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宮崎城跡(北陸宮墳墓)

2010-09-12 02:04:38 | 史跡
 隆慶一郎著「一夢庵風流記」。前田慶次郎利益という無名の武将(色々逸話は残っているし、海音寺潮五郎作の作品もあれば、池波正太郎の真田太平記に名前だけとはいえ、触れられてはいる)の名を一躍有名にし、「花の慶次」として漫画化もされた最後の完成された長編で、上杉景勝の佐渡征伐に参戦しようとする前田慶次の親友である奥村助右衛門が、四井主馬の元を訪れ、たった四語で、主馬を切腹内定状態に持って行った名シーン(漫画ではカット)で、主馬が前田慶次を待ち伏せさせた天然の要害「親不知」。

は、今回、関係ありません(近いのと、一度、行きたかったので、まず、親不知を北陸道で目指して国道8号線を引き返してきた)。
 1182年、京都を脱出した北陸宮は、木曾義仲に属する宮崎太郎長康の庇護下に入り、八幡山こと城山に儀式を行うための御所を建設。ここに富山県内最古の山城「宮崎城」が始まる。
 北陸宮入洛後、承久の変で戦場となり、以来、境関所が江戸時代に設置されるまで、上杉、佐々、前田配下の武将が配置されていた。
 江戸時代に廃城となってから、数百年。今度は、日本軍が電波技術研究所を設置し、能登から佐渡に渡る電波を管理し、連合軍の本土空襲に備えた場所となる。
 現在は、城山公園として一帯は整備されており、訪れた際、家族連れなどが訪れてもいた。オニヤンマと熊は出るけど。
 もっとも、公園駐車場(結構、広い)まで行くには、車一台が通れる道(舗装されてはいる)を登っていくことになる。




 宮崎城本丸跡及び北陸宮御所跡。標高は285m(G-SHOCKによる計測。朝日町のサイトによれば、248m)。冬は、完全に雪に閉ざされる場所であり、日常の御所は別な場所にあったとされている。



 本丸下にある宮。右に見える石碑によれば、北陸宮が元服し、木曾義仲が武運長久を、ここで祈願したという。



 新潟側。親不知を抜けた軍は、宮崎城の眼下を通過することになる。



 富山側。富山から、新潟に向かう軍は、宮崎城の眼下を通過することになる。逆に言えば、宮崎城を抜けると、後はこの平地を前進することが可能となる。



 宮崎城空堀跡。元々、堀だった場所を、陸軍が電波技術研究所を設置する際に埋め立てて道を作った。



 なお、城山公園の少し手前には、NTTの無線中継所があり、今なお、この場所は、電波を管理している。



 二の丸跡。特に見るべきものはない。



 三の丸跡。ここに北陸宮墳墓、宮崎太郎長康供養塔、そして、宮崎城の石塁が残っている。



 三の丸に残る石塁。



 北陸宮墳墓。右にあるのが、宮崎太郎長康供養塔。



 北陸宮墳墓。平家が木曾義仲によって、京都から脱出した後、後鳥羽天皇との継承権争いに敗れ、更に、その木曾義仲が、源義経によって敗死したために支持基盤を失ったことにより、権力闘争から脱落し、54歳で亡くなられた。昭和45年に分骨されて、このゆかりの地に埋葬されたことにより、地方では数少ない中世の皇族の墳墓が設けられた。



 宮崎太郎長康供養塔。北陸宮を保護した後、木曾義仲の下で、倶利伽羅峠合戦の作戦立案を行ったとされる。


 国道8号線から入っていき、細い山道を登っていくことになる。道は整備されているが、対向車が来ると場所によってはすれ違うことが難しい。駐車場自体は広い。駐車場から、城山公園までは徒歩。北陸宮墳墓は、本丸の先にある道を下っていく。

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