常なる忠誠

LEATHERNECK FAN別館または史跡巡りな話

舞鶴行ってきた。

2011-11-24 23:01:27 | 管理人の独り言
 第365回。
 舞鶴で肉じゃが丼を食い。
 午後から公開の舞鶴航空基地で空くのを待つ。

 車を止めて受付を済ませ、

 サービスの消防車の放水。

 気象観測機器は航空仕様。
 第23航空隊の格納庫へ。

 待ち構えるはSF-60KSuperAuk。
 とSH-60J。






 あと、駐車場近くに停泊していた水中処分母船YDT1とゆら型輸送艦LSU-4172のと。

 自衛隊基地は以上。この後、田辺城へ行き、天橋立は時間間に合わず。で、帰った。
 片道5時間。やはり、高速が途中で途切れると辛い。途中、潜水艦事故で最後まで職務を全うしたことで潜水艦乗りの鏡とされる人物の墓とか、古墳群とかを見たいと思いながらの道程だった。
 取り敢えず、これで呉と舞鶴は見たので、残るは佐世保か。

自衛隊音楽まつり

2011-11-19 00:34:15 | 管理人の独り言
 第364回。
 自衛隊音楽祭。当日、東京で会議があるので試しに抽選に応募したら当選。
 武道館へと向かう。
 自衛隊の各MPの方々勢揃いの中、海兵隊発見。

 今年のテーマは、震災を踏まえて、愛、希望、勇気。

 あまり、いい席ではなかったけれど。

 第3海兵師団音楽隊は、サモン・ザ・ヒーローを演奏し、その後、陸軍軍楽隊と星条旗よ永遠なれ。

 自衛隊は、陸上自衛隊中央音楽隊、海上自衛隊東京音楽隊、航空自衛隊航空中央音楽隊他。

 防衛大学校のドリルチーム。
 海上自衛隊の軍艦マーチで締めはお決まりだけれど、宇宙戦艦ヤマトは熱唱したけれど、もういらないと思うな。




海兵隊236回誕生日

2011-11-10 00:12:27 | 管理人の独り言
 第363回。
 1775年11月10日に創設したアメリカ海兵隊も、今年で236回目の創立記念日を迎えました。
 本館は7年目。
 毎年やっている海兵隊司令官からのメッセージ翻訳。


 これまで十年間、我らの軍団は、アメリカと我らの同盟国の安全を脅かす者たちに対して絶え間ない戦闘任務に携わっていた。我々はイラクのアンバー省と南西アフガニスタンでの今日の成功をの趨勢を見続けることができるよう趨勢を変えた。
 この間、それは代償を伴ったが……我々は誇りに思う多くを得た。
 この過ぎ去った年に、人道的な災害救助、対海賊活動、戦域安全保障協力機構、特殊任務、対反乱及びその他多くを含む、世界全体での任務において諸君はアメリカ軍の即応遠征部隊としての我々の役割を強固にし続けた。大陸会議が236年前に海兵隊の二個大隊を創設してから、常に迅速に、常に能力を有し、勝利をもたらす組織としての我々の遺産は無傷のままである。
 国家への、そして互いへの献身的な職務と忠誠の我々の豊かな遺産は、鷲、地球、そして錨(註:海兵隊の紋章)を現在帯びた全員の中に―海兵隊員らが適切に知る注目すべき勇気、献身と確固とした決意とともに職務への明確な声に応えた者たち―過去のそして現在の―そして特に我らの家族に……。私は、諸君が行ったこと全てと諸君が続ける全てのことへ私の心からの感謝を表す。
 我々が我々の236回目の誕生日を祝うように、彼らが将来どんなことに挑戦するかを期待しよう―そして、アメリカの最初の危機即応部隊であるという我らの誓いを再確認しよう。最初に戦うこと……常に最も困難でやりがいのある任務のための準備をしよう。
 236回目の誕生日おめでとう。海兵隊員!
 常なる忠誠を。
 ジェームズ・F・エイモス合衆国海兵隊大将

皇祖皇太神宮

2011-11-07 20:57:59 | ムー系?
 日本におけるオカルトを語る上で欠かせないのが、竹内文書。キリストが日本に来ていた説の発端でもあり、宝達志水町が三つ子塚古墳群をモーゼの墓にしてしまった由緒正しい怪文書である。
 元々、戦前、弾圧された一方で割と軍人などからの支持もあったりした新興宗教で、なにげに戦前戦後揃って弾圧された唯一の新興宗教だったりもする。
 どんなものかは、秦郁彦氏の「昭和史の謎を追う(下)」に詳しい。
 現在本山は、茨城県北茨城市磯原にあるが、開祖竹内巨麿の出身が、富山県である。




 県道59号線にある看板。ここから先が割と長い。



 実際の入り口。

 肝心な入り口に目立つ標識類がない。



 ここから、山道を登る。一年前に撮影した写真を見たら、ほぼ同じ場所で、この山道を撮影していた。



 去年訪れた際にはなかった看板。山道の途中に立てても、あまり意味が無いような気がする(一本道だし)。



 山道を登って行くと鳥居が見える。



 祭っている神々。



 奥には謂われを記した説明板と祠がある。




 帰りに発見したミステリーサークル。



より大きな地図で 皇祖皇太神宮 を表示
 実は学生時代、磯原にある本山を何度も目にしていたのだが、当時はただの神社と思っていた。なお、磯原の本山裏には横穴墓群があるように、富山のこの一帯も呉羽山丘陵古墳群になっている。警察が手入れをした際に保有していた神宝は、系図も含めて偽造であることが出所とともに判明したが、もしかすると古墳の遺物が含まれていたかもしれない。


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大峪城

2011-11-06 00:31:41 | 史跡
 大峪城(おおがけじょう)は、豊臣秀吉軍が佐々成政の富山城を攻めた1585年に、本陣を呉羽山(最高峰となる城山)の白鳥城へ置いた際、前進基地として安田城とともに構築された。前田利家の家臣、片山伊賀守が詰めたことから、伊賀城とも呼ばれる。
 安田城のようにはっきりとは残っていないが、本丸跡の高台は残っている。




 本丸跡には、五幅小学校の校舎が建っている。二の丸のあった東側(大学側)に最大幅14m、最深部3.5mの堀と土橋があったことが確認されている。



 同年、前田利家の軍に敗れた佐々成政は、剃髪して服従の意思を示した。現在、その地である富山民族民芸村の考古資料館前に剃髪の碑が立っている。



大きな地図で見る
 本丸跡は、現在、五幅小学校の校舎が建っている。城跡自体が小学校なので、呉羽三ツ塚古墳と並び、普通に写真撮っていると不審者扱いされかねない史跡の一つである(もっとも、こちらは説明板があるのでまだいい)。
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 花の慶次で描かれたのが、前年の末森城合戦。モーゼパークの真横に位置する。