40年ぶりくらいに、漱石の「草枕」を読んでいます。もっと軽いノリかなという印象でしたが、わりとカタイ感じです。一生懸命に考えたことを次から次と語っています。
だから、そんなに物語としては進みません。
熊本の温泉に来ていますが、お客は私ひとりだけ。女主人はあやしい人で、フワフワしている。結婚したのか、どうだったのか、別れた亭主・男がいるということで、時々近所の人たちのうわさになり、それを私は聞かせてもらうのですが、なんともとらえどころがない。
近所の理髪店の親方なぞは、あの女主人は少しおかしい、というのをもっとストレートにしゃべったりします。そんな女と私はこれからどう関わっていくのか、ネットで見てみたら、少し変わった結末がある、ということですが、全く記憶にないですね。
そりゃもう、40年ぶりですから、読んでないのと同じです。それにしても昔の私は、これを理解して読んだのかどうか、それが少しだけ不安ではありますが……。
またこう感じた。うつくしき人が、うつくしき眠りに就いて、その眠りから、さめる暇もなく、幻覚(うつつ)のままで、この世の呼吸(いき)を引き取るときに、枕元に病(やまい)を護(まも)るわれらの心はさぞつらいだろう。
四苦八苦を百苦に重ねて死ぬならば、生甲斐(いきがい)のない本人はもとより、はたに見ている親しい人も殺すが慈悲と諦(あき)らめられるかも知れない。しかしすやすやと寝入る児に死ぬべき何の科(とが)があろう。眠りながら冥府(よみ)に連れて行かれるのは、死ぬ覚悟をせぬうちに、だまし打ちに惜しき一命を果(はた)すと同様である。
どうせ殺すものなら、とても逃(のが)れぬ定業(じょうごう)と得心(とくしん)もさせ、断念もして、念仏を唱(とな)えたい。死ぬべき条件が具(そな)わらぬ先に、死ぬる事実のみが、ありありと、確かめらるるときに、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と回向(えこう)をする声が出るくらいなら、その声でおういおういと、半ばあの世へ足を踏み込んだものを、無理にも呼び返したくなる。
仮りの眠りから、いつの間とも心づかぬうちに、永い眠りに移る本人には、呼び返される方が、切れかかった煩悩(ぼんのう)の綱を無暗(むやみ)に引かるるようで苦しいかも知れぬ。慈悲だから、呼んでくれるな、穏(おだ)やかに寝かしてくれと思うかも知れぬ。
それでも、われわれは呼び返したくなる。余は今度女の姿が入口にあらわれたなら、呼びかけて、うつつの裡(うち)から救ってやろうかと思った。しかし夢のように、三尺の幅を、すうと抜ける影を見るや否や、何だか口が聴けなくなる。今度はと心を定めているうちに、すうと苦もなく通ってしまう。
なぜ何とも云えぬかと考うる途端に、女はまた通る。こちらに窺(うかが)う人があって、その人が自分のためにどれほどやきもき思うているか、微塵(みじん)も気にかからぬ有様で通る。面倒にも気の毒にも、初手(しょて)から、余のごときものに、気をかねておらぬ有様で通る。今度は今度はと思うているうちに、こらえかねた、雲の層が、持ち切れぬ雨の糸を、しめやかに落し出して、女の影を、蕭々(しょうしょう)と封じ了(おわ)る。
私たちは無駄な抵抗をよくします。もうどうにもならないものを、あえて呼び返そうとしたり、こちらを振り向かせようとしたり、いきなり揺さぶったり、いろんな手を使って呼び返そうとする。
でも、それらは大抵むだなことで、何も解決策にはならない。ただ本人の自己満足で呼んでいる。
でも、呼ばれる方は、少しは心が楽になるような気がする。とてもしんどいのはしんどいのだけれど、あまり何にも目には入らないけれど、とりあえず何か自分から働きかけたくなるだろうし、ことばを残そうとでもするかもしれない。
私は、「草枕」って、のんびりした小説だと思っていたのに、詩と死が同時に語られていたんだな、というような気がしてきたのです。
少しナーバスになっているけど、それくらい神経をとがらせてやっていきたいなと思います。何となく疲れるけれど、この緊張でしばらくは乗り切らなくちゃ!
