バーチャルリアリティ奥儀皆伝(7)

2019-09-26 | バーチャルリアリティ解説
「補講B : 『ミミ号の航海』から Windows 95までの Multimedia」

1960年代の Multimediaは、米国西海岸の大学などで行なわれていた ロック・コンサート( サイケデリック・イベント )でした。画質が悪いロンドンでの映像しか見つけられませんでしたけれど、こんな感じのイベントです。(消されました。下の映像出典参照。)「要は、
 (1) 舞台進行者や照明機器の操作者が、サイケな画像を舞台いっぱいに投影します。
 (2) その映像を背景にして、Pink Floydの生演奏などのロックコンサートが行なわれます。身体をサイケに塗りたくったパフォーマーが、その横で、くねくねと怪しい動きを見せています。
 (3) つまり( 今の言葉で )例の、視野の 3分の2以上の没入感( トランブルさんの しきい値 )を使って、LSD( ドラッグ )を飲んでいないその場の素面の観客にも、LSDを飲んだら、どんな映像や恍惚感が感じられるかを見せて上げようとする親切なイベントだったと思われます。
ちなみに、サイケな映像のアイデアとしては、オルダス・ハクスレー著『知覚の扉』( The doors of perception、原著 1954年、邦訳あり )に記述された幻覚剤( ここでは、メスカリン )によるハクスレー自身の内面の変容の記述などが、参考にされたようです。様々な抑圧によってゆがめられていない「本当の世界の姿」を見たり、「普遍的な精神のあり様」に近づく、といったスピリチュアルなことが試みられたようなのですが、しかし、当時、興味本位で ドラッグに手を出した多くの人たちには、ただ「自分の恐れや 幸福感」の増幅されたものが見えただけでした。また、66年には英米で LSDが非合法化され、それにつれて「サイケデリック・イベント」も下火になったということだったようです。
映像出展:消されたので こちら を参照して下さい。Soft Machine with Daevid Allen live at UFO in 1967。(上に書いた「こんな感じのイベント」には、Psychedelic Swinging 60s London Hippie Party, Pink Floyd, Rare 1960s Archive Footage https://www.youtube.com/watch?v=LEzMlSu-_xU をリンクしていました。)

ちなみに、こうした 60年代型 Multimediaパフォーマンスの、今日の 「洗練された展開形」として、例えば、
・ George Coates氏の Performance Works 動画:https://www.youtube.com/watch?v=adO9_7tDEBU (冒頭1分半の舞台映像)
などに、その雰囲気が良く出ているように思いませんか。舞台の大きさ いっぱいに作られたCG映像の上で、演者が何かを演じています。
プロジェクターを用いた、このようなCGによる舞台公演は、最近のオペラ劇場で目立って増えています。


余談ですが、モーツアルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の 舞台美術をCG化するというのは、抜群のアイデアだと思われます。第3幕には、女たらし貴族の ドン・ジョヴァンニに「悔悛」を迫るため、地獄から騎士団管区長の「石像」が現われて、ドン・ジョヴァンニと一緒に食事をする、という重要な場面があるのですが、ここで部屋の造作が「ベニヤ板の書割り」に見えたり、石像が「着ぐるみ」に見えると、この大事な場面は全体が「コント」に、なりかねないのです。それで、記録用カメラの高精細化で、どこの歌劇場でもこの場面には頭を悩ましていたところですが、全場面をプロジェクション・マッピングによる CGにしてしまえば、確かに書割りの違和感は無くなります。
d3 Technologiesの David Bajt氏( byteと発音 )が Royal Opera House 2014で製作した Don Giovanniの美術。
動画: disguise realtime simulation and playback, Don Giovanni at the Royal Opera House, London 2014 https://www.youtube.com/watch?v=z8taC15GbWA
画像出典:https://esdevlin.com/work/don-giovanni
日本公演: https://www.nbs.or.jp/stages/roh2015.jp/don-point.html


 60年代の Multimedia:( 観客にとってのインタラクティブ性は無いが、舞台進行者や照明機器の操作者が舞台の一部をインタラクティブに操作して演出できる )サイケ・イベント。映像、音、パフォーマンス。
 ( 当たり前ですが、観客が照明の当たる場所を変えたり、シナリオ展開に直接関与することは、できません。)

