常なる忠誠

LEATHERNECK FAN別館または史跡巡りな話

大峪城

2011-11-06 00:31:41 | 史跡
 大峪城(おおがけじょう)は、豊臣秀吉軍が佐々成政の富山城を攻めた1585年に、本陣を呉羽山(最高峰となる城山)の白鳥城へ置いた際、前進基地として安田城とともに構築された。前田利家の家臣、片山伊賀守が詰めたことから、伊賀城とも呼ばれる。
 安田城のようにはっきりとは残っていないが、本丸跡の高台は残っている。




 本丸跡には、五幅小学校の校舎が建っている。二の丸のあった東側(大学側)に最大幅14m、最深部3.5mの堀と土橋があったことが確認されている。



 同年、前田利家の軍に敗れた佐々成政は、剃髪して服従の意思を示した。現在、その地である富山民族民芸村の考古資料館前に剃髪の碑が立っている。



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 本丸跡は、現在、五幅小学校の校舎が建っている。城跡自体が小学校なので、呉羽三ツ塚古墳と並び、普通に写真撮っていると不審者扱いされかねない史跡の一つである(もっとも、こちらは説明板があるのでまだいい)。
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 花の慶次で描かれたのが、前年の末森城合戦。モーゼパークの真横に位置する。

蜆ヶ森貝塚

2011-10-20 00:33:17 | 史跡
 2010年には小竹貝塚で71体の遺骨が発見されて話題になった。
 その小竹貝塚から東へ800mほど行った場所に白髭神社(祭神武内宿彌)がある。江戸時代の伝承では、姉倉姫命が機を織っていたところ、蜆が蝶となって手助けし、大沢野の舟倉山へ帰るときもついてきたという。
 上記のように江戸時代には、既に内陸の地となっていたが、縄文時代(5000年から6000年前)の、この地は小竹貝塚と共に放生津潟の縁に存在し、蜆ヶ森の宮とかつては呼ばれ、1953年と1981年の調査で蜆(主にヤマトシジミ。5500年前)や獣の骨、石器、蜆ヶ森土器と呼ばれる遺物などが発見された。




 蜆ヶ森貝塚遠景。この道を更に進むと日本海側最大の規模を誇る小竹貝塚がある。



 今でも、このように貝殻が散乱している。



 蜆ヶ森貝塚を示す唯一の標識。



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蜷川城跡

2011-10-16 01:03:53 | 史跡
一休さ~ん! 一大事でござる~!
 富山県には多数の城跡があり、蜷川城もその一つ。
 元々、物部氏の流れを汲む宮道氏が、この地を拝領した際に地名から蜷川氏を名乗るようになり、以降、家系は続いて、格闘家の武蔵も、その一族だったりする。
 1506年に神保氏によって落城。1582年には上杉軍により焼失(同年に魚津城の戦いがあった)した。
 さて、この一族、代々、新右衛門を名乗っているのだが、三代目が蜷川新右衛門親当。
 アニメ一休さんの主要メンバーの一人「新右衛門さん」のモデルである。

 現在は最勝寺となっている。元禄時代に寺領となるが、1864年に火事で焼失し、再建され現在に至る。



 北側の土塁跡。現在は土塁のみが残る。




 二の丸があったとされる場所は、現在、健康増進センターになっている。



 大手はここだった模様。



 西側の土塁跡。




 特に説明はないが、おそらくこれが蜷川氏の墓碑。このうちの一つが蜷川新右衛門親当のものである。あのアニメ一休さんの登場人物である新右衛門さんのモデルとなった人物である。



 十年に一度見られる仏像と、

 火消し地蔵がある。上記のように再三焼けているわけで。



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 一応、駐車場はある。
 Wikipediaで、一休禅師の項目を見ていて、ふと、アニメの一休さんを読み、新右衛門さんを見たら、菩提寺がここだと知ったので行ってみた次第。
 実際には違うにせよ、富山から京まで、
「一休さ~ん! 一大事でござる~!」
 と駆け付ける新右衛門さんは、かなり、シュールかもしれない。

生地台場

2011-07-18 02:27:27 | 史跡
 1851年、加賀藩が海岸防衛のために10月から11月にかけて着手し、完成させた砲台跡地。現在は、本物の台場の上に当時の設計図を元にして再現されている。




