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常なる忠誠

LEATHERNECK FAN別館または史跡巡りな話

富山古墳冬景色

2012-01-06 23:51:37 | 古墳(富山市)
 豪雪地帯の古墳巡りも、今の時期は雪に閉ざされる。
 それでも、一応は間近まで行ける古墳はある。
 ということで幾つか巡ってみた。
 まずは標高200mにある王塚古墳。

 積雪は、この近辺なら、大したことの無い40cmほど。
 前の週は、こうだった。

 次に杉谷4号墳。

 林の中にあるため、積雪はそれほどではない。但し、前日は、こうである。

 高岡市の桜谷古墳群。

 雪に包まれた古墳は青空に栄える。
 別アングル。

 二号墳。

 そして、全国でも、おそらく希少な決して雪の積もることのない桜谷三号墳。

 さて、杉谷古墳群の4号と5号の間には杉谷A遺跡がかつてあった。現在は道路になって消失したのだが、1カ所だけ、

 墓地となって方形墓が残っていた。なお、前日は、

 こんな感じだったりする。
 一日で一気に積もる辺りは、さすが豪雪地帯と思う。

鏡坂墳墓群

2011-12-25 02:09:49 | 古墳(富山市)
 王塚・千坊山遺跡群に属する四隅突出型墳丘墓群。
 四隅突出型墳丘墓二基からなる。
 富山県内には呉羽山丘陵古墳群に3基、杉谷古墳群に1基、富崎墳墓群3基、六治古塚墳墓1基、そして、この鏡坂墳墓群に2基の計10基が確認されている。なお、氷見市の余川金谷古墳群に11基ある方墳の一つは未確認ながら、四隅突出型墳丘墓ではないかとされている




 一号墳は一辺24.1m、突出部4m、突出部幅12m、高さ4.8m。



 一号墳突出部。



 二号墳。一辺13.7m、高さ3m、突出部長さ3.75m、突出部幅6m。県内にある中では最小となる。

 問題は、二号墳、放っておくと勝手に削られないか? というのが現状。



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三田古墳

2011-12-13 22:28:46 | 古墳(富山市)
 三田古墳は、呉羽山丘陵にある古墳群では最南端。富崎千里古墳群の1.5kmほど南にあるが、王塚・千坊山遺跡群には含まれていない。
 呉羽山丘陵の古墳で、富崎千里古墳群の11号墳が最南端と思っていたら、少し南に三田古墳があったので、突撃を決意。地図を見る限り、古墳側まで行けないだろうと思ったが、墓地に繋がる山道を車で上っていくと、少し前を走っていた軽トラに乗っていたじいさんが、山道を登っていく。どうやら、行けるらしいと登っていくと頂上は整備された場所で、日露戦争の碑が建っていた。

 大抵、そこまでたどりつけなかったりするのが連続したので、今回はいい意味で裏切られた。
 なお、三田古墳に到達したことにより、県内で呉羽山丘陵東側にある古墳群は全て到達した(柿沢古墳群は再訪しないといけないが)。



 詳細は不明。発掘調査も行われていない。円墳だろう、と思っていたが、形状的には前方後方墳と思われる。標高は190mくらいで、王塚古墳や勅使塚古墳と同程度。



 前方後方墳としたら、後方部。碑は日露戦争記念碑である。先日の坂の上の雲の二百三高地は見事な戦争ドラマだった。異様にしなる銃剣(刺さると危ないしね)とボルトハンドルを起こしたまま発砲する(最近は空砲ではなくデジタルイフェクトで発砲シーンを作る)シーンに気付いてしまったが。



 後方部から見た前方部。削られたのか、形状もいびつではっきりしない。



 古墳の上から眺める景色は、既に樹木に遮られてしまった王塚古墳や勅使塚古墳を上回る。



 古墳に繋がる山道。MyTrackのGPSの記録では70mを登る。一応、道にはなっている、という程度。



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 一応、正規ルートは、南側の道路(墓地に繋がっている)を登っていき、山道の入り口で車を止め(道は狭いが突き当たりは転回用に広い)、山道を登っていく。ただ、北側の道か東の道が山林整備のため、車が通過可能な山道になっているらしく、頂上付近にタイヤの痕跡を発見した。日露戦争の碑の石もそれで運んだと思われる。

