やっと自分の家に帰ってきて、奥さんに「くさい、くさい」を連呼され、荷物はすべて洗濯してもらい、リュックも太陽干しして、自分もシャワーをして、少しはリフレッシュできたかというと、それなりにはしたけれど、逃げようのない暑さで、小さくダラリと午後から過ごしました。
自分の家に戻ったら、ご愛用カメラも機嫌が治って、シャッターが降りるようになりました。やはり、うちのカメラは内弁慶で、あまり遠くに連れ出すと、すぐに機嫌が悪くなってしまうようです。
もうこれから、遠くには連れ出さないで、近くのものを撮るようにします。暑いところにも連れて行ったらいけない。そういうことにします。
二年前の夏、ひとりで山陰の方へクルマで行きました。城崎温泉、餘部鉄橋、鳥取砂丘、倉吉の白壁の町、境港、米子、出雲大社、そういうところをめざして旅してみました。
その時に、鳥取県の名和神社というところを訪れたんですけど、ここは、南北朝の動乱の時、最初の頃に鮮烈に現れた名和長年さん、彼は後醍醐天皇を隠岐から救い出し、そのまま都へ進出する力になった人でした。
明治時代になり、南朝方の人々を顕彰しようと、政府の力で各地に神社が作られました。人々が求めたのではなく、お上から与えられた神社でした。後醍醐天皇さまは吉野神宮(1889・M22)。楠木正成さんは湊川神社(1872・M5)。新田義貞さんは藤島神社(1876・M9)。北畠親房・顕家さんは北畠神社(1643・寛永20)。という風にみんな神様としてまつられています。
北畠さんちは、その後の一族全体も戦国末期までは続いていたわけだし、伊勢の国で有力な一族であり、信長さんと長い戦いもあったはずで、その由来もあるので少し早くからおまつりされてたりします。
その流れで、名和長年さんは1677・延宝5年にお社が建ったということでした。鳥取のお殿様の池田光仲さんからのご指示もあったようで、土地のいろんな歴史を大事にする流れがあったんでしょう。
前回は、せっかく訪ねたのですが、だあーれもいない、真夏のお昼で、とても人がいる気配もありませんでした。けれども、拝殿で御朱印を置いてくださっているのを発見し、いただいてこれたのです。これはすごいことでした。二年越しの願いがやっと叶いました。
私って、南朝方支持? というと、そうではなくて、後醍醐天皇さまは、時代錯誤の方ですし、天皇親政が武士の世に実現できるわけもなくて、北朝に吸収されたのは仕方がないと私は思うのです。
だけれども、滅びていった人たちへの哀惜の念はあって、そういうゆかりの土地を訪ね、こういう町から都会へ出ていった人の歴史をたどりたい、そういう気持ちで行かせてもらっています。
幸い、三重県には結城神社(結城宗広さん)と北畠神社があり、少しずつ行かせてもらっていて、やっと六つめになりました。あと九つあるみたいだから、気長に訪ねていきたいと思っています。
そんな、私の神社参りなんてどうでもいいのだけれど、今後の楽しみの一つですね。ボチボチ行きたいです。