さて、60年代にあった「マルチメディア」という言葉に。全く新しい意味を吹き込んだ女性がいました。Sueann Ambronです。後に説明しますが、 『ミミ号の航海』( 1984年 )という、全米の教育史上で最も重要なPC教育システムの製作に係わったスタッフの一人です。

とりあえずは、雑誌 WIRED( 米国版 )が出版した珍しい PC用語集 『Wired Style: Principles of English Usage in the Digital Age』( Constance Hale編、Hardwired社刊、1996年初版 )の Multimediaの項目を覗いてみましょう。面白いことが書いてあります。
「Multimediaという言葉は、従来使われていた意味を離れて、Sueann Ambronが( PC分野の新造語としての )新しい意味を与えた。それは、彼女がアップル社に、将来性溢れる Multimedia Lab.を創立したときのことだった ( が、その Lab.は現在は廃れている )」( p.74 )

説明が細かくなるので、興味の無い方は、読み飛ばして下さい。ただ、80年代後半の Multimedia PCや、 CD-ROMの開発の歴史については、まるで、三国志を読んでるみたいに面白いんです。簡潔に書きます。
上記の 『Wired Style』の 「Multimediaの項目」の説明は、正しいです。ただ、より詳しく言えば、次の通りでした。

(1) Sueann Ambronが、PCによる教育システムの分野に 「Multimediaという言葉」を持ち込んだのは、1984年のことでした。『ミミ号の航海』の宣伝用パンフレットに Sueann Ambronが書いた文章を、私は、新しい Multimediaの誕生だ、と考えています。私が持っている宣伝用ちらしの当該箇所をコピーして、画像で張り付けておきました。(『ミミ号の航海』についての詳しい説明は 後に書きます。)
(2)さて、 『ミミ号の航海』の開発が終了して間もなく、Sueann Ambronは、スティーブ・ジョブズからアップル本社まで来るよう呼ばれました。MITの メディア・ラボに対抗して、アップルに Multimedia Lab.を作って欲しい、というのです。Ambronは、元アタリの研究所時代に同僚だった Kristina Hooperを この Lab.の共同設立者として呼び寄せます。Hooperが、 『Aspen Movie Map https://www.youtube.com/watch?v=2Ytd12d6qNw を開発したチームの一人だったことも大きな理由でした。こうして、アップルに Multimedia Lab.が設立されました。1985年のことです。『Wired Style』は この時を、新しい Multimediaの言葉の誕生の時だ、と書きました。

以下のジョブズの言葉は、状況証拠からの私の想像ですが、内容には確信があります。

(3) Hooperがアップル本社に到着したので、ジョブズ、Sueann Ambronの3人は、これからのMultimedia Lab.について相談しました。ジョブズは、例の長い脚を持て余し、机に腰かけていたかも知れません。ジョブズは、言いました。Lab.での研究は、何でも良いんだ。例えば、
・ 「あの 『ミミ号の航海』のパッケージに同梱していたAppleⅡ用の教育ソフトがきっかけで、多くの企業がアップルに、教育用ソフトの共同開発を申し込んで来ている。面白そうだが採算に乗りにくいものは、Lab.の研究にすれば良いんじゃないか。」
・ 「それから、今、インテルが開発しているDVI ( Digital Video Interactive、CD-ROMのデータ形式の一つ )についても、その使い方を考えてみると、面白いと思うよ。」
「なんですか、DVIって。」「うん、直径12センチの虹色の小さなディスクなんだけど、そこに、PCのソフトと、テキスト、画像、動画が全部書きこめて、屋外でも携帯用のPCがあれば、それを全部、再生できるんだよ。」

このとき、Sueann Ambronは、思わず息を飲みました。そんなPCこそ、自分が 『ミミ号の航海』のビデオで、「近未来には屋外でも自由に研究に使えるPC」として、映像で詳細に描いていた PCの未来像でした。Ambronは、自分が Multimedia Lab.に呼ばれた真の理由を悟りました。

