うちにある古い絵ハガキをスキャンしました。これらは古本市で買ったのではなくて、ちゃんと羽黒山のふもとの土産物店で買いました。鶴岡駅に向かうバスを待ってたはずです。日付もメモしてあって、1984年の8月6日の月曜日に買ったそうです。
私たち(当時の彼女、今の奥さんと私)は、はるばると山形まで来ていました。上野発の夜行列車でここまで来ていました。何しにこんなところへ来ていたのか、イマイチ意図は分かりませんでしたけど、東北地方の日本海側、新潟と山形をめぐる旅に出ていました。彼女は高校の修学旅行が東北の日本海側だったそうで、彼女の高校時代の旅をもう一度してみる、みたいな感じだったでしょうか。
絵ハガキの大鳥居は、1929(S4)年に吉岡鉄太郎という方の奉納で作られたそうです。鶴岡からも遠望されるくらいに大きな鳥居だったそうです。庄内平野は真っすぐだし、少し高いところに立てば見えたんでしょうね。
当時としても、着色絵ハガキは珍しくて、変てこなもの好きの私は、とびついて買いました。今売ってたら、三つや五つまとめて買うけど、今では売ってないでしょう。それに、お店があるのかどうか、それさえわかりません。
さあ、芭蕉さんは最上川を下り、そのまま羽黒山へ向かったようでした。
六月三日、羽黒山に登る。図司左吉(ずしさきち)といふ者を尋ねて、別当代(べっとうだい)会覚阿闍利(えがくあじゃり)に謁(えつ)す。南谷(みなみだに)の別院に宿(やど)して憐愍(れんみん)の情こまやかにあるじせらる。
六月三日、羽黒山に登りました。図司の左吉(俳句つながりで、左吉さんは染物業をしていた人だそうです)という者を尋ねて、その案内により別当代(東京の上野の寛永寺がこちらの管理をしていて、その代表の次の人、というんで「別当代」という役職があるようです。でも、こちらでは実質のナンバーワンですね)の会覚(えがく)阿闍梨(あじゃり)にお目にかかる。
阿闍梨は自分たちを南谷の別院に泊まらせて、何くれとあわれみの情を深くこめてもてなしてくださいました。……「あるじする」というのが、「もてなす」「主人として客人を接待する」という意味で使われているんですね!
四日、本坊におい(をゐ)て誹諧興行(はいかいこうぎょう)。
ありがたや雪をかほらす南谷
四日、本坊において俳諧興行をいたしました。私の挨拶の句は、
ああ、尊くもありがたいことです。この南谷の別院には、下界の暑気をよそに、真夏の南風が霊山の残雪の香りを香らせて、清浄の気がみなぎっています。
夏とはいえ、山の中だし、ある程度の標高もあったでしょう。少しは涼しかったかな?
五日、権現に詣づ。当山開闢(かいびゃく)能除大師(のうじょだいし)は、いづれの代(よ)の人といふことを知らず。延喜式(えんぎしき)に「羽州里山(うしゅうさとやま)の神社」とあり。書写、「黒」の字を「里山」となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山といふにや。
五日、羽黒権現に参詣する。当山の開祖能除大師は、いつの時代の人なのか、あきらかではありません。延喜式には、当社のことを「羽州里山の神社」と書いてあります。書写の際に「黒」の字を誤って「里山」としたのでしょうか。
出羽といへるは、「鳥の毛羽をこの国の貢(みつぎもの)に献(たてまつる)る」と、風土記にはべるとやらん。
また、この国を出羽といっているのは、「鳥の毛羽をこの国の貢物として献上したからだ」と『風土記』に書いてあるとかいうことです。
芭蕉さん、一応現地で聞いたことや調べたことなど、旅の豆知識も入れてくれています。でも、そんな文献的なことは、何だかどうでもいいことのように思えてしまうから不思議です。
それよりも、芭蕉さんたちが泊ったという南谷が、実は山の中にあって、クルマの道は通じていないようで、現代では置き忘れられているし、現在のネットの書き込みなどによると、土曜日でも誰も歩かない、しばらくすると廃墟になりそうな所のようでした。
南谷にはお寺としての機能がたくさんあったのだと思われます。でも、それらはみんな明治の初めに取り壊され、そうした歴史もやがては消えて行こうとしている。
たまに、芭蕉さんの句碑を見に行こうという旅人もやって来るかもしれないけれど、ガイドがいないと見に行けないところにあるかもしれない。
羽黒山の神社から麓へと下る道の最後のところに国宝の五重塔がありますが、ここを少し行ったところから道をそれていくと、南谷があるそうです。
そういうことがあったなんて、全く知りませんでした。芭蕉さん、「ありがたや」どころではありません。すべてが消え去ろうとしています。
それは、芭蕉さんの得意とするところではあったろうけど、芭蕉さんそのものの足跡も消えていくかもしれないです。
今度、チャンスがあったら、南谷に行きたいですけど、行けるかなあ。