
弟の家族は、熊野地方へキャンプに行っているようです。私の家族は、そんなこんなでまた三重県に帰ってきました。もっと大阪に滞在の予定でしたが、母が帰れというので、それでは帰ろうと仕方なしに帰って来ました。
だから、ブログは休みになりませんでした。なかなか休みにならないですね。というか、これはここしばらくの楽しみなので、写真ファイルがいっぱいになるまでやりつづけましょう。
ヤフーのブログがダメで、gooのデータがパンクしたら、次はどこへ行けばいいんでしょうね。まあ、いいですね。あとしばらくはgooにいればいいわけだから、パンクしそうになったら、また考えることにします。
というわけで、弟家族にちなみまして、熊野の中上健次さんを取り上げることにします。
柳町光男監督と一緒に作り上げた「火まつり」に関して、インタビューをされ、中上さんが語っています。1960年頃、そのころにも熊野では何かがあったらしいです。中上さんはいくつだったのでしょう。
中上 なんせ紀勢線(東線)が開通したのが……、浅沼稲次郎が死ぬ1年ぐらい前に熊野市へ来てんのよ。映画(「火まつり」)の中で、紀勢線が開通するじゃない? あのときにワーッと日の丸を振っている。あれが浅沼稲次郎の刺殺される1年前なんですよ。あのときに、浅沼はこっちへ来て講演してる。
――浅沼稲次郎が殺されたのは昭和35(1960)年の10月12日。
中上 だから34(1959)年に来てますよ。で、みんな提灯行列をしている。それがさながらデモというふうに見えたりするんだけどさ、映画の中で。
――35年に浅沼さんは社会党の委員長になっている。だからここへ来たときはまだ書記長だった。
中上 だから書記長のときにここへ来て講演して、その1年後に刺殺されてたんですよ。そういう、まさに変化の状態ですね。浅沼さんが殺されたときに、ぼくは中学2年ぐらいだったかな。
――殺した山口二矢(おとや)は17歳でした。
中上 ぼくは中2だった。なんせ、それで紀勢線が全部通じたんです。すごく遅れてるね。遅れてるというか、やっと汽車が開通したというか(笑)。
そのときはまだ矢ノ川峠(やのことうげ)なんか自動車道が通ってなかったじゃないかな。クルマで来ると分かるんだけど、尾鷲と熊野市の間にものすごく大きな峠があるわけよ。難所でね、矢ノ川峠というんだけど、上のほうにオオカミが出た。その後もオオカミがいたはずですよ、その時代は。
紀勢線が開通して、その後だいぶたってからトンネルを掘って、まあ道ができた。そのあたりでオオカミが消えた。新宮市の次が熊野市でしょう。その隣が尾鷲でしょう。尾鷲と熊野市の真ん中に峠があるわけ。
――最後のニホンオオカミがいた。
中上 まあ熊野だからね、ニホンオオカミ、まだいるんじゃない?