Ambronは、ジョブズに尋ねます。「DVIは、、、ユーザが PCを使って 『教育用マルチメディア・パッケージ』を、統合して操作できるツールなんですね。実は、ミミ号のパッケージに同梱した AppleⅡ用の教育ソフトを選ぶ中で、学生が自由に大量のデータベースを参照して、自分たちの独自研究をまとめ、研究発表をするというアイデアがありました。DVIを使えば、そんなソフトが実現できそうです。( なお、ここでの”学生”は、小4から中2までの学生です。)」
ジョブズは答えます。「素敵なアイデアだね。是非とも、進めてくれたまえ。それと、僕のほうにも事情があってね、去年発売した Desktop publishing用 Macintoshが 販売計画の10分の1しか売れていない。君たちが、 Mac+DVIという可能性を見つけて、Macに ”教育市場”という販路が広がれば、今後 Macも持ち直すからね。予算も、これから財務部に掛け合って充分に確保する。ぞんぶんにやってください。」
ところが、青天の霹靂が起こりました。ジョブズが、スカリー社長によってアップル社から、1985年5月に突然 追い出されてしまったのです。

この後、、、アップルのMultimedia Lab.は、いったい どうなってしまうことでしょう。

少しだけ、時計の針を前に戻しましょう。1984年に登場した 「子供たちに将来のPCの使い方を教える」教育用パッケージシステム 『ミミ号の航海』は、その斬新性と、良くできたドラマ映像の面白さが大変に話題となり、一時は、全米の60%の小学校で、実際の授業でこの作品が使われていたそうです。対象は、小学4年生から中学2年生です。
箱をあけると VHSビデオが13本( 各巻にドラマと ドキュメンタリーが各1本 )、ビデオ内容の解説テキスト、壁掛けやチャート類、AppleⅡ用のソフトが4種類、教員同士で意見共有できる専用のパソコン通信も用意され、このほか教師用の手引書も用意されたそうです。

このシステムの宣伝用パンフレットにSueann Ambronが書いた文章で、Multimedia の新しい時代が始まりました。

◎ アンブロンの84年の Multimediaの定義

「マルチメディア」という言葉が、現在使われている意味で登場したのは、米国で発売された教育用マルチメディア・パッケージ “The Voyage of the MIMI”( 『ミミ号の航海』、1984年 )が発売されたときでした。その宣伝用パンフレットの冒頭に、Sueann Ambronは、次のように誇らしげに書いています。

『ミミ号の航海』は、ビデオテープ( に録画された教育番組 )の映像と コンピュータソフト、そして印刷教材の良いところを組み合わしたマルチメディアパッケージです。今日の教育現場で使用できる、最も魅惑的、かつ革新的なプログラムの中の一つを、皆さんにお届けします。
(”The Voyage of the MIMI is a multimedia package that combines the advantages of video, computer software, and print materials to bring you one of the most fascinating and innovating programs available in education today.”)

このPC教育用マルチメディア・パッケージ全体の開発責任者は、教育番組 『セサミ・ストリート』のプロデューサとして有名だった サミュエル・Y・ギボンJr.でした。ギボンは、 『セサミ・ストリート』で エミー賞を受賞しています。
『セサミ・ストリート』は、NHK教育テレビ 字幕付き英語教育番組枠で放送されましたから、私は時々観て、大変感心していました。
せっかくですので、セサミストリート: クッキーモンスターが 「CはクッキーのC」を歌う (日本語訳付き) https://www.youtube.com/watch?v=BGRHcRJ3PTE の動画を貼っておきます。

さて、『ミミ号の航海』のビデオですが、非常に良くできた ドキュメンタリー・タッチの物語です。「おじいさん」が、ザトウクジラの頭数調査に出かけるので、小学校高学年の孫(“ベン・アフレック”が本名で登場! )たちが一緒に海に出て、おじいさんたちがどんな研究をやっているのか興味津々で説明して貰ったり、機械も操作させて貰うというお話です。あとで詳しく触れますが、まだ1984年には世の中になかったラップトップPCやCD-ROMが登場しています!
Sueann Ambronは、そうした作品の製作スタッフの中で、最重要な役割をした一人でした。

『セサミ・ストリート』のギボン氏が、バンクストリート教育大学 数理教育プロジェクト長に就任したことで、『ミミ号の航海』が製作されることになりました。
この作品は、今見返すと、PCの描き方が、クッキーモンスター級に、とんでもない作品です。私は1984年頃には、PCに係わるソフトの新規事業開発をしていましたから良く覚えていますが、実際の1980年代の前半は、まだ IBM PCが やっと1981年に発売されて、デスクトップPCが普及し始めた、というタイミングです。渥美清さんがタキシードで登場したIBM PCの新聞広告、覚えていませんか。Macの発売も、1984年です。どちらも屋内専用機でした。
ところが、『ミミ号の航海』では、屋外の船上で、平気でPCが画像検索に使われています。実際に屋外でも使用できるラップトップPCが発売されたのは、80年代も末のことでした。

