な画家になろうと決意したことは、既成の教会と決別することなのでした。
しかし、美術研究家の木下長宏さんは言います、それは信仰を捨てたと言うことではない。既成のキリスト教への失望がかえって、真実な信仰を見つけたいという思いなったにすぎないからである。木下さんは言います。その時期のゴッホには、真実な信仰に近づくためには、芸術こそが有力な方法だと思えたのである。
ところで、木下さんは、ゴッホ絵画の宗教性を語っているユニークな学者です。しかし、ゴッホはキリストの絵は一枚も描いていないのです。けれども木下さんは、ゴッホの自画像に注目しなさいと言います。そのあまりにも短い生涯に描いた自画像があまりにも多いからです。そこで木下さんは、ゴッホはキリスト像を描くようにして自画像を描いていたと言うのです。けれどもこの種の議論は、かなりの知識や絵画理論も要求することなので、わたしたちはここまでにしたいと思います。そこで木下さんの言葉をあともうひとつ。「ゴッホの自画像の中にイエス的なものが立ち現れる」。
ところで、ゴッホのように教会から離れていく人間を、教会内に留まっている人たちは脱落者と見なしがちです。けれどもゴッホの宗教性は生まれながらに備わっていたもので、それは死ぬまでそうだったと木下さんは言います。つまり、人の信仰は外見だけでは判断できないということでしょうか。そのことを私たちも、自分のこととして受け止めてみたいと思うのであります。

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