――紀勢線ができてオオカミがいなくなっちゃった。
中上 紀勢線がついてもまだオオカミはいたんですよ。矢ノ川峠ってのはさ、昔、うちのいちばん上の姉なんかが名古屋の先の一宮へ――紡績だね、女工哀史だけどさ(笑)――
働きに行くときに、まず熊野市、昔、木本(きのもと)って言ったんだけど、木本まで汽車で行って、そこで降りるんですよ。(紀勢線が)通ってないからさ。降りて、バスに乗り換えて矢ノ川峠をずうっと登って、ものすごく高い難所を、もうほんとものすごい急な道を峠のいちばん上へ行って、そこでまた別なバスに乗り換えておりていって尾鷲へ行って、尾鷲からまた汽車か何かに乗り換えるんだと思うんですよ。
このあたりのブロックは当時ずうっと通じてなかったの。それが今はバスがなくなった。トンネルが通ったでしょう。誰でも行けるという状態だし、汽車も全線通った。高度成長のおかげですよね、道を全部つけなくちゃいかんという……。
もう20年くらい前、友人のクルマで、旧道の矢ノ川峠に行ったことがあります。尾鷲側から上り、茶屋があったところまで行きましたが、熊野側にはクルマでは降りられないようになっていました。道が崩れたか何かでした。それくらい、昔の古い道なのに、放置としているとすぐに荒れてしまうくらい、行くのに困難な道です。歩いてなら行けるのかもしれませんが、その手前まで行くのも大変です。
もう荒れまくっていることでしょう。熊野の自然環境って、ものすごく自然に飲み込まれやすいのです。人はどんどんいなくなるし、台風や風雨は激しいし、税金はあまりこちらに回ってこないですし、あまり古い道を復活させようなどというムダなことは誰もしないようです。
それなのに、気に入った人なんかは、何度も尾鷲に釣りに出かけたり、イカ釣りのために船を予約したり、何度も何度もキャンプに行く家族だっています。気合いの問題というのか、フィーリングの問題なのか、気に入った人は何度も何度も来ることになるのです。後白河法皇、後鳥羽上皇など、皇族の方だってハマったら何度でも来ています。
確か皇太子さんも何度か電車などで来られています。結婚前だったでしょうか。
その度に、警護の方が出張で来るんですから、警護は大変ですね。今の天皇様は来られたんでしょうかね。たぶん来られたんでしょうね。不思議なショボクレ・荒くれの世界なんですよ、熊野は。
――ちょうど池田内閣が所得倍増論を言っているときですね、昭和35、6年ごろ。
中上 汽車はついているんだけど、海岸沿いにさ、道はまだついてないでしょう。
――船で行くのは……。
中上 船はもっと前。木本から尾鷲まで船で行った。
――それは公共機関みたいなものですか?
中上 なんか乗り換えたんです。それはうちのお袋なんかの時代だよ。たぶん、紀州から時代を見るなんていうのは、そういう具体的なもので見てほしくないでしょうね。
たとえば紀州の歴史をいうと、昭和の初期というか、軍部なんかが政権を取っている時代に、聖地運動というかね、聖なる場所、つまり神様と関係のある土地を広める、顕彰するということで、国が音頭とって、このあたりを大々的に売り出すというか、みんな、それで知ったわけです。
で、新婚旅行ブームがあって、たとえば白浜とか勝浦とか、あの辺は新婚旅行にばんばん来ましたよね。まあ温泉地だからね。ところが、それがいつのまにか来なくなった(笑)。高度成長と共に、そんなへんぴなとこへ行ってもしょうがないじゃないかということで、もっとハワイだとか沖縄だとかへ行くようになるわけでしょう。
そうなると、ここがまた僻地化してくる。発達し始めたなと思って、波がやっとたどり着いたら、今度はまた……。波のたどり着くのが遅かったわけですね。ところが、引いていくのはものすごく早いんですよ。先に引いていって、こう過疎化の波というか、今の国鉄が、赤字路線撤廃とかやっているでしょう。

ぼくなんか東京に行ったときに乗った、あれはね、「紀州」号とか「那智」号とか、そういう名前の急行や寝台車があるんです。寝台車がもう廃止されたんですよ。あれがあれば、寝たまま行って、夜乗って朝着くとか、ものすごく便利なんだけどね。こないだまであったんですよ。それがもうない。たとえば三輪崎だとか宇久井とかいうところに、駅員はいるんだけど、だんだん無人化になってくるんですね。人員整理っていうかね。そういうものが具体的なものとして……。