だから、このビデオによって、当時の米国の小学生たちは、近未来のPCの使い方のリテラシー( 理解力 )を学んでいたのです。おじいさんは、言いました。「海上で出会ったクジラの種類を調べるには、尾ひれを写真に撮って、その形をコンピュータに保存してあるいくつものクジラの尾ひれの写真と比べてみれば良いんだよ。」
その通り ・・・ なんですけどね。
しかし、1984年には、ラップトップのPCだけではなくて CD-ROMもまだ「無かった」のです。
ついでに言うと、CD-ROM搭載の「メガCD」をセガが発売したのは ずっと後、1991年末のことでした。分かります? このビデオは、近未来にCD-ROMの付いた PCを使えば、こんな研究ができるんだよ、と、小学生に PC活用の勘所を教える 映像作品だったのです。
ですから、この『ミミ号の航海』というビデオ作品は、実は全体が 近未来を舞台にしたSFでした。何度も繰り返しますが、1984年という年は、家庭には、テレビにつないだファミコン( 83年発売 )、そしてオフィスには、デスクトップのPC、しかまだ無かった、そんな時代だったのです。
 「教育現場で授業をされる先生方へ。『ミミ号の航海』は、どういう内容か?」( ギボン氏による解説 )
 What Is the Voyage of the Mimi? - A Guide for Educators - 1985
 https://www.youtube.com/watch?v=RoriafIc6jE

そして この『ミミ号の航海』のシリーズの製作が終了したので、先に書いたように、ジョブズがアップル本社に Sueann Ambronを呼び寄せました。
このとき、「ジョブズの直感」で、Ambronを DVIの開発チームに1985年に引き合わせたことによって、インテル社のDVIチームには、DVI開発の具体的な目標が生まれたのだ、と私は想像しています。
 『ミミ号の航海』のビデオでやっていたことは、とりあえず全部できるようにCD-ROMの仕様を作る、
というのが、当面の目標です。

余談ですが、私は1984年に NTTからの依頼で、「キャプテン・テレソフトウェアプロトコル」という規格を、友人の稲垣さんと二人で、ボランティアで作ったことがあるのですが、用途が明確な 一次元の通信規約でも、作るのにずいぶん頭を悩ませました。
CD-ROMの規約については、この頃、世界中の研究機関が、やっきになって 「使いやすい仕様」についての策定を試みていました。しかし、動画、デジタル動画の圧縮技術、静止画、テキスト、音声、そして、それらを同期させる技術について、と、考えることは山ほどあります。こちらを立てれば、あちらが立ちません。
そんな中で、『ミミ号の航海』のビデオ、という目標ができたことは、研究の進展に大いに役に立ったと、私は想像しています。これ以降、インテルのDVIの研究開発は 急速に進みました。

「Ambronさん、宜しくお願いします。『ミミ号』のシリーズは、たしか Part.3 までシナリオが出来ていたんですよね。」といった会話も、アップルの Multimedia Lab.では交わされていたかも知れません。しかも、Ambronは、DVIを活用して、ユーザたちがどのように自分たちの研究に PCを使うか、についても具体的なイメージを持っていました。 そして、、、

1987年の運命の日が、やってきます。この年に開催されたマイクロソフト社主宰のCD-ROMコンファレンスの会場で、「DVIのお披露目」は大絶賛で、会場の出席者からの大歓迎を受けました。
インテルの DVIの規格は、デジタル処理による ビデオ動画圧縮技術が優れていたこと、つまり、PCのモニタを通して、テレビの番組が見られたことや、Ambronたちの示唆によって、豊富なアプリケーションに途が開かれていたことなどから、その特長が抜きんでて注目を集めました。( なお、この時代の PCモニタは、13 - 15インチの白黒が普通でした。)

これで、DVIの仕様は、CD-ROM国際標準規格の一部に採用されることが事実上決まりました。本当に良かったと私は思います。インテル DVIチームと Ambronたちの、苦節の たまものでした。そして、ジョブズの直感から生まれた、Ambron + DVIというコラボの奇跡は、この後、1990年の Multimedia PCという「規格」にも結実します。

