
三連休、どこにも行かず、庭の片付けもしないでずっと何をしてたんだろう。本さえ読んでないです。テレビは少しだけ見ましたけど、あまり大したことはしていない。まあ、いつものグータラかな。
そんなこと言わないで、金子光晴さんを読みましょう!
――自叙伝について
いつからか幕があいて
僕が生きはじめていた。
僕の頭上には空があり
青瓜よりも青かった。
ここを日本だとしらぬ前から
やぶれた障子が立っていて
日本人の父と母が
しょんぼり畳に坐っていた。
突き抜けた感じと、しっとりした感じ、二つが混ざっていて、金子さんらしいインターナショナルなとこと、狭い範囲のドメスティツクなとことが混ざってる書き始めです。
気づいたら日本に住んでいて、しっかりと生活しているご両親がいて、そこで育ったんですね。昔はみんな貧しかったし、障子だって破けてるところもあるでしよう。ウチは紙魚(しみ)が食べるから、すぐ小さな穴が開きますよ。

茗荷(みょうが)の子や、蕗のとうが匂う。
匂いはくまなくくぐり入り
いちばん遠い、いちばん仄(ほの)かな
記憶を僕らにつれもどす。
おもえば、生きつづけたものだ。
もはやだいたいわかりきった
おなじような明日ばかりで
大それた過(あやま)ちも起こりそうもない。
いくつくらいの詩だろう。ある程度年を取った時の詩なんだと思うんです。そして、そんなにムチャもしないし、これから先は淡々とした毎日が続いている。
振り返ると、いろんなことが思い出され、思い出の方が鮮やかで、今目の前にあることはそんなに大事でないような錯覚を起こしてしまいそう。実は、昔も今も同じように大事だし、同じような時間は流れているはずなのに、昔の方が感度が高かったからか、鮮やかに残ってしまう。

いつのまにか、僕にも妻子がいて
友人、知人、若干にかこまれ
どこの港をすぎたのかも
気にとめぬうちに、月日がすぎた。
そのうち、はこばれてきたところが
こんな寂しい日本国だった。
はりまぜの汚れ屏風に囲われて
僕は一人、焼け跡で眼をさました。
1946年、疎開先の富士山麓の山中湖から吉祥寺に戻って来た時、金子さんは51歳だったそうです。
この詩は『人間の悲劇』1952という詩集に収録されているそうで、57歳の作品だったんですね。
ズタズタになった日本を振り返るには、数年の時間が必要だったんだ。
そう、今、コロナの嵐の中にいるけど、これを落ち着いてみられるようになるには、数年を経過しないといけないのかもしれません。
今は真っただ中にあって、これからどう進むのかわからないのですから。とりあえず、オリンピックは諦めてほしいし、ムダなお金は使わないで欲しい。でも、進んでるからそれは無理なんでしょう。こんな状況なのに、まだあると信じている人たちがたくさんいるみたいです。

こんなになっているのに、それを是としている人がいたり、非としている人もいる。渦中にある時は自分が見えない。そんなの当たり前だ。
そういうことなんですね。
★ 今日のお昼、「レ・ミゼラブル」見なくっちゃ!