中上健次さんが紀勢線の寝台車のことを語ってから30年が経過しています。だから、寝台列車があったことを知る世代はものすごく少なくなっています。そして、そんなことは誰も語らず、熊野は世界遺産にはなったものの、どんどん観光日本のレールからは外されているような気がします。
私は、それこそ望むところで、どんどん他の観光地は外国人が押し寄せようとも、こちらは誰からもあまり注目はされないけれど、ものすごく深くてこわいくらいのパワーが隠されているのだと思います。
それを見たい人だけしか見られないかも知れない、貴重なコモリク(隠り国)となっていくでしょう。私は今後、ボチボチ行こうと思っています。さしあたっては、10月中旬にみかんを買いに行こうと思います。コンテナ1杯で千円という信じられないクズみかんがあります。
それに出会いに、あとしばらくしたら、奥さんを連れて行くことにします。
だから、ブログは休みになりませんでした。なかなか休みにならないですね。というか、これはここしばらくの楽しみなので、写真ファイルがいっぱいになるまでやりつづけましょう。
ヤフーのブログがダメで、gooのデータがパンクしたら、次はどこへ行けばいいんでしょうね。まあ、いいですね。あとしばらくはgooにいればいいわけだから、パンクしそうになったら、また考えることにします。
というわけで、弟家族にちなみまして、熊野の中上健次さんを取り上げることにします。
柳町光男監督と一緒に作り上げた「火まつり」に関して、インタビューをされ、中上さんが語っています。1960年頃、そのころにも熊野では何かがあったらしいです。中上さんはいくつだったのでしょう。
中上 なんせ紀勢線(東線)が開通したのが……、浅沼稲次郎が死ぬ1年ぐらい前に熊野市へ来てんのよ。映画(「火まつり」)の中で、紀勢線が開通するじゃない? あのときにワーッと日の丸を振っている。あれが浅沼稲次郎の刺殺される1年前なんですよ。あのときに、浅沼はこっちへ来て講演してる。
――浅沼稲次郎が殺されたのは昭和35(1960)年の10月12日。
中上 だから34(1959)年に来てますよ。で、みんな提灯行列をしている。それがさながらデモというふうに見えたりするんだけどさ、映画の中で。
――35年に浅沼さんは社会党の委員長になっている。だからここへ来たときはまだ書記長だった。
中上 だから書記長のときにここへ来て講演して、その1年後に刺殺されてたんですよ。そういう、まさに変化の状態ですね。浅沼さんが殺されたときに、ぼくは中学2年ぐらいだったかな。
――殺した山口二矢(おとや)は17歳でした。
中上 ぼくは中2だった。なんせ、それで紀勢線が全部通じたんです。すごく遅れてるね。遅れてるというか、やっと汽車が開通したというか(笑)。
そのときはまだ矢ノ川峠(やのことうげ)なんか自動車道が通ってなかったじゃないかな。クルマで来ると分かるんだけど、尾鷲と熊野市の間にものすごく大きな峠があるわけよ。難所でね、矢ノ川峠というんだけど、上のほうにオオカミが出た。その後もオオカミがいたはずですよ、その時代は。
紀勢線が開通して、その後だいぶたってからトンネルを掘って、まあ道ができた。そのあたりでオオカミが消えた。新宮市の次が熊野市でしょう。その隣が尾鷲でしょう。尾鷲と熊野市の真ん中に峠があるわけ。
――最後のニホンオオカミがいた。
中上 まあ熊野だからね、ニホンオオカミ、まだいるんじゃない?
――紀勢線ができてオオカミがいなくなっちゃった。
中上 紀勢線がついてもまだオオカミはいたんですよ。矢ノ川峠ってのはさ、昔、うちのいちばん上の姉なんかが名古屋の先の一宮へ――紡績だね、女工哀史だけどさ(笑)――
働きに行くときに、まず熊野市、昔、木本(きのもと)って言ったんだけど、木本まで汽車で行って、そこで降りるんですよ。(紀勢線が)通ってないからさ。降りて、バスに乗り換えて矢ノ川峠をずうっと登って、ものすごく高い難所を、もうほんとものすごい急な道を峠のいちばん上へ行って、そこでまた別なバスに乗り換えておりていって尾鷲へ行って、尾鷲からまた汽車か何かに乗り換えるんだと思うんですよ。
このあたりのブロックは当時ずうっと通じてなかったの。それが今はバスがなくなった。トンネルが通ったでしょう。誰でも行けるという状態だし、汽車も全線通った。高度成長のおかげですよね、道を全部つけなくちゃいかんという……。