Multimedia PCは、ある意味、奇跡の産物でした。マイクロソフトや、インテルやアップルは、研究開発で互いに競争している関係でしたから、協力して PCの規格を定めるなんて、普通にはあり得ません。ところが、全米次世代テレビの規格に関して、「PC業界で協力して、テレビも映るPC、スマートTVの規格を一つにまとめてみてくれないか」と、連邦通信委員会からの打診があったのです。それで、1987年から マイクロソフト、インテル、アップルなどが一致協力して、仕様を策定しました。( ジョブズは、当時 NEXTコンピュータの開発中で、この集まりには いませんでした。)
この Multimedia PCの一番の売りが、( 当時開発途中だった ) 「CD-ROMが付いていること」でした。

 MPC 協議会の MULTIMEDIA PCの仕様 (1990年) →   その後改訂されて Lavel 1, 2, 3 を発表

CPU: 486SX ( 25MHz ) 相当品
メモリ: 最小4M( 推奨8M )‏
磁気記憶: 3-1/2 in フロッピー、200M HD
光記憶: CD-ROM ( このPCの一番の売りが CD-ROMの搭載でした )
オーディオ: 16bit デジタルサウンド、44.1k ステレオ
グラフィックス: 640×480、6万5536色
I / O: 略
システムソフト: Win3.0 + MME or Win3.1バイナリ互換

ええと、ちょっとだけ細かいことですが、先に注釈しておきます。

話が、ややこしくなるので、DVIの規格について、ここまで全部を 「インテルの規格」と呼んで紹介してきました。・・・ 違うんです。
当初、DVIは、米国 RCAの由緒ある David Sarnoffリサーチセンターで1984年頃から開発が始められました。ですから、ジョブズが Multimedia Lab.で、Ambronたちに紹介したのは、RCAの社員たちでした。ところが、RCAは1985年12月にGEによって買収されてしまいます。GEには他に、良く似た研究施設が山のようにありました。
しかし、歴史と実績ある David Sarnoffリサーチセンターという名前の重さから、この研究所を潰す、という選択はGEには取ることができません。この後、1987年頃まで、大変優秀な この研究所のメンバーは、GE傘下ではあるけれど、組織として安定しない中途半端なポジションで大変なストレスにさらされました。 ですから、

1987年のマイクロソフト社主宰のコンファレンスで、大絶賛を受けて歓迎されたDVIの開発チームは、
正確には、( 所属の安定していない )「GE傘下の David Sarnoffリサーチセンターのメンバー」
だったのです。

しかし、87年のコンファレンスで、DVIの規格は CD-ROMの国際標準化への、是非とも必要な技術に認められました。それで、この David Sarnoffリサーチセンターの DVI研究部門については、インテルが GEに、買収を強く持ちかけたのだと思います、間もなく「インテルの」一部門になりました。CD-ROM国際規格が1989年に公開された時には、DVIは 「インテルの規格」として登録されました。大変良かったと思います。
David Sarnoffリサーチセンターのメンバーは、GE傘下での自分たちの不安定なポジションに負けることなく、DVIの仕様を本当に将来性のあるものに確定させたのです。大変優秀なスタッフたちでした。

余談ですが、PC用の新規事業開発をしていた私にとっても、1985 – 90年というのは激動の時期でした。

PCのビジネス用アプリを収めた当時の「フロッピー・ディスク」は、昼食のサラダのドレッシングが飛んだだけで、すぐに読めなくなりました。国際規格の CD-ROMが出れば、容量的にも画期的です。
マイクロソフトプレス社から 『CD ROM the New Papyrus: The Current and Future State of the Art』( 原著1986年、邦訳87年、アスキー出版 )という書籍が出たのも、正にこの頃で、この本を読んで、世界中のPC関係者が、「本当に使いやすい CD-ROMが普及しますように」 と祈りながら、データストレージのあるべき姿を思い描きました。私も「メメックス」の邦訳を読んだのは、この本が初めてでした。