 全長63m、幅8m。



 砲眼。



 置かれた砲の再現物。



 見ての通り、臼砲。設置する砲を間違えていないか。



 北側から。



 もう一門が砲眼に設置されている。



 前方から。



 南西側から正面。



 おまけ。東京湾の大房岬にある同じ目的で作られた砲台跡。



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 一応、黒部市の観光名所ではある。近くに県内で最も高い灯台もある。

金城霊沢

2011-06-06 00:17:33 | 史跡
 百万石祭りが行われるので、ついでに金沢の地名の元になったという金城霊沢に行ってみる。兼六園は、こちらに来てから、何度も行っているのだが、金城霊沢は二度目である。

 百万石祭りの利家入城パレードに大分時間があるので徒歩で移動。
 しかし、金沢行くたびに15キロ前後を歩いているのはなぜだろう?
 なお、同じコースを歩いても一時間程度なのだが、パレードはゆっくりと2時間をかけて進行。途中、問題発生により、3時間かかることになる(金沢城公園で加賀鳶の演技をしている人が落ちて救急搬送された。救急車のサイレンが聞こえたのは、そのせいだったか、と帰ってから知る)。

 由来。芋掘藤五郎と呼ばれる人物が、砂金を洗ったことで、「金洗沢」から、金沢になったと説明がされている。調べたところ、貰った砂金の詰まった袋で鳥を捕ろうとして、呆れた妻が咎めると、「そんなの芋掘ってればでてくる」と芋を掘り起こして洗ったところ、砂金が出てきて、価値を知る妻の助言もあって裕福になったそうだ。現在、彼にちなんだ神社が金沢市にある。



 藤五郎が砂金を洗ったとされる泉は、第12代藩主前田斎広の隠居所が建てられた際に整備され、屋根が設けられた。



 奥にある鳳凰山。12代藩主斎広隠居所建設の際、奇岩を集め、鳳凰の形に築山したものなのだが、これ、古墳じゃね? と思ったのが、今回のネタ。



 洞の中にある石碑。碑文の内容から、実は金属の精錬所だったのでは? という説をあげている方もいる。

 洞内天井。石室の作りは、何となく古墳を臭わせる。


 
 鳳凰山東側から。兼六園の敷地内であるから、築山だろうとは思っていたが、立地条件などから考えると、なにげに古墳が構築されていてもおかしくない場所だったりする。



 築山として、古墳を再利用する例は幾つかあり、この鳳凰山もその可能性がある。芋堀の芋は、要するに自然薯のことだが、これが天然の金塊を意味し、籐五郎は、山師だったのではと言う説を前述の金属の精錬所説をあげている方は上げていた。なので、ここは一つ、籐五郎「盗掘師」説などと言ってみたりする(籐五郎、奈良時代初期の人物だそうだが、この時期、富山県内最大の前方後方墳である柳田布尾山古墳が盗掘されているので、この地域でも盗掘は、立派なビジネスとして成り立っていたと思われる)。



 隣接する盛り上がり。



 向かいにある津田玄播屋敷跡。入り口部分のみ公開され、内部は公開されていない。それもそうで、この部分は当時の屋敷を移築したものだが、建物自体は事務所になっている。
おまけ
 百万石祭りのメインイベント、利家入城パレード。今年は、事故があったことから、予定が遅れ、参加者の疲労は濃かった。そんな中、おそらく、前田家が誇る最新技術を駆使して作られた輿に乗って、お松(演じるは藤谷美紀。予定が大幅に遅れる中、それでも笑顔を絶やさない辺りはさすがである)の方が到着。

 江戸時代に、既に、燃焼式駆動装置を装備した輿を用いている辺り、さすが百万石を誇る大藩は違う。



 武者行列の方々。



 一番のメイン、村上弘明演じる前田利家。なお、周囲を固めていたのは、陸上自衛隊第14普通科連隊の方々だったりする。



 パレード最後に入城する赤母衣集。



 当日は兼六園の無料開放も行われている。



 金沢城公園で行われた能。
 何はともあれ、金沢市渾身の祭りだけ会って、実に盛大だった。
 なお、さりげなく、石田純一が歩いていたりした。やっぱり、素足靴だった。