もう20年くらい前、友人のクルマで、旧道の矢ノ川峠に行ったことがあります。尾鷲側から上り、茶屋があったところまで行きましたが、熊野側にはクルマでは降りられないようになっていました。道が崩れたか何かでした。それくらい、昔の古い道なのに、放置としているとすぐに荒れてしまうくらい、行くのに困難な道です。歩いてなら行けるのかもしれませんが、その手前まで行くのも大変です。
もう荒れまくっていることでしょう。熊野の自然環境って、ものすごく自然に飲み込まれやすいのです。人はどんどんいなくなるし、台風や風雨は激しいし、税金はあまりこちらに回ってこないですし、あまり古い道を復活させようなどというムダなことは誰もしないようです。
それなのに、気に入った人なんかは、何度も尾鷲に釣りに出かけたり、イカ釣りのために船を予約したり、何度も何度もキャンプに行く家族だっています。気合いの問題というのか、フィーリングの問題なのか、気に入った人は何度も何度も来ることになるのです。後白河法皇、後鳥羽上皇など、皇族の方だってハマったら何度でも来ています。
確か皇太子さんも何度か電車などで来られています。結婚前だったでしょうか。
その度に、警護の方が出張で来るんですから、警護は大変ですね。今の天皇様は来られたんでしょうかね。たぶん来られたんでしょうね。不思議なショボクレ・荒くれの世界なんですよ、熊野は。
――ちょうど池田内閣が所得倍増論を言っているときですね、昭和35、6年ごろ。
中上 汽車はついているんだけど、海岸沿いにさ、道はまだついてないでしょう。
――船で行くのは……。
中上 船はもっと前。木本から尾鷲まで船で行った。
――それは公共機関みたいなものですか?
中上 なんか乗り換えたんです。それはうちのお袋なんかの時代だよ。たぶん、紀州から時代を見るなんていうのは、そういう具体的なもので見てほしくないでしょうね。
たとえば紀州の歴史をいうと、昭和の初期というか、軍部なんかが政権を取っている時代に、聖地運動というかね、聖なる場所、つまり神様と関係のある土地を広める、顕彰するということで、国が音頭とって、このあたりを大々的に売り出すというか、みんな、それで知ったわけです。
で、新婚旅行ブームがあって、たとえば白浜とか勝浦とか、あの辺は新婚旅行にばんばん来ましたよね。まあ温泉地だからね。ところが、それがいつのまにか来なくなった(笑)。高度成長と共に、そんなへんぴなとこへ行ってもしょうがないじゃないかということで、もっとハワイだとか沖縄だとかへ行くようになるわけでしょう。
そうなると、ここがまた僻地化してくる。発達し始めたなと思って、波がやっとたどり着いたら、今度はまた……。波のたどり着くのが遅かったわけですね。ところが、引いていくのはものすごく早いんですよ。先に引いていって、こう過疎化の波というか、今の国鉄が、赤字路線撤廃とかやっているでしょう。

ぼくなんか東京に行ったときに乗った、あれはね、「紀州」号とか「那智」号とか、そういう名前の急行や寝台車があるんです。寝台車がもう廃止されたんですよ。あれがあれば、寝たまま行って、夜乗って朝着くとか、ものすごく便利なんだけどね。こないだまであったんですよ。それがもうない。たとえば三輪崎だとか宇久井とかいうところに、駅員はいるんだけど、だんだん無人化になってくるんですね。人員整理っていうかね。そういうものが具体的なものとして……。
中上健次さんが紀勢線の寝台車のことを語ってから30年が経過しています。だから、寝台列車があったことを知る世代はものすごく少なくなっています。そして、そんなことは誰も語らず、熊野は世界遺産にはなったものの、どんどん観光日本のレールからは外されているような気がします。
私は、それこそ望むところで、どんどん他の観光地は外国人が押し寄せようとも、こちらは誰からもあまり注目はされないけれど、ものすごく深くてこわいくらいのパワーが隠されているのだと思います。
それを見たい人だけしか見られないかも知れない、貴重なコモリク(隠り国)となっていくでしょう。私は今後、ボチボチ行こうと思っています。さしあたっては、10月中旬にみかんを買いに行こうと思います。コンテナ1杯で千円という信じられないクズみかんがあります。
それに出会いに、あとしばらくしたら、奥さんを連れて行くことにします。