「良くできた CD-ROMが発売されることで、PCの普及を妨げている問題は、大半が解決する」

少しですが、そうした雰囲気が、1987年頃のPC業界に あったことも事実でした。

ところで、、、1985年にジョブズが会社を去った後の、アップルのMultimedia Lab.について、ここで触れておきます。

ジョブズが去った直後、Lab.の予算は、直ちに凍結されました。しかし、AmbronもHooperも 教育業界では広く知られた人物です。他社との対外的な共同研究には、始まっているものもありましたから、Ambronは「新規市場開発担当」、Hooperは リサーチャーという肩書で、アップル本社で仕事を続けていたようです。
そこに、1987年のマイクロソフト社 CD-ROMコンファレンスでの、「DVIのお披露目」の大騒ぎが起きました。当然、AmbronとHooperの貢献も、大きく注目されました。CD-ROMの宣伝に、有名なこの二人の名前を使わない、というのは、むしろ損失です。

それで、ビル・ゲイツ氏が、アップル社のスカリー社長に丁重に尋ねました。
「アップル社主催で1986年に、 『教育におけるマルチメディア』という立派なコンファレンスを開催しておられましたよね。ご検討頂きたいのですが、その時の内容を一冊にまとめ、マイクロソフトプレス社から、わが社の看板シリーズの ”CD-ROM 3”として出版させて頂けないでしょうか。是非、その際には、AmbronさんとHooperさんのお名前を、本の共同編者として表紙に載せて頂いて、、、」
「アップルのロゴですが、表紙に載せられますか?」 「もちろんです。」 「それでは、お話しを進めて下さい。」

もしかすると、スカリー社長は Ambronたちの仕事の重要性を、この頃 まだ意識していなかったかも知れないのですが、ともあれ、Ambron、Hooper共編の 『Interactive Multimedia』( 1988年 )は、 マイクロソフトプレス社から刊行されました。ダグラス・エンゲルバートの基調講演なども含まれていました。スカリー社長も、「巻頭言」を書いています。
やがて、スカリー社長も、Macが ”教育市場”に売れて販売が持ち直したことに気付きました。教育業界で Ambronは大変に権威がありましたから、Mac + CD-ROMでの”教育市場への展開” も、ありかもしれない、と思います。そういえば、1985年に ジョブズが、「Macの教育市場への展開」を強調していたことも、思い出されて来ました。

それで、誰かが スカリー社長に、こんな質問をしたのかも知れません。「Multimedia Lab.って、アップル社内に あるんですか?」
「いや、もちろん、、、ごほん。ごほん。昔から、アップルにありますよ。」
おそらく、こうして Multimedia Lab.が復元され、Hooperが その Directorとして復帰します。Ambronは、Lab.には入りませんでした。もしかすると、「今度は スカリー氏が辞めたときに、まずい」 と読んでいたのかもしれません (笑)。

1990年出版の 前著の続編 『Learning with Interactive Multimedia』( マイクロソフトプレス刊 )では、Hooperの肩書は Director, Multimedia Labになっているのですが、Ambronの 90年の 肩書については、Manager of New Technology in Educationで、これまでの経歴のところに、アップル Multimedia Labの「共同創設者」です、と書かれていました。

 Ambronの1984年の Multimedia の定義: 教育ビデオと コンピュータソフト、そして印刷教材のメリットを集めた教育パッケージ。

 1990年のInteractive Multimedia の定義:
 コンピュータによって音声や映像をユーザーがコントロールすること。より、一般的には、音声、映像、アニメーションをテキストやグラフィックに統合するためにコンピュータを利用すること。いつの日にか、こういった統合に感覚装置を含むようになるだろう。
 ( ※ 動画が ここに記載されていないのは、1980年代には まだPCのユーザは、動画を直接、操作できなかったからです。)

 ※ 最後に引用した Interactive Multimedia の定義は、『マルチメディア- 21世紀のテクノロジー』( アラン・ケイ他著,浜野保樹訳、岩波書店、1993年、原著1990年 )巻末の「用語、概念、略語」に掲載されている、浜野氏訳から引用しました。ところで、この「出典」を アンブロン、ケイなどの著作に必死に探したのですけれど、見つかりません。現在私は、アラン・ケイ氏が 同著巻末の用語集のために新しく執筆した 1990年時点の 定義ではないか、と考えています。ケイ氏は、元アタリ研究所で Ambron、Hooper たちの 上司 ・ 指導的グルだった人物です。

この、 1990年のInteractive Multimedia の定義は、Windoes 95に引き継がれることになります。

 ******

ということで、続いて Windoes 95の説明に入ろう、と思ったのですが、

今、読み返してみると、CD-ROMの開発秘話、ばかりですね。これは これで、今回 新発見の 「ジョブズの直感」の話などもありましたから、面白いことには間違いない、と思うのですが、
Sueann Ambron が考えていた、進化した「マルチメディア」のイメージが、今一つ描かれていませんでした。

