甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

チェ・ゲバラさんの広島訪問 1959

2020年08月07日 04時18分28秒 | 戦争と平和

 『モーターサイクル・ダイアリーズ』(1951)のことで、ゲバラさんについて書きました。さっきヤフーニュースを見ていたら、ゲバラさんは31歳の時、キューバ政府の高官として日本を訪問したそうです。私は、そんなことがあったなんて、知らなかった。

 キューバ革命達成から半年して、世界各地を親善訪問させてもらったそうです。革命はできたけれど、国を興すには産業も必要だと思われたんでしょう。まだ31歳だったそうです。

 調べてみたら、1928年生まれだから、うちの父より二つ年上でした。そうだったのか。父と同じくらいの歳ということは、息子さんは私と同年代ということになるんでしょう。何だかビックリです。そういう人が世界にごまんといるでしょうけど、そういう関係性だったのだ、というのを改めて感じます。……あれ、この「ごまんと(非常に)」という言葉、語源なんでしょうね? 五万ではないでしょうし、誰が言いだしたんだろう?……。



 当時の大阪も訪問し、工業化の進む大阪を視察し、キューバに生かせるもの、関係性を持ちたいものなど、見てまわったようです。当時は産業・工場が盛んに作られていたでしょうね。それから、全日空機で広島に向かったということです。同行した人が夜行列車に飛び乗ったと証言しているので、そちらの説もあるみたいだけど、だったら、どんな列車? 何号? と、そっちも気になるんですけど、たぶん、飛行機だったんでしょう。

 政府高官なので、広島県でも担当者がついて、あちらこちら案内もしたみたいで、広島を訪問し、人々の苦しみを感じ、これからに生かしたいというゲバラさんの思いは通じたと思うんです。とにかく、ゲバラさんのフットワークの軽さ、その行動力と意志力にも感心しました。もともと行きたいと思い、現地でそれを実現させるのだから、対応する方としても、ぜひ見てほしい、発信してほしいという気持ちに通じると思う。

 短い時間で広島の記念館や赤十字病院などをまわり、知事さんとも話をしたり、献花もしたり、やれるだけのことはしたみたいでした。



 でもそれも、やはり意志があるから、それを実践せずにはいられなかったでしょう。意志がなければ、淡々と外交日程をこなすだけだけど、もし何も意志を伝えなかったら、千鳥ヶ淵で戦没者の慰霊をさせられるところだったそうです。危ない、危ないです。当時の通産相の池田勇人さんも、若きキューバの指導者の無手勝流にはビックリしたのかな。

 広島では、奥さんにもハガキを書き、写真もとり、新聞の取材も受けた。そして、彼は言うのです。

 「どうして君たちは、こんなひどいことをされて黙っているのか?」
「どうして、アメリカに謝罪を求めないのか?」「人々は、こんな苦しみをどんなふうに乗り越えたのか?」「君たちは、ここからどんな教訓を得て、これからに生かしていこうとしているのか?」

 ゲバラさんは、根源的なところにすぐに突き進み、おかしければ、それを取り除くこともいとわない、人の苦しみを取り除けるなら、とことんそのための努力をし、やれる手助けはすべてするし、言ってはいけないことも、とことん言ってしまえる人でした。

 どうして、日本人は、これほどの苦しみに関して、沈黙し、何も言わないのか。

 ゲバラさんは、何とかしてあげたいと思ったでしょう。それは、日本の人たちがやるべきで、ゲバラさんの仕事ではないかもしれない。でも、世界の人は、それを知るべきだし、核兵器の恐ろしさをみんなに伝えるべきだ、これは恐ろしいことだ、そう心に刻んだことでしょう。

 なんて、さわやかな人なんだろう。なんて、とことん突き進む人なんだろう。お医者さんって、こういう真面目で、熱心で、さわやかで、みんなを支えようとしてくれる人、いるんですね。

 ここからあと八年後には、彼は暗殺されてしまうのですが、あまりに正直すぎるし、無防備すぎるところもありました。でも、私たちは、彼の生きた道を忘れずにたどりたいなと思うんです。

 危なっかしいけど、私なりのアプローチで、彼のあとをついて行きたいのです。

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