小長沢古墳群

2011-12-04 23:27:50 | 古墳(富山市)
 二本榎遺跡の発掘調査説明会で、近くに小長沢古墳があり、墳頂に祠があって地元で金比羅さんと呼ばれている場所は典型的な古墳ですと言われたものの、時間が無いので素通りするしかなかった。しかし、翌日、車検が思ったより早く終わったので車を引き取り後、再訪した。歩いて数分の距離だったし、昨日の帰り道だったよ、と。
 小長沢古墳群は、現存するのは三号墳のみ。GISサイトの発掘調査では、江戸時代の塚、と認定されているが、別なものだろう。
 この古墳と、二本榎遺跡で発見された円墳とどういう関係があるのかが、今後の研究課題らしい。

 なお、撮影中、上空を白鳥の編隊が通過していった。



 小長沢三号墳。西側より、墳丘ははっきりしている。



 墳頂部にある祠。金比羅さんと呼ばれているそうな。で、富山県内で古墳の上に神社や祠がある場合は、大抵そうだが、これも神明社である。



 東側から。東側は農地になっており、これが他の古墳が消失した理由だろう。



 東側は、周溝らしきものが残っているが、削られたようにも見える。



 西側はただの林になっている。ところどころ盛り上がって見えるが、単に切った木を積み上げているだけである。



より大きな地図で 小長沢古墳群 を表示

二本榎遺跡

2011-12-03 20:05:37 | 古墳(富山市)
 富山のファミリーパークから、富山西インターチェンジに繋がる道は、南で途絶えているが、そこをまっすぐ繋げようとする道路工事が計画されている。しかし、その計画地は、さすが呉羽山丘陵だけあって、北から南まで縄文時代の遺跡が連なっている(二本榎遺跡から北へ隣接している)ことから、発掘調査が行われた。
 北に300mいった場所に小長沢古墳群。南へ行けば王塚・千坊山遺跡群があるのだが、ここに古墳があるとは思ってもおらず、まして石室が見付かるとは思ってもいなかった。それが古墳時代後期の円墳を発見し、更には初めてほぼ完全な形の石室が発見されたことになる。

 この付近では、王塚古墳を最後に古墳の築造が途絶えており、この円墳の存在は、空白期間を埋める点でも重要な位置にある。また、近くの小長沢古墳群との関係も、今後の調査、研究の必要性があるという。



 説明会当日は天候が悪く、石室を傷めることから、当初、室内のみで説明が行われた。しかし、途中で雨が止んだことから、シートの一部をめくることは可能となり、外での説明会も行われることになる。



 東部戦線ほどではないが、滑りやすい泥濘の道をくだって発掘現場へ(元々、農地)。



 石室。保護のために良くは見えない。



 周溝。幅1.5m~2.0m、深さ0.2m~0.4m。儀式に使われた遺物が多数発見された。



 石室は南側に羨道(長さ2.0m、幅0.7m)があり、天井石(付近の皆さん情報求むだそう)は失われている物の長さ3.7m、幅1.2mが確認された。棺は既に腐敗して消失。なお、富山県内で石室が発見されるのは、これで7例目である。


 なお、おばちゃんの一人が、「中は見れないんですか?」と意味不明な質問をし、周囲が、「?」となる。どうも、石川県の須曽蝦夷穴古墳散田金谷古墳のようなものとイメージしていたらしい。普通、見て分かるだろ。



 儀式で使われた後、投げ捨てられたと思われる甕や壺の破片が見付かった周溝。



 上部が削られて消失しているが、高さ2m程度の古墳だったとされる。




 発見されたもの。



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