Ambronは、 『Learning with Interactive Multimedia』( 1990年 )に、The Apple Visual Almanacを例にして、小学生が自習する方法を述べています。
The Apple Visual Almanac 動画 : https://www.youtube.com/watch?v=5OC4JLIsv2o
The Apple Visual Almanac 解説 : https://www.domesday86.com/?page_id=2548
アルマニャック ( 絵ごよみ、年鑑 )の画像が、豊富に レーザーディスクに収録されており、CD-ROMが制御します。

学生は、自由に レーザーディスクの画像データを参照して、自分の独自研究を文章にまとめます。
その研究を発表するページを作り、その内容を PCのメモリに置いたり、フロッピー・ディスクに保存したりできますから、お互いの研究内容を ハイパーテキストで 参照・比較しあって、
学生たちが( 先生の指導なしでも )独自に競って、自分たちの自由研究を進めるだろう、というアイデアです。
この本では Interactive Multimediaの特長として、87年にアップルで開発された HyperCardを 「統合ソフト」として使うことで、小学生でも簡単に、自分の研究発表のページに 音声や画像を統合できること、が強調されました。

◎ 95年のマイクロソフト社の Multimedia の定義

Windows 95のコントロール・パネルには、「マルチメディア」というアイコンがついていました。

ビル・ゲイツ氏は、ニューヨークタイムズにコラムを書いていて、それが日経新聞に訳載されています。Windows 95の「マルチメディア・アイコン」については、当然、読者からの 「これって何ですか?」の質問が来ると予想されたためでしょう、ゲイツ氏は、こう書きました。
「マルチメディア コンピューターには、文字、絵、動画と 音を扱う インタラクティブ( 双方向 )な タイトル( 作品 )をかけられる。双方向とは、使う人が見るもの、聞くものを自由に選べるようになっていることだ。」

Windows 95では、動画編集ソフトがOSに同梱されました。その効果は、非常に大きかった と私は思います。

これも余談ですが、1990年の11月に、私は米国で、Amiga用の Video Toasterの新版デモを見ています。

トランブルさんたちとの AS-1 『MUGGO!』の契約打合わせで、米国に長期滞在していた時のことでした。出張も長期になったので、「今日は全員休日」と決めた日が、ありました。めいめい市内観光などに出かけたのですが、私はAM1研の 荷宮さん( セガ『コラムス』開発者 )から誘われて、米国西海岸の Amiga専門店に行くことに決め、ホテルから 2時間くらいを 荷宮さんに運転して頂いて出かけました。Amigaユーザーだった彼が、どうしても Amigaショップに行ってみたいと言ったためで、私は、その店に到着したばかりの、当時最先端のビデオ編集ソフト Video Toaster の新版デモを見ることが出来ました。

ゲーム会社以外の方には、ピンと来ないかも知れませんが、当時 Graphics Workstationは、一台300万円位でした。別売の開発ツールも高額で、300万円くらいです。機能が劣るとはいえ、PCで簡便にビデオ編集ができるのはゲーム開発者には大助かりでした。
先行していたのは、Amiga用の Video Toasterでしたが、アップルの QuickTimeの猛烈な追い上げと、さらに、マイクロソフト社の Video for Windowsのもっと猛烈な追い上げを、ゲーム業界の開発者は全員が注視していました。

その競争の結果として、世界で一番普及しているWindowsパソコンに動画編集ソフトが標準搭載されたのです。

この結果は、画期的でした。Ambronの84年の Multimedia の定義にあった、ビデオ動画、PC用ソフト、そして、印刷教材は、その全てが一台のPC( Windows 95 )から、統合的に操作できるようになったのです。
私のマルチメディアの構成図 ( ダイアグラム )で、表わしておきましょう。
                     
               表示装置        ←     統合された開発ツールの世界
               ( 13-15 inchの            動画、静止画、テキスト
               白黒モニタ )             ハイパーテキスト等
 < PCの所有者 >
                                   ( Cyber World )
                                       ↑
               キーボード             ――――――

実は、1995年のビル・ゲイツ氏には、若干の諦念があったようにも、私には思えます。
MULTIMEDIA PC( 1990年 )は、PC業界が全力で策定した自信作の、CD-ROM付き( しかも、テレビも観られる )PCでした。
しかし、TV業界では、日本製のハイビジョンに対抗するための米国製の 「あて馬」という意味のほうが強かったのです。

