
「かたちの無い風を追いかけてどこへだって流されて行けるよ…中略…静かに息をしている、いとおしいグレイ」
(篠原美也子『ありふれたグレイ』 1994年 より引用)
先週の朝、10月1日金曜日と10月2日土曜日、不意に、歌詞を引用した篠原美也子の曲、『ありふれたグレイ』が聴きたくなった。
何と無くもやついていた…という理由からなのか、自分の身に起きた話なのによく解らない。そう解らない。
自分という存在があっても、埋もれて行ったり、希薄化していったりして、あるんだかないんだか、何か解らなくて、何もかもが何かうまく行かなくて、凹んだり憂鬱になりはしても、唯一、はっきりしている事がある。それは、今確かに自分はここに居て、息をしているということ、心臓の鼓動は続いているということ、ぼやけたような存在になっても目で見て耳で聴いて感じ、心で何かを想い感じている何という事の無い私が居るという事が確かな事。それを持ち出して何になろうというのか解りはしないが、何かをしようとする「体と心」は今ここにあって動いている。ぼやけて灰色の世界に居たとしても。
(篠原美也子『ありふれたグレイ』 1994年 より引用)
先週の朝、10月1日金曜日と10月2日土曜日、不意に、歌詞を引用した篠原美也子の曲、『ありふれたグレイ』が聴きたくなった。
何と無くもやついていた…という理由からなのか、自分の身に起きた話なのによく解らない。そう解らない。
自分という存在があっても、埋もれて行ったり、希薄化していったりして、あるんだかないんだか、何か解らなくて、何もかもが何かうまく行かなくて、凹んだり憂鬱になりはしても、唯一、はっきりしている事がある。それは、今確かに自分はここに居て、息をしているということ、心臓の鼓動は続いているということ、ぼやけたような存在になっても目で見て耳で聴いて感じ、心で何かを想い感じている何という事の無い私が居るという事が確かな事。それを持ち出して何になろうというのか解りはしないが、何かをしようとする「体と心」は今ここにあって動いている。ぼやけて灰色の世界に居たとしても。
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