だから、そんなに物語としては進みません。
熊本の温泉に来ていますが、お客は私ひとりだけ。女主人はあやしい人で、フワフワしている。結婚したのか、どうだったのか、別れた亭主・男がいるということで、時々近所の人たちのうわさになり、それを私は聞かせてもらうのですが、なんともとらえどころがない。
近所の理髪店の親方なぞは、あの女主人は少しおかしい、というのをもっとストレートにしゃべったりします。そんな女と私はこれからどう関わっていくのか、ネットで見てみたら、少し変わった結末がある、ということですが、全く記憶にないですね。
そりゃもう、40年ぶりですから、読んでないのと同じです。それにしても昔の私は、これを理解して読んだのかどうか、それが少しだけ不安ではありますが……。
またこう感じた。うつくしき人が、うつくしき眠りに就いて、その眠りから、さめる暇もなく、幻覚(うつつ)のままで、この世の呼吸(いき)を引き取るときに、枕元に病(やまい)を護(まも)るわれらの心はさぞつらいだろう。
四苦八苦を百苦に重ねて死ぬならば、生甲斐(いきがい)のない本人はもとより、はたに見ている親しい人も殺すが慈悲と諦(あき)らめられるかも知れない。しかしすやすやと寝入る児に死ぬべき何の科(とが)があろう。眠りながら冥府(よみ)に連れて行かれるのは、死ぬ覚悟をせぬうちに、だまし打ちに惜しき一命を果(はた)すと同様である。
どうせ殺すものなら、とても逃(のが)れぬ定業(じょうごう)と得心(とくしん)もさせ、断念もして、念仏を唱(とな)えたい。死ぬべき条件が具(そな)わらぬ先に、死ぬる事実のみが、ありありと、確かめらるるときに、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と回向(えこう)をする声が出るくらいなら、その声でおういおういと、半ばあの世へ足を踏み込んだものを、無理にも呼び返したくなる。
仮りの眠りから、いつの間とも心づかぬうちに、永い眠りに移る本人には、呼び返される方が、切れかかった煩悩(ぼんのう)の綱を無暗(むやみ)に引かるるようで苦しいかも知れぬ。慈悲だから、呼んでくれるな、穏(おだ)やかに寝かしてくれと思うかも知れぬ。
それでも、われわれは呼び返したくなる。余は今度女の姿が入口にあらわれたなら、呼びかけて、うつつの裡(うち)から救ってやろうかと思った。しかし夢のように、三尺の幅を、すうと抜ける影を見るや否や、何だか口が聴けなくなる。今度はと心を定めているうちに、すうと苦もなく通ってしまう。
なぜ何とも云えぬかと考うる途端に、女はまた通る。こちらに窺(うかが)う人があって、その人が自分のためにどれほどやきもき思うているか、微塵(みじん)も気にかからぬ有様で通る。面倒にも気の毒にも、初手(しょて)から、余のごときものに、気をかねておらぬ有様で通る。今度は今度はと思うているうちに、こらえかねた、雲の層が、持ち切れぬ雨の糸を、しめやかに落し出して、女の影を、蕭々(しょうしょう)と封じ了(おわ)る。
私たちは無駄な抵抗をよくします。もうどうにもならないものを、あえて呼び返そうとしたり、こちらを振り向かせようとしたり、いきなり揺さぶったり、いろんな手を使って呼び返そうとする。
でも、それらは大抵むだなことで、何も解決策にはならない。ただ本人の自己満足で呼んでいる。
でも、呼ばれる方は、少しは心が楽になるような気がする。とてもしんどいのはしんどいのだけれど、あまり何にも目には入らないけれど、とりあえず何か自分から働きかけたくなるだろうし、ことばを残そうとでもするかもしれない。
私は、「草枕」って、のんびりした小説だと思っていたのに、詩と死が同時に語られていたんだな、というような気がしてきたのです。
少しナーバスになっているけど、それくらい神経をとがらせてやっていきたいなと思います。何となく疲れるけれど、この緊張でしばらくは乗り切らなくちゃ!