故浜野保樹先生によれば、全米のテレビ業者の業界団体では、「日本製のハイビジョン規格の米国流入を認めたら、( 日本車のように )米国のテレビ市場の利益を、全部、日本に持って行かれるだけだ。だから、絶対にハイビジョンを米国の標準にすることだけは、やめよう。米国のデジタル・テレビ市場の規格は、ハイビジョン以外だったら何でも良い、ということにしよう」と最初に決めていたそうです。
( これについては、ジョエル・ブリンクリー著 『デジタルテレビ日米戦争 - 国家と業界のエゴが「世界標準」を生む構図』、浜野訳、アスキー出版、2001年 という好著があります。)

それで、連邦通信委員会がネグロポンテ教授に、「日本製ハイビジョン規格の評価」を依頼すると、こんな驚きの調査結果が報告されました。
「日本が米国に次世代テレビの規格として売り込んでいるハイビジョンに関して調査した。ハイビジョンは、一か所だけ、( 普段は使われることの全くない )その衛星通信の一部に 『アナログ回線』を使用しているので、全てがデジタルとは言えない。従って、米国の次世代テレビとしての『デジタル』テレビの規格には、ふさわしくない。」つまり、全米のテレビ業界が主張するように、「日本製のハイビジョンの規格が採用されて、日本から輸入されて箱を開くと、そのまま米国のテレビが映るような将来は望ましくない」という見解に沿った意見が述べられたのです。MITの ネグロポンテ教授の、こうした特異とも呼べる調査結果に関しては、NHKや SONYの技術者は、お前 正気か? と耳を疑ったそうです。

こうした騒動の中で、MULTIMEDIA PCも、ハイビジョンへの 「あて馬」だったことが分かってきました。連邦通信委員会も「もし売りたいんだったら、どうぞ」という構えです。「デジタルテレビ」は映りましたが、PC用ソフトに互換性が無かったので、MULTIMEDIA PCとしては 非常に限定されたごく少数の販売台数に終わりました。

それに、期待の 「CD-ROM」についても、1991年末のセガの( CD-ROM搭載の )「メガCD」を見て分かる通り、ヒットゲーム会社のような大企業が、ゲームを面白くするために 「大容量のデータを用意しました」といった、目的が明確な使われ方以外には、ユーザにアピールしないことも分かってきました。

それで、パソコンの使い方は、「一台一台の所有者に任せよう」 と、

ある意味、アラン・ケイが最初に、『Microelectronics and the Personal Computer( SCIENTIFIC AMERICAN September 1977 )に書いたように、素人ユーザが簡単なプログラム言語で、日常の自分の必要な仕事に PCを使いこなすという現在の PCの主流の使われ方に、マイクロソフト社が舵を切ったのが 1995年だった、と私は理解しています。
PDF:http://dreammachin.es/Kay_SciAm_77.pdf

 95年のマイクロソフト社の Multimedia の定義:
 「マルチメディア コンピューターには、文字、絵、動画と 音を扱う インタラクティブ( 双方向 )な タイトル( 作品 )をかけられる。双方向とは、使う人が見るもの、聞くものを自由に選べるようになっていることだ。」

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余談ですが、1990年頃の個人的な思い出に、少しだけ触れさせて下さい。

この頃、セガの人材開発部長から、セガの役職者向けの休日勉強会 「土曜セミナー」のために適当な講師はいないだろうか、と相談されて、故 浜野保樹先生に講演をお願いしたところ 二つ返事で快諾をいただきました。
このとき、なんと、米国内の「スマートTV」をめぐる虚々実々のTV業界の かけひきを、「今、そこで見てきました」といった調子で浜野先生から興味深く聞かせて頂くことができたのです。本当にタイムリーで幸運なことでした。特に、NHKと SONYが心血を注いだハイビジョン規格についての米国での理不尽(unfair)な扱われ方に、浜野先生は、そうとう憤慨しておられました。
1990年といえば、( 私は業務用機の担当でしたから、直接、家庭用ゲーム機には係わっていませんでしたが )セガとしては、CD-ROM搭載のゲーム機を、いつ米国に投入すれば良いかで、胃を痛くして検討